放課後、四階の音は名前を呼ぶ

 文化祭当日の朝、学校はいつもより早い時間から明るかった。

 昇降口には来場者用の案内板が立てられ、廊下には紙の鎖とポスターが途切れなく続いている。教室の前では、クラスごとに最後の確認をする声が飛び交っていた。
 笑い声。
 呼び合う声。
 机を動かす音。
 どこを向いても人がいて、声があって、学校全体が“今日は特別な日だ”と浮き立っている。

 そのはずなのに、しずるだけは朝からずっと、足元が少し遠かった。

 玄関のガラスに映った自分の姿は、昨日よりもさらに輪郭が弱い。
 制服の肩の線が背景に溶け、顔も、じっと見ていないと焦点が合わない。鏡の前で確かめる時間はなかったが、教室へ向かう途中、窓に映る自分を何度か見て、そのたびに胸の奥が冷えた。

 教室の中は文化祭本番直前の騒がしさで満ちていた。
 クラスメイトたちは衣装の確認や飾りつけの最終調整で忙しく、担任も朝から落ち着かない顔をしている。
 しずるは自分の席に鞄を置いたが、その動作ひとつですら少し遅れている感覚があった。体は動く。見えてもいる。けれど、自分がそこに“定着”していない。何かの拍子に、するりと背景へ落ちてしまいそうな危うさが、朝からずっとまとわりついている。

 「水瀬」

 名前を呼ばれて顔を上げると、教室の入口に朝倉が立っていた。
 ファイルの束を抱え、廊下のざわめきをそのまま連れてきたみたいな顔をしている。けれど、しずるを見た瞬間、その表情だけが少し硬くなった。

 「……はい」

 返事をしたつもりだった。
 でも声が出るまでに一拍遅れる。朝倉はそれを見逃さなかった。

 「顔色、昨日より悪い」

 「寝不足です」

 しずるはそう返したが、朝倉はすぐに眉を寄せる。

 「嘘つけ」

 言い方は軽い。
 けれど、その目はまるで軽くなかった。
 見抜かれている。そう思うだけで、少しだけ呼吸がしやすくなるのが嫌だった。

 そのとき、後ろから香坂が顔を出した。
 今日は放送部の腕章をつけ、手には当日の進行表を持っている。忙しいはずなのに、しずるを見る目だけは冷静だった。

 「呼んでから戻るまでが遅い」

 それは観察でも評価でもなく、事実確認みたいな言い方だった。

 「今日、かなり危ないかも」

 しずるは指先を握る。

 「……すみません」

 「だから何で謝るんだよ」

 朝倉がすぐに言う。
 香坂も小さく息をついた。

 「謝らせるな、朝倉」

 「俺のせいかよ」

 「そういう空気にしてるのは半分くらい」

 そんなやり取りが交わされるのに、しずるにはどこか遠かった。
 二人の声は聞こえている。意味もわかる。けれど、一緒にそこへ立っている感覚だけが少し薄い。

 朝倉がしずるの前まで来る。

 「水瀬、こっち見ろ」

 しずるは反射的に顔を上げた。
 朝倉の視線がまっすぐ自分へ向く。
 それだけで、足の裏に床の感触が少し戻る。

 「……見てます」

 「ちゃんといる?」

 その問いは冗談めいているようで、まったく冗談ではなかった。
 しずるは答える前に、一瞬だけ迷う。
 ちゃんといる、と言い切れる自信がなかったからだ。

 「……たぶん」

 「たぶんは禁止」

 即座に朝倉が返す。

 「無茶です」

 しずるがかろうじてそう言うと、朝倉はほんの少しだけ目を細めた。
 笑っているのではない。ただ、その返事が返ってきたことに少し安心したような顔だった。

 香坂が進行表を見ながら口を挟む。

 「今日は、なるべく一人にしない」

 「するつもりない」と朝倉が言う。

 たぶん本気だ。
 でも、今日は学校中が動いている。文化祭本番の朝で、放送部にもクラスにもそれぞれ役割がある。常に誰かが誰かのそばにいられる日ではない。
 しずるにもそれはわかっていた。
 わかっているからこそ、不安だった。

 教室の外では、来場者を迎えるための放送が流れ始めていた。
 誰かの元気な声がスピーカー越しに響く。その下で、しずるは自分の輪郭が少しずつ遠のいていくのを感じる。
 朝倉に名前を呼ばれれば、戻る。
 でも、その戻り方が今日はいつもより遅い。
 呼ばれて、認識して、やっとここにいるとわかるまでに、一拍ぶん空白がある。

 その空白が、しずるにはひどく怖かった。

 朝倉はまだ何か言いたそうにしていたが、廊下の向こうから別の呼び声が飛んできた。

 「朝倉ー! 放送確認!」

 「今行く!」

 返事をした朝倉の声はいつも通りだった。
 けれど、しずるの耳にはその音だけが妙に鮮明に残った。

 教室のざわめきが少し遠のく。
 そのとき、誰にも聞き取れないくらい小さく、でもしずるにははっきり届く声が耳の奥に落ちた。

 「水瀬」

 朝倉の声に、あまりにも自然によく似た呼び方だった。