しずるがいないと気づいたのは、ほんの数分のことだった。
それなのに、朝倉にはその数分が妙に長く感じられた。
放送部の確認を終えて教室棟へ戻る途中、廊下の角を曲がりながら、朝倉は無意識にしずるの姿を探していた。
朝から顔色が悪かった。呼んでから返事が返るまでの間も、いつもより少し長かった。
だから気づけば、文化祭の賑やかな廊下の中で、いつもの癖みたいに視線がしずるを探していた。
けれど、いない。
教室の前にも。
窓際にも。
さっきまで立っていたはずの場所にも。
朝倉は足を止めた。
最初は、トイレか、図書室か、どこか少し静かな場所へ移動しただけだと思った。しずるは人が多い場所だと疲れる。今日みたいな日はなおさらだ。
そう思って、近くにいたクラスメイトへ声をかける。
「水瀬、見なかった?」
相手は一瞬考える顔をして、それから首をひねった。
「え、いたっけ」
その返事に、朝倉の背中がひやりとした。
「さっきまでここにいたろ」
「いや、たぶん……」
相手は曖昧に笑って、すぐ別の呼び声へ振り向く。
「ごめん、わかんない」
わかんない。
その言葉が、今日は嫌に重かった。
朝倉は別の生徒にも聞いた。
廊下の踊り場にいた女子。
教室の入口で装飾テープを切っていた男子。
誰も決定的なことを言わない。見た気がする、いや違うかも、さっきまでいたような――その程度の曖昧な目撃しか返ってこない。
見えていたはずなのに、誰の記憶にもちゃんと残っていない。
「……最悪」
朝倉は小さく吐き捨てた。
胸の奥が冷える。
しずるはもう、文化祭の人混みの中で簡単に埋もれるところまで来ている。朝からわかっていた。わかっていたのに、たった少し目を離した。
廊下の向こうから、香坂が進行表を抱えて走ってくるのが見えた。
「朝倉!」
「水瀬見てない?」
言い終わる前に、香坂の表情が変わる。
「いないの?」
「見失った」
短く答えると、香坂は一瞬だけ息を止めた。
でもすぐに、部長の顔になる。
「いつから」
「わかんない。たぶん数分」
朝倉は周囲を見渡した。
賑やかな文化祭の廊下。飾り。看板。人の流れ。
全部が邪魔だった。全部がしずるを隠す背景になっている。
「四階だ」
口をついて出たのは、ほとんど確信に近い嫌な勘だった。
香坂が眉を寄せる。
「根拠は」
「ない。けど、あそこしかない」
旧校舎。特別棟四階。音楽準備室。
朝倉の頭の中では、その場所だけが文化祭の明るさから切り離されて暗く沈んでいた。玲音は本番の日と言った。いちばん声が響く日に返してもらう、と。
今日以上に当てはまる日はない。
朝倉はそのまま走り出しかける。
けれど腕を掴まれた。
「待って」
香坂だった。
「待てない」
「今のお前が行っても、引っ張られるだけ」
その言い方が癇に障る。
でも、正しいとも思った。
今の朝倉は落ち着いていない。しずるを見失ったとわかった瞬間から、怒りと焦りが一緒になって喉元まで上がってきている。
走って行って、四階で玲音と向き合って、それで全部どうにかできるほど、自分は万能じゃない。
「じゃあどうすんだよ」
朝倉は低く言う。
怒鳴る暇も惜しい。時間がない。しずるは今も、あっちへ引かれているかもしれない。
香坂は進行表を抱え直し、朝倉を真っ直ぐ見た。
「水瀬を戻せるの、何だった?」
答えはすぐ出た。
「……声」
「でしょ」
香坂の声は落ち着いている。
けれど、それは冷静だからではない。パニックにならないように自分を支えている声だった。
「直接行っても、間に合わないかもしれない」
「でも、声なら先に届く」
朝倉は唇を噛む。
追いかけたい。
今すぐ四階へ走りたい。
しずるの腕を掴んで、二度と一人で行くなと怒鳴りつけたい。
なのに、その全部より先に、しずるを戻す方法は別にあるのだとわかってしまう。
呼ぶことだ。
ずっとそうしてきた。
名前を呼べば、しずるは戻る。
それを誰より知っているのに、いざという時、自分はまず足を動かそうとしていた。
「……わかった」
朝倉は低く言う。
香坂がわずかに息を吐いた。
たぶん彼女も、ここで朝倉が無理やり走り出すかもしれないと思っていたのだろう。
「朝倉」
「何」
「今度は、ちゃんと届かせなよ」
朝倉は一瞬だけ黙る。
今までも呼んできた。
校内放送で。放送室で。廊下で。
何度も何度も、しずるの名前を呼んできた。
でも今日は、それだけでは足りない気がした。
文化祭の喧騒の全部を越えて、旧校舎の暗がりの奥まで届く声にしなければならない。
「……届かせる」
朝倉は言う。
「今度は、ちゃんと」
香坂が小さくうなずいた。
二人はそのまま放送室へ駆け込んだ。
扉を開ける。機材のランプ、卓上マイク、進行表、原稿。見慣れたはずの部屋が、今はまるで別の戦場みたいに見える。
香坂が手早く回線を確認しながら言う。
「マイク、開けるよ」
朝倉は卓上マイクの前に立った。
喉が乾いている。手が少し震える。
でも、それでもここに座るしかない。
追いかけるんじゃない。
呼び戻す。
誰より遠くまで届く、自分の声で。
赤いランプが灯る直前、朝倉は深く息を吸った。
