赤いランプが灯った。
その小さな光ひとつで、放送室の空気が変わる。
さっきまでただの機材だったマイクが、今は校舎中へつながる喉になったみたいに見えた。
朝倉は一度だけ息を飲み込み、いつもの放送用の声をどうにか喉の奥から引っぱり上げる。
『二年B組、水瀬しずる』
最初の一声は、思っていたより普通に出た。
文化祭当日の連絡放送に混ざっても不自然ではない調子。落ち着いていて、明るさもある。
けれどそのフルネームを口にした瞬間、朝倉の胸の奥では別の感情が強く脈打っていた。
ここにいろ。
聞こえろ。
返事をしろ。
そういう言葉を全部押し込めたまま、とりあえず放送の形だけを守る。
『至急、放送室まで来てください』
一度目を言い切っても、何も返ってこない。
当然だ。放送に返事が返るわけじゃない。
なのに朝倉は、返事がないこと自体にすぐ焦りを覚える。四階の暗がりの中で、しずるがこの声をちゃんと聞けているのか、それとももう別の声に引き込まれているのか、それがわからない。
香坂が横で小さく言った。
「続けて」
朝倉はうなずき、マイクの前へほんの少しだけ身を寄せる。
『繰り返します。二年B組、水瀬しずる』
『聞こえているなら、返事をしてください』
二度目の放送は、もう最初ほど“連絡”の顔をしていなかった。
返事をしてください。
それは校内放送としてはやや不自然だ。だが今はそんなことを気にしていられない。
しずるは呼ばれなければ戻れない。だったら返事を求めるしかない。
名前を呼んで、そこにいることを確かめるしかない。
放送室の外では、文化祭のざわめきが少しずつ静まり始めていた。
最初は気づかなかったが、何度目かの「水瀬しずる」が校内へ流れるうち、廊下を走る足音が減り、笑い声が途切れがちになる。誰かが足を止めているのだ。教師も、生徒も、何事かと耳を向けている。
朝倉にもそれはわかった。
でももう止まれない。
『水瀬しずる』
三度目は、放送の抑揚が崩れた。
いや、崩したのかもしれない。
わざと整えないほうが届く気がした。
『戻れ』
『お前は、そこにいる』
言った瞬間、香坂が横で息を呑んだ気配がした。
完全に私情だ。放送としては駄目だろう。教師に聞かれたら確実にあとで叱られる。
それでも構わなかった。
ここで形を守って、しずるを失うほうがずっと駄目だ。
朝倉はマイクを見つめる。
自分の声がスピーカーを通って、教室棟も管理棟も特別棟も、全部の空気を抜けていくのを想像する。
四階の廊下。
音楽準備室。
暗がりの奥。
そこにいるしずるの耳に、この声がちゃんと届いていると信じるしかない。
『誰が忘れても、俺は呼べる』
その一言は、気づけば口から出ていた。
放送文でもなんでもない。
ただ朝倉の本音だ。
しずるが何度名前を飛ばされても、何度“いたんだ”と言われても、自分は呼べる。見失わない。呼び続ける。
それを、もう誰に聞かれてもいいと思った。
『聞こえてるなら、来い』
放送室の中で、朝倉の呼吸が少し荒くなる。
喉が熱い。乾いていたはずなのに、今は逆に声の熱だけが強すぎる。
机の上の原稿はもう見ていない。
文化祭の進行表も、落とし物の案内も、全部ただの紙になっていた。
必要なのは名前だけだ。
しずるをこの場所へ引き戻す、そのための呼びかけだけ。
香坂が小さく呼ぶ。
「朝倉」
止めるつもりではない声だった。
でも、どこまで行くのかを確認するような声だった。
「まだ」
朝倉はすぐに返す。
まだ足りない。まだ届いていない。
そう思った。
『水瀬』
『お前は、いなくなるな』
その言葉を口にした瞬間、放送室の空気がひどく静まった。
たぶん、校舎のあちこちでも同じような沈黙が起きている。
