『水瀬しずる』
『俺が呼んでる』
放送室から届く声だけが、四階の冷えた空気の中で熱を持っていた。
音楽準備室の奥は暗い。
積み上げられた椅子も、譜面台の影も、窓の外の夕方も、全部が少しずつ色を失っている。
その中で朝倉の声だけが、異物みたいにはっきりしていた。
文化祭のざわめきも、校内放送の雑音も、玲音の静かな気配も押しのけて、まっすぐしずるの胸へ届いてくる。
しずるはその場に立ったまま、息をするのも忘れそうになる。
呼ばれている。
校舎中に聞こえる形で。
何度も何度も、自分の名前を。
誰かが忘れても、俺は呼べると。
俺が呼んでると。
それは救いだった。
でも同時に、痛いほどまぶしかった。
玲音がかすかに笑ったように見えた。
笑ったというより、ひび割れたものが揺れた、というほうが近い。
「……ずるい」
その声には怒りより、羨ましさのほうが滲んでいた。
「そんなふうに呼ばれたら」
「戻るしかなくなる」
しずるは玲音を見た。
制服の輪郭はまだそこにあるのに、さっきより少しだけ淡い。
呼ばれなかった時間の長さが、そのまま体を薄くしているみたいだった。
しずるは唇を開く。
最初に何を言うべきか、もうわかっていた。
「玲音」
その名前を、初めて自分の口で呼ぶ。
玲音の目がわずかに見開かれた。
それだけで、胸の奥が痛む。
呼ばれたかったのだ。
一度でいいから、ちゃんと。
名前を、名前として。
「おまえは、行くの」
玲音の問いは静かだった。
責めてもいないし、引き止めてもいない。
ただ、自分の前に立っているしずるが、どちらを選ぶのかを見ている声だった。
しずるは息を吸う。
胸の奥で、朝倉の放送がまだ響いている。
『返事しろ』
あの一言に、身体のどこかが強く引かれる。
最初に四階で「はい」と返してしまったときとは違う。
今は、自分がどちらへ返事をするのかを知っている。
知っているのに、玲音の孤独もまた、痛いほどわかってしまう。
「……行きます」
小さく、それでもはっきり言うと、玲音はしばらく何も言わなかった。
やがて、少しだけ目を伏せる。
「また忘れられる」
「呼ばれなくなる」
しずるの喉が詰まる。
それは、いちばん怖い言葉だった。
玲音の呪いだからではない。
自分でも何度も思ってきたことだからだ。
今日、朝倉が呼ばなくなったら。
明日、誰も自分の名前を見つけられなくなったら。
そうなれば、また簡単にこちら側から滑り落ちるかもしれない。
それでも。
『返事しろ』
放送の向こうから、朝倉の声が重なる。
今度はもう、祈りというより命令に近かった。
でも、その強さがうれしいと感じてしまう。
戻れと言われること。
いなくなるなと止められること。
それを受け取ってしまいたい自分が、もういる。
しずるは目を閉じる。
最初の「はい」は、ただ反射だった。
呼ばれたから返してしまっただけの、奪われる返事。
けれど今の「はい」は違う。
誰に向けて返すのかを、自分で選ばなければならない。
ゆっくり、目を開ける。
玲音の姿は目の前にある。
その孤独を、しずるは否定できない。
否定したくないとも思う。
呼ばれなかった痛みは、本物だ。
でも、自分が行く場所はそこではない。
しずるは、四階の冷たい空気の中で、はっきりと声を出した。
「……はい」
たった一言だった。
それなのに、その返事が落ちた瞬間、部屋の空気が変わる。
張りつめていたものが一斉に揺れ、暗がりの奥で何かがほどけるみたいに音を失う。
玲音の肩がわずかに震えた。
「それ」
玲音はしずるを見て、ひどく静かな声で言う。
「最初に返してくれればよかったのに」
責めるでもなく、恨むでもなく、ただ長い時間の果てにこぼれたみたいな声だった。
しずるの胸がきゅっと縮む。
「……ごめん」
口をついて出た謝罪は、自分でもひどく小さかった。
玲音はその言葉に答えなかった。
ただ、少しだけ寂しそうに目を細める。
放送室からの声はまだ続いている。
校舎中へ流れる朝倉の呼び声が、もう一度しずるの名前を運んでくる。
それに呼ばれるたび、しずるの足元は少しずつ現実へ戻っていく。
自分で返した。
今度は、誰かに奪われたのではなく、自分の意思で。
それだけで、四階の時間はもう終わりかけていた。
