「最初に返してくれればよかったのに」
玲音のその一言は、責めているようには聞こえなかった。
長い時間の底で、何度も飲み込まれて、最後にやっと形になった本音みたいな声だった。
しずるはその場から動けない。
放送室から流れ続ける朝倉の声が、まだ校舎のどこかから自分を呼んでいる。けれどその声に引かれるのと同じくらい、目の前の玲音をこのまま置いていくことにも、ひどく痛みがあった。
玲音はさっきより、さらに薄くなっていた。
制服の輪郭はまだある。顔立ちも見える。
けれど、その向こう側に積み上がった椅子の脚や譜面台の影が、少しずつ透けてきている。怒りで崩れるのではなく、待ち疲れた何かがようやく力を抜き始めたみたいだった。
「呼ばれたかっただけなんだ」
玲音が言う。
しずるは小さくうなずく。
「……うん」
「一回でよかった」
その声は、四階の空気そのものみたいに静かだった。
「名前を、ちゃんと」
それで全部だったのだと、しずるは思う。
誰かに見つけてほしい。
自分はここにいると、たった一度でいいから呼んでほしい。
十数年、玲音がこの場所に残っていた理由は、たぶんそれだけだった。
しずるは息を吸う。
朝倉の声が遠くでまだ続いている。
けれど今ここで、自分が返すべきものはもう一つあった。
「真壁玲音」
自分の口で、その名前をはっきり呼ぶ。
音楽準備室の暗がりの中で、その六文字は思っていたよりもまっすぐ響いた。
玲音の目がわずかに見開かれる。
しずるは続けた。
「おまえは、いた」
その一言を言うために、ずっと息を溜めていた気がした。
呼ばれなかったからといって、いなかったことになるわけじゃない。
見つけてもらえなかった時間が長かったからといって、最初から存在しなかったわけじゃない。
それだけは、しずるにもわかる。
自分もまた、少しずつ“いないもの”にされかけたからこそ。
玲音はしばらく何も言わなかった。
怒るでも、笑うでもなく、ただその言葉を受け取るように立っている。
やがて、唇がほんの少しだけ動いた。
「……遅いよ」
泣いているようにも、笑っているようにも聞こえる声だった。
次の瞬間、音楽準備室の空気がふっと軽くなる。
何かが弾けたわけではない。
風が吹いたわけでもない。
ただ、そこに長く留まっていた重さだけが、静かにほどけていく。
玲音の輪郭はゆっくりと薄れ、暗がりと光の境目へ溶けていった。
怖さはなかった。
あるのは、ようやく終われるものを見送る静けさだけだった。
積み上がった椅子の影が、元のただの影へ戻る。
譜面台はただそこに立っているだけの物になる。
部屋の奥に沈んでいた古い時間が、ようやく止まるのをやめたみたいだった。
その静けさの中へ、遠くからまた声が届く。
「水瀬!」
本物の朝倉の声だ。
しずるは振り向かないまま、でももう迷わずに返事をする。
「……はい」
今度の「はい」は、四階の怪異へ差し出すものではなかった。
現実へ戻るための返事。
呼ばれて、そこへ帰るための、たしかな返事だった。
その声を口にした瞬間、足元の感覚がようやく完全に戻る。
冷たかった空気はただの夕方の空気になり、音楽準備室の暗さもただ日暮れの影へ変わる。
四階の時間は、そこでようやく終わった。
玲音のその一言は、責めているようには聞こえなかった。
長い時間の底で、何度も飲み込まれて、最後にやっと形になった本音みたいな声だった。
しずるはその場から動けない。
放送室から流れ続ける朝倉の声が、まだ校舎のどこかから自分を呼んでいる。けれどその声に引かれるのと同じくらい、目の前の玲音をこのまま置いていくことにも、ひどく痛みがあった。
玲音はさっきより、さらに薄くなっていた。
制服の輪郭はまだある。顔立ちも見える。
けれど、その向こう側に積み上がった椅子の脚や譜面台の影が、少しずつ透けてきている。怒りで崩れるのではなく、待ち疲れた何かがようやく力を抜き始めたみたいだった。
「呼ばれたかっただけなんだ」
玲音が言う。
しずるは小さくうなずく。
「……うん」
「一回でよかった」
その声は、四階の空気そのものみたいに静かだった。
「名前を、ちゃんと」
それで全部だったのだと、しずるは思う。
誰かに見つけてほしい。
自分はここにいると、たった一度でいいから呼んでほしい。
十数年、玲音がこの場所に残っていた理由は、たぶんそれだけだった。
しずるは息を吸う。
朝倉の声が遠くでまだ続いている。
けれど今ここで、自分が返すべきものはもう一つあった。
「真壁玲音」
自分の口で、その名前をはっきり呼ぶ。
音楽準備室の暗がりの中で、その六文字は思っていたよりもまっすぐ響いた。
玲音の目がわずかに見開かれる。
しずるは続けた。
「おまえは、いた」
その一言を言うために、ずっと息を溜めていた気がした。
呼ばれなかったからといって、いなかったことになるわけじゃない。
見つけてもらえなかった時間が長かったからといって、最初から存在しなかったわけじゃない。
それだけは、しずるにもわかる。
自分もまた、少しずつ“いないもの”にされかけたからこそ。
玲音はしばらく何も言わなかった。
怒るでも、笑うでもなく、ただその言葉を受け取るように立っている。
やがて、唇がほんの少しだけ動いた。
「……遅いよ」
泣いているようにも、笑っているようにも聞こえる声だった。
次の瞬間、音楽準備室の空気がふっと軽くなる。
何かが弾けたわけではない。
風が吹いたわけでもない。
ただ、そこに長く留まっていた重さだけが、静かにほどけていく。
玲音の輪郭はゆっくりと薄れ、暗がりと光の境目へ溶けていった。
怖さはなかった。
あるのは、ようやく終われるものを見送る静けさだけだった。
積み上がった椅子の影が、元のただの影へ戻る。
譜面台はただそこに立っているだけの物になる。
部屋の奥に沈んでいた古い時間が、ようやく止まるのをやめたみたいだった。
その静けさの中へ、遠くからまた声が届く。
「水瀬!」
本物の朝倉の声だ。
しずるは振り向かないまま、でももう迷わずに返事をする。
「……はい」
今度の「はい」は、四階の怪異へ差し出すものではなかった。
現実へ戻るための返事。
呼ばれて、そこへ帰るための、たしかな返事だった。
その声を口にした瞬間、足元の感覚がようやく完全に戻る。
冷たかった空気はただの夕方の空気になり、音楽準備室の暗さもただ日暮れの影へ変わる。
四階の時間は、そこでようやく終わった。



