放課後、四階の音は名前を呼ぶ

 週が明けた朝、教室の空気は思っていたよりずっと普通だった。

 文化祭の飾りはほとんど外され、廊下の壁にはテープの跡だけが薄く残っている。教室の後ろに積まれていた段ボールも片づけられ、机の並びはいつもの列へ戻っていた。
 たった数日前まであんなに騒がしかったのに、もう学校は何事もなかったみたいに、日常の速度へ戻り始めている。

 しずるは自分の席に座って、その“何事もなさ”を少しだけ不思議に思った。
 旧校舎四階で起きたことも、全校放送も、自分の中ではまだ終わったばかりの出来事なのに、窓の外の朝の光はあまりにもいつも通りだった。
 それでも、怖さとは少し違う静かな緊張が残っている。
 今日は本当に、ちゃんとここにいるのだろうか。
 まだどこか薄いままなのではないか。
 そういう不安が、完全に消えたわけではなかった。

 担任が出席簿を持って教室へ入る。
 ホームルーム前のざわめきが少しだけ静まり、椅子を引く音が止まった。しずるは無意識に指先を握る。
 自分の名前が来るまでの数十秒が、今日はやけに長い。

 「相沢」

 「はい」

 「有田」

 「はい」

 ひとりずつ、いつもの調子で名前が呼ばれていく。
 しずるは出席簿の流れを頭の中で追う。
 前ならここで、呼ばれる前から身構えていた。飛ばされるかもしれない、という嫌な予感がいつもどこかにあったからだ。
 でも今日は、その予感の代わりに別の緊張がある。
 もしちゃんと呼ばれたら、自分はそれだけで少し泣きそうになるかもしれない、という緊張だ。

 「水瀬」

 しずるは一拍だけ遅れて顔を上げた。

 「……はい」

 返事は、ちゃんと自分の喉から出た。
 かすれもせず、遅れすぎもせず、教室の中に普通の音量で落ちる。
 担任は出席簿から顔も上げずに、次の名前へ進んだ。迷いも引っかかりもなかった。
 当たり前の呼び方だった。
 だからこそ、しずるにはその当たり前がひどくあたたかく感じられた。

 「よし、全員いるな」

 担任のその一言に、しずるは机の下でそっと指先の力を抜いた。

 全員いる。
 その中に自分も含まれている。
 特別な言い方ではないし、たぶん担任は何も気づいていない。ただ出席簿どおりに人数を確認しただけだ。
 それでも、しずるにはその何でもなさのほうが大きかった。
 最初から数に入っている。
 最初から、ここにいるものとして扱われている。
 たったそれだけのことが、胸の奥へ静かに染みていく。

 ホームルームが終わると、前の席の男子が振り向いた。

 「水瀬、昨日の片づけプリント回ってる?」

 あまりに普通の問いかけで、しずるは少しだけ目を瞬かせた。
 “いたんだ”でも、“ごめん”でもない。
 最初からそこにいる相手へ向ける、何でもない頼み方だった。

 「持ってます」

 「見せて」

 「……はい」

 プリントを渡すと、相手は何の引っかかりもなく受け取った。
 会話はそれで終わりだ。
 終わりなのに、その数秒だけで、しずるには充分すぎた。

 教室のあちこちでは、文化祭の話がまだ残っている。

 「片づけめんどかったよな」
 「放送すごくなかった?」
 「朝倉先輩、あとでめっちゃ怒られたらしいよ」

 そんな声が飛び交う。
 しずるは顔を上げずにノートを開いた。
 全校放送のことを、みんなは“文化祭の日にあったちょっと変わった出来事”くらいに受け取っているのだろう。怪異のことを知っている人はいないし、知る必要もない。
 それでいいと思う。
 あの時間が自分にとってどれだけ切実だったかを、ここで説明する言葉も必要もない。

 ただ、誰も気づかないまま、その放送のおかげで戻ってこられた自分がいる。

 窓の外では、朝の光が校庭をまっすぐ照らしていた。
 風に揺れる木の影が、教室の床へ淡く落ちる。
 しずるはペンを握り、開いたノートの端に小さく視線を落とす。

 ここにいる。
 今日は、それが自分でもちゃんとわかる。

 何気ない会話の中に、自分が含まれている。
 名前を呼ばれて、返事をして、それで終わる。
 今まではそんなことが奇跡みたいに遠かったのに、今日はその当たり前がちゃんと手の届くところにある。

 しずるは誰にも気づかれないくらい小さく息を吐いた。

 教室の中は、もう何事もなかったみたいに普通だった。
 そしてその“普通”の中へ、自分がちゃんと含まれていることが、今は何より嬉しかった。