放課後、四階の音は名前を呼ぶ

 「水瀬」

 その声は、教室のざわめきにまぎれるくらい自然だった。

 しずるは反射で顔を上げる。
 朝倉はもう廊下の向こうへ走っていって、放送部の呼び声に応えている。背中は見えている。なのに、今聞こえた声は、その朝倉がすぐ近くで呼んだような距離感だった。

 「……朝倉?」

 小さく返した声は、教室の喧騒にすぐ吸われた。
 クラスメイトたちは文化祭の最終確認で忙しく、誰もしずるを見ていない。飾りつけのテープを切る音、机を引く音、誰かの笑い声。明るいはずのその音の中で、しずるにだけ届く呼び声がもう一度落ちる。

 「こっち」

 低く、短い。
 いつもの朝倉なら、たしかに言いそうな調子だった。

 しずるは一歩だけ教室の外へ出た。
 頭では、待て、と言っている。
 でも身体のほうが先に動く。朝倉の声で呼ばれると、まだ胸の奥がそちらへ寄ってしまう。助かるかもしれない、と思ってしまう。今朝から輪郭が安定しないぶん、その“助かるかもしれない”はひどく甘く感じた。

 「どこですか」

 廊下へ出て、しずるは周囲を見回す。
 誰もいないわけではない。遠くには生徒が何人かいて、階段の踊り場には装飾用の紙花を抱えた女子が二人しゃがんでいる。
 でも、声だけは妙に近かった。人の気配の間をすり抜けて、まっすぐしずるの耳へ届く。

 「早く」

 そのひと言に急かされるように、しずるは歩き出す。
 本当は変だと思っていた。朝倉なら、こんなふうに一方的に呼んで先へ行くことはあまりない。名前を呼んで、こちらが見る一拍を待つ。あの小さな“間”が本物にはある。
 なのに今日のしずるには、その違和感をじっくり確かめる余裕がなかった。
 少しでも早く、あの声の近くへ行きたかった。

 教室棟の廊下を抜ける。
 人の多い場所ほど薄くなる感覚が、今日はいっそう強い。目の前を横切るクラスメイトたちの肩が近いのに、自分だけがうまくその流れへ入れない。
 そんな中で、朝倉の声だけがするりとしずるを引き上げる。

 「水瀬」

 呼ばれる。
 それだけで、また歩いてしまう。

 渡り廊下に出たところで、風が吹いた。
 窓の隙間から入る秋の風は冷たい。校庭の向こうでは、来場者の列を案内する声が遠く響いている。文化祭はもう始まっている。人が増えて、声が増えて、学校中が明るく膨らんでいる。
 そのはずなのに、渡り廊下の先だけはひどく静かだった。

 「静かなほう」

 ふいに、すぐ耳元で囁かれた気がした。

 しずるは思わず立ち止まる。
 静かなほう。
 その言い方に、ぞくりとした。
 助けを求めるときに言うような言葉ではない。朝倉なら、こんなふうには言わない。

 「……放送、は」

 どうしてそんなことを口にしたのか、自分でもわからない。
 ただ、朝倉には今やることがあるはずだと思い出したのだ。放送確認。香坂。文化祭当日の進行。
 今ここで、こんなふうに自分を呼びに来られるはずがない。

 「いいから」

 返ってきた声は、朝倉に似ていた。
 似ていたけれど、その一言の中にある冷たさだけが、やっとしずるの背中を強く撫でた。

 違う。

 遅れて、その確信がやってくる。
 違う。
 本物じゃない。
 本物の朝倉は、こんなふうに言葉だけを投げてしずるを先へ行かせたりしない。

 しずるは足を止めたまま、渡り廊下の先を見つめる。
 特別棟へ続く入口は薄暗く、人の気配がほとんどない。そこだけ文化祭の明るさから切り離されていた。

 「朝倉」

 しずるは今度は、自分から呼んだ。
 返事があれば、それが本物かどうか少しはわかるかもしれない。
 けれど返ってきたのは、さっきまでよりもさらに近い囁きだった。

 「いる」

 ぞっとする。
 返事の内容ではない。
 “朝倉ならこう言いそうだ”としずるが思う、そのギリギリをなぞってくることが怖い。声の高さも、少し雑な言い方も、全部似ている。似ているからこそ、自分がさっきまで信じかけていた事実までまとめて気味が悪くなる。

 「こっちに」

 その声に、しずるの足先がまた動く。

 頭では、戻れ、と叫んでいる。
 でも身体のどこか深いところは、助けを求める方向へ勝手に傾く。朝倉の声なら、呼ばれれば戻れる。そういう回路が、もうしずるの中にできてしまっている。
 だから偽物だと気づいてからのほうが、むしろ危なかった。
 “助けられたい”という気持ちそのものが、声に引っ張られる力になるからだ。

 特別棟の入口をくぐる。
 空気が一段冷える。
 そこでようやく、しずるははっきりとわかった。

 「……違う」

 呟いた声は、古い廊下に小さく吸い込まれる。
 違う。
 朝倉じゃない。
 でも、もう遅い。

 階段の上から、静かな声が落ちてきた。

 「遅いよ」

 それはもう、朝倉に似せることすらやめた玲音の声だった。

 しずるは顔を上げる。
 四階へ続く階段の先は薄暗く、上り口のあたりだけが夕方の光を細く受けている。
 文化祭のにぎやかさは、もうここまで届かない。
 人の多い日であることさえ嘘みたいに、特別棟はしんと静まり返っていた。

 逃げたほうがいい、と頭ではわかっている。
 それでもしずるは、階段の手すりへ指先をかけた。

 今度は、誰かに連れてこられたのではない。
 偽物だと知った上で、ここまで来てしまった。
 その事実が、前よりずっと痛かった。

 一段、また一段と足を上げる。
 四階の踊り場へ近づくにつれて、耳の奥に残っていた朝倉の声の記憶だけが、逆に遠くなっていく気がした。

 音楽準備室の扉は、すでに開いていた。