文化祭のにぎやかさの中で、誰か一人の名前を何度も呼ぶ放送。しかもその呼び方は、もう連絡ではなく、ほとんど個人的な祈りに近い。
奇妙に思われても当然だ。
でも今の朝倉には、それを恥ずかしいと思う余裕もない。
返事しろ。
戻れ。
来い。
いなくなるな。
そのどれもが、本当はずっと前から自分の中にあった言葉だと、朝倉はようやく気づく。
放っておけない、から始まったのではない。
見失いたくない。
呼んでいないと、どこかへ行ってしまいそうで怖い。
その感情のほうが、ずっと大きくなっていた。
朝倉はもう一度、マイクへ身を寄せた。
『返事しろ』
その一言は、自分でも驚くくらい低く、真っ直ぐだった。
命令に近い。
でも、懇願でもあった。
『水瀬しずる』
『俺が呼んでる』
言った途端、胸の奥が痛いほど熱くなる。
“誰か”じゃない。
“放送部”でも、“校内放送”でもない。
俺だ。
朝倉が呼んでいる。
それだけが、しずるにとって本物の目印になると、もう知っているから。
香坂が何も言わない。
横でただ、黙って回線を開いたままにしている。
それはつまり、最後までやれということだ。
朝倉は息を吸う。
喉が焼けるみたいに熱い。
でも、その痛みさえ今は構わなかった。
『戻ってこい』
『今すぐ』
最後の二行を押し出したとき、放送室の向こう側で、何かがほんのわずかに揺れた気がした。
音ではない。
返事でもない。
けれど、校舎のどこか、もっと遠いところで、張りつめていた糸が一度だけ震えたような感触があった。
四階へ届いたのかもしれない。
しずるの耳へ、玲音の暗がりの奥へ、この声がやっと触れたのかもしれない。
朝倉はマイクの前で、次の言葉を探す。
まだ終われない。
返事を聞くまで、呼ぶのをやめるわけにはいかない。
赤いランプは、まだ消えていなかった。
その小さな光ひとつで、放送室の空気が変わる。
さっきまでただの機材だったマイクが、今は校舎中へつながる喉になったみたいに見えた。
朝倉は一度だけ息を飲み込み、いつもの放送用の声をどうにか喉の奥から引っぱり上げる。
『二年B組、水瀬しずる』
最初の一声は、思っていたより普通に出た。
文化祭当日の連絡放送に混ざっても不自然ではない調子。落ち着いていて、明るさもある。
けれどそのフルネームを口にした瞬間、朝倉の胸の奥では別の感情が強く脈打っていた。
ここにいろ。
聞こえろ。
返事をしろ。
そういう言葉を全部押し込めたまま、とりあえず放送の形だけを守る。
『至急、放送室まで来てください』
一度目を言い切っても、何も返ってこない。
当然だ。放送に返事が返るわけじゃない。
なのに朝倉は、返事がないこと自体にすぐ焦りを覚える。四階の暗がりの中で、しずるがこの声をちゃんと聞けているのか、それとももう別の声に引き込まれているのか、それがわからない。
香坂が横で小さく言った。
「続けて」
朝倉はうなずき、マイクの前へほんの少しだけ身を寄せる。
『繰り返します。二年B組、水瀬しずる』
『聞こえているなら、返事をしてください』
二度目の放送は、もう最初ほど“連絡”の顔をしていなかった。
返事をしてください。
それは校内放送としてはやや不自然だ。だが今はそんなことを気にしていられない。
しずるは呼ばれなければ戻れない。だったら返事を求めるしかない。
名前を呼んで、そこにいることを確かめるしかない。
放送室の外では、文化祭のざわめきが少しずつ静まり始めていた。
最初は気づかなかったが、何度目かの「水瀬しずる」が校内へ流れるうち、廊下を走る足音が減り、笑い声が途切れがちになる。誰かが足を止めているのだ。教師も、生徒も、何事かと耳を向けている。
