放課後、四階の音は名前を呼ぶ

 放送室へ駆け込んだ瞬間、外の喧騒が扉一枚ぶんだけ遠のいた。

 文化祭のざわめきはまだ校舎中に満ちている。
 来場者を呼ぶ声、廊下を行き来する足音、教室から漏れる笑い声。
 その全部が、放送室の中では薄い膜を隔てた向こう側の音になる。代わりに近くなるのは、機材の低い駆動音と、自分たちの呼吸だけだった。

 香坂はすでに動いていた。
 進行表を机の端へ押しやり、回線のランプを確認し、卓上マイクの位置をわずかに調整する。その一つ一つが速いのに無駄がない。朝倉はその横で立ち尽くしかけて、ようやく自分の手が少し震えていることに気づいた。

 「開けるよ」

 香坂が言う。

 「……うん」

 返事をしたつもりだったが、声は思ったより掠れていた。
 喉が乾いている。走ってきたせいだけではない。怖いのだと、朝倉はそこでようやく認める。
 しずるが四階にいるかもしれない。
 もう自分の声が届かないところまで行っているかもしれない。
 その可能性を考えるだけで、胸の奥が嫌に冷える。

 香坂が横目で朝倉を見た。

 「手、震えてる」

 「うるさい」

 朝倉は反射でそう返した。
 でも実際には、指先どころか呼吸まで落ち着いていない。マイクの前に座れば何とかなると思っていたのに、椅子を引く音ひとつで鼓動が跳ねる。

 香坂はそれ以上からかわなかった。
 ただ、いつもの部長の声で言う。

 「最初は普通に呼んで」

 朝倉は顔を上げる。

 「普通に?」

 「いきなり全部出すと、先生に止められる」
 香坂は淡々としていた。
 でもその淡々とした言い方の裏に、止めないから、せめて最初の形だけは守れ、という意思があるのがわかった。

 朝倉は唇を舐める。
 喉の渇きは消えない。

 「……できるだけ、な」

 「できるだけでいい」

 香坂の返しは短かった。
 それで充分だった。
 朝倉がここで完全に放送用の顔を作るのは無理だと、香坂もわかっているのだろう。しずるを呼び戻すための声と、校内放送の声は、たぶんもう分けられないところまで来ている。

 朝倉は椅子に座った。
 机の上に置かれた卓上マイクは、いつもと同じ形をしている。昼の放送でも、連絡事項でも、何度も使ってきた見慣れた機材のはずなのに、今日はやけに冷たく見えた。
 この小さなマイク一本で、文化祭のざわめきも、旧校舎の暗がりも、しずるの耳の奥まで全部突き抜けなければならない。
 届かなければ終わる。
 そう思うと、手の震えが少し強くなる。

 「届ける」

 朝倉は、自分に言い聞かせるみたいに小さく呟いた。

 香坂が隣で回線を開く準備をしながら、「うん」と短く返す。

 「今度は、絶対」

 そう続けると、胸の奥でばらばらだった焦りが少しだけひとつにまとまった。
 追いかけたい。走って行きたい。直接腕を掴みたい。
 その衝動は消えない。
 でも今、自分が使える武器はこれだ。
 呼ぶこと。
 名前を呼んで、戻れと言うこと。
 それしかないのなら、それでしずるを引き戻すしかない。

 香坂が最後にスイッチの位置を確かめてから、朝倉を見た。

 「朝倉」

 「何」

 「呼び負けないで」

 その言葉に、朝倉は一瞬だけ目を見開いた。

 呼び負ける。
 玲音の呼ぶ声に。
 偽物の朝倉の声に。
 四階の暗がりがしずるのほうを向く、その力に。
 言葉にされると、怖さの形がはっきりする。

 でも朝倉は、そこで逸らさなかった。

 「……負けない」

 それは誰に向けたというより、自分の喉と胸の奥へ押し込むような返事だった。

 香坂が小さくうなずく。
 もう余計なことは言わない。
 止めないし、背中を押しすぎもしない。必要なところだけ整えて、あとは朝倉の声に任せるつもりなのだろう。

 放送室の空気が静まる。
 文化祭のざわめきは扉の向こうでまだ続いているのに、この部屋の中だけは息を潜めたみたいだった。
 朝倉は卓上マイクを見つめる。
 喉はまだ乾いている。
 手も、たぶんまだ少し震えている。
 それでも今は、その震えごと声にしなければならない。

 朝倉は深く息を吸った。

 しずるの名前を、頭の中で一度だけはっきり呼ぶ。
 それから、前を向いたまま言う。

 「……開けて」