『俺が呼んでる』
放送室から届く声だけが、四階の冷えた空気の中で熱を持っていた。
音楽準備室の奥は暗い。
積み上げられた椅子も、譜面台の影も、窓の外の夕方も、全部が少しずつ色を失っている。
その中で朝倉の声だけが、異物みたいにはっきりしていた。
文化祭のざわめきも、校内放送の雑音も、玲音の静かな気配も押しのけて、まっすぐしずるの胸へ届いてくる。
しずるはその場に立ったまま、息をするのも忘れそうになる。
呼ばれている。
校舎中に聞こえる形で。
何度も何度も、自分の名前を。
誰かが忘れても、俺は呼べると。
俺が呼んでると。
それは救いだった。
でも同時に、痛いほどまぶしかった。
玲音がかすかに笑ったように見えた。
笑ったというより、ひび割れたものが揺れた、というほうが近い。
「……ずるい」
その声には怒りより、羨ましさのほうが滲んでいた。
「そんなふうに呼ばれたら」
「戻るしかなくなる」
しずるは玲音を見た。
制服の輪郭はまだそこにあるのに、さっきより少しだけ淡い。
呼ばれなかった時間の長さが、そのまま体を薄くしているみたいだった。
しずるは唇を開く。
最初に何を言うべきか、もうわかっていた。
「玲音」
その名前を、初めて自分の口で呼ぶ。
玲音の目がわずかに見開かれた。
それだけで、胸の奥が痛む。
呼ばれたかったのだ。
一度でいいから、ちゃんと。
名前を、名前として。
「おまえは、行くの」
玲音の問いは静かだった。
責めてもいないし、引き止めてもいない。
ただ、自分の前に立っているしずるが、どちらを選ぶのかを見ている声だった。
しずるは息を吸う。
胸の奥で、朝倉の放送がまだ響いている。
『返事しろ』
あの一言に、身体のどこかが強く引かれる。
最初に四階で「はい」と返してしまったときとは違う。
今は、自分がどちらへ返事をするのかを知っている。
知っているのに、玲音の孤独もまた、痛いほどわかってしまう。
「……行きます」
小さく、それでもはっきり言うと、玲音はしばらく何も言わなかった。
やがて、少しだけ目を伏せる。
「また忘れられる」
「呼ばれなくなる」
しずるの喉が詰まる。
それは、いちばん怖い言葉だった。
玲音の呪いだからではない。
自分でも何度も思ってきたことだからだ。
今日、朝倉が呼ばなくなったら。
明日、誰も自分の名前を見つけられなくなったら。
そうなれば、また簡単にこちら側から滑り落ちるかもしれない。
それでも。
『返事しろ』
放送の向こうから、朝倉の声が重なる。
今度はもう、祈りというより命令に近かった。
でも、その強さがうれしいと感じてしまう。
戻れと言われること。
いなくなるなと止められること。
それを受け取ってしまいたい自分が、もういる。
しずるは目を閉じる。
最初の「はい」は、ただ反射だった。
呼ばれたから返してしまっただけの、奪われる返事。
けれど今の「はい」は違う。
誰に向けて返すのかを、自分で選ばなければならない。
ゆっくり、目を開ける。
玲音の姿は目の前にある。
その孤独を、しずるは否定できない。
否定したくないとも思う。
呼ばれなかった痛みは、本物だ。
でも、自分が行く場所はそこではない。
しずるは、四階の冷たい空気の中で、はっきりと声を出した。
「……はい」
たった一言だった。
それなのに、その返事が落ちた瞬間、部屋の空気が変わる。
張りつめていたものが一斉に揺れ、暗がりの奥で何かがほどけるみたいに音を失う。
玲音の肩がわずかに震えた。
「それ」
玲音はしずるを見て、ひどく静かな声で言う。
「最初に返してくれればよかったのに」
責めるでもなく、恨むでもなく、ただ長い時間の果てにこぼれたみたいな声だった。
しずるの胸がきゅっと縮む。
「……ごめん」
口をついて出た謝罪は、自分でもひどく小さかった。
玲音はその言葉に答えなかった。
ただ、少しだけ寂しそうに目を細める。
放送室からの声はまだ続いている。
校舎中へ流れる朝倉の呼び声が、もう一度しずるの名前を運んでくる。
それに呼ばれるたび、しずるの足元は少しずつ現実へ戻っていく。
自分で返した。
今度は、誰かに奪われたのではなく、自分の意思で。
それだけで、四階の時間はもう終わりかけていた。