朝倉にもそれはわかった。
でももう止まれない。
『水瀬しずる』
三度目は、放送の抑揚が崩れた。
いや、崩したのかもしれない。
わざと整えないほうが届く気がした。
『戻れ』
『お前は、そこにいる』
言った瞬間、香坂が横で息を呑んだ気配がした。
完全に私情だ。放送としては駄目だろう。教師に聞かれたら確実にあとで叱られる。
それでも構わなかった。
ここで形を守って、しずるを失うほうがずっと駄目だ。
朝倉はマイクを見つめる。
自分の声がスピーカーを通って、教室棟も管理棟も特別棟も、全部の空気を抜けていくのを想像する。
四階の廊下。
音楽準備室。
暗がりの奥。
そこにいるしずるの耳に、この声がちゃんと届いていると信じるしかない。
『誰が忘れても、俺は呼べる』
その一言は、気づけば口から出ていた。
放送文でもなんでもない。
ただ朝倉の本音だ。
しずるが何度名前を飛ばされても、何度“いたんだ”と言われても、自分は呼べる。見失わない。呼び続ける。
それを、もう誰に聞かれてもいいと思った。
『聞こえてるなら、来い』
放送室の中で、朝倉の呼吸が少し荒くなる。
喉が熱い。乾いていたはずなのに、今は逆に声の熱だけが強すぎる。
机の上の原稿はもう見ていない。
文化祭の進行表も、落とし物の案内も、全部ただの紙になっていた。
必要なのは名前だけだ。
しずるをこの場所へ引き戻す、そのための呼びかけだけ。
香坂が小さく呼ぶ。
「朝倉」
止めるつもりではない声だった。
でも、どこまで行くのかを確認するような声だった。
「まだ」
朝倉はすぐに返す。
まだ足りない。まだ届いていない。
そう思った。
『水瀬』
『お前は、いなくなるな』
その言葉を口にした瞬間、放送室の空気がひどく静まった。
たぶん、校舎のあちこちでも同じような沈黙が起きている。
文化祭のにぎやかさの中で、誰か一人の名前を何度も呼ぶ放送。しかもその呼び方は、もう連絡ではなく、ほとんど個人的な祈りに近い。
奇妙に思われても当然だ。
でも今の朝倉には、それを恥ずかしいと思う余裕もない。
返事しろ。
戻れ。
来い。
いなくなるな。
そのどれもが、本当はずっと前から自分の中にあった言葉だと、朝倉はようやく気づく。
放っておけない、から始まったのではない。
見失いたくない。
呼んでいないと、どこかへ行ってしまいそうで怖い。
その感情のほうが、ずっと大きくなっていた。
朝倉はもう一度、マイクへ身を寄せた。
『返事しろ』
その一言は、自分でも驚くくらい低く、真っ直ぐだった。
命令に近い。
でも、懇願でもあった。
『水瀬しずる』
『俺が呼んでる』
言った途端、胸の奥が痛いほど熱くなる。
“誰か”じゃない。
“放送部”でも、“校内放送”でもない。
俺だ。
朝倉が呼んでいる。
それだけが、しずるにとって本物の目印になると、もう知っているから。
香坂が何も言わない。
横でただ、黙って回線を開いたままにしている。
それはつまり、最後までやれということだ。
朝倉は息を吸う。
喉が焼けるみたいに熱い。
でも、その痛みさえ今は構わなかった。
『戻ってこい』
『今すぐ』
最後の二行を押し出したとき、放送室の向こう側で、何かがほんのわずかに揺れた気がした。
音ではない。
返事でもない。
けれど、校舎のどこか、もっと遠いところで、張りつめていた糸が一度だけ震えたような感触があった。
四階へ届いたのかもしれない。
しずるの耳へ、玲音の暗がりの奥へ、この声がやっと触れたのかもしれない。
朝倉はマイクの前で、次の言葉を探す。
まだ終われない。
返事を聞くまで、呼ぶのをやめるわけにはいかない。
赤いランプは、まだ消えていなかった。