その息の奥に、しずるの名前だけを強く残したまま。
それなのに、朝倉にはその数分が妙に長く感じられた。
放送部の確認を終えて教室棟へ戻る途中、廊下の角を曲がりながら、朝倉は無意識にしずるの姿を探していた。
朝から顔色が悪かった。呼んでから返事が返るまでの間も、いつもより少し長かった。
だから気づけば、文化祭の賑やかな廊下の中で、いつもの癖みたいに視線がしずるを探していた。
けれど、いない。
教室の前にも。
窓際にも。
さっきまで立っていたはずの場所にも。
朝倉は足を止めた。
最初は、トイレか、図書室か、どこか少し静かな場所へ移動しただけだと思った。しずるは人が多い場所だと疲れる。今日みたいな日はなおさらだ。
そう思って、近くにいたクラスメイトへ声をかける。
「水瀬、見なかった?」
相手は一瞬考える顔をして、それから首をひねった。
「え、いたっけ」
その返事に、朝倉の背中がひやりとした。
「さっきまでここにいたろ」
「いや、たぶん……」
相手は曖昧に笑って、すぐ別の呼び声へ振り向く。
「ごめん、わかんない」
わかんない。
その言葉が、今日は嫌に重かった。
朝倉は別の生徒にも聞いた。
廊下の踊り場にいた女子。
教室の入口で装飾テープを切っていた男子。
誰も決定的なことを言わない。見た気がする、いや違うかも、さっきまでいたような――その程度の曖昧な目撃しか返ってこない。
見えていたはずなのに、誰の記憶にもちゃんと残っていない。
「……最悪」
朝倉は小さく吐き捨てた。
胸の奥が冷える。
しずるはもう、文化祭の人混みの中で簡単に埋もれるところまで来ている。朝からわかっていた。わかっていたのに、たった少し目を離した。
廊下の向こうから、香坂が進行表を抱えて走ってくるのが見えた。
「朝倉!」
「水瀬見てない?」
言い終わる前に、香坂の表情が変わる。
「いないの?」
「見失った」
短く答えると、香坂は一瞬だけ息を止めた。
でもすぐに、部長の顔になる。
「いつから」
「わかんない。たぶん数分」
朝倉は周囲を見渡した。
賑やかな文化祭の廊下。飾り。看板。人の流れ。
全部が邪魔だった。全部がしずるを隠す背景になっている。
「四階だ」
口をついて出たのは、ほとんど確信に近い嫌な勘だった。
香坂が眉を寄せる。
「根拠は」
「ない。けど、あそこしかない」
旧校舎。特別棟四階。音楽準備室。
朝倉の頭の中では、その場所だけが文化祭の明るさから切り離されて暗く沈んでいた。玲音は本番の日と言った。いちばん声が響く日に返してもらう、と。
今日以上に当てはまる日はない。
朝倉はそのまま走り出しかける。
けれど腕を掴まれた。
「待って」
香坂だった。
「待てない」
「今のお前が行っても、引っ張られるだけ」
その言い方が癇に障る。
でも、正しいとも思った。
今の朝倉は落ち着いていない。しずるを見失ったとわかった瞬間から、怒りと焦りが一緒になって喉元まで上がってきている。
走って行って、四階で玲音と向き合って、それで全部どうにかできるほど、自分は万能じゃない。
「じゃあどうすんだよ」
朝倉は低く言う。
怒鳴る暇も惜しい。時間がない。しずるは今も、あっちへ引かれているかもしれない。
香坂は進行表を抱え直し、朝倉を真っ直ぐ見た。
「水瀬を戻せるの、何だった?」
答えはすぐ出た。
「……声」
「でしょ」
香坂の声は落ち着いている。
けれど、それは冷静だからではない。パニックにならないように自分を支えている声だった。
「直接行っても、間に合わないかもしれない」
「でも、声なら先に届く」
朝倉は唇を噛む。
追いかけたい。
今すぐ四階へ走りたい。
しずるの腕を掴んで、二度と一人で行くなと怒鳴りつけたい。
なのに、その全部より先に、しずるを戻す方法は別にあるのだとわかってしまう。
呼ぶことだ。
ずっとそうしてきた。
名前を呼べば、しずるは戻る。
それを誰より知っているのに、いざという時、自分はまず足を動かそうとしていた。
「……わかった」
朝倉は低く言う。
香坂がわずかに息を吐いた。
たぶん彼女も、ここで朝倉が無理やり走り出すかもしれないと思っていたのだろう。
「朝倉」
「何」
「今度は、ちゃんと届かせなよ」
朝倉は一瞬だけ黙る。
今までも呼んできた。
校内放送で。放送室で。廊下で。
何度も何度も、しずるの名前を呼んできた。
でも今日は、それだけでは足りない気がした。
文化祭の喧騒の全部を越えて、旧校舎の暗がりの奥まで届く声にしなければならない。
「……届かせる」
朝倉は言う。
「今度は、ちゃんと」
香坂が小さくうなずいた。
二人はそのまま放送室へ駆け込んだ。
扉を開ける。機材のランプ、卓上マイク、進行表、原稿。見慣れたはずの部屋が、今はまるで別の戦場みたいに見える。
香坂が手早く回線を確認しながら言う。
「マイク、開けるよ」
朝倉は卓上マイクの前に立った。
喉が乾いている。手が少し震える。
でも、それでもここに座るしかない。
追いかけるんじゃない。
呼び戻す。
誰より遠くまで届く、自分の声で。
赤いランプが灯る直前、朝倉は深く息を吸った。
その息の奥に、しずるの名前だけを強く残したまま。



