「水瀬!」
その声が響いた瞬間、しずるは反射で顔を上げた。
今度は迷わなかった。
似ているかどうかを考える前に、本物だとわかる。
声の高さでも、話し方でもない。名前を呼ぶ前のわずかな間、息の混じり方、その一瞬にちゃんと“しずるを見つける人”の気配がある。偽物にはないものが、そこにははっきりあった。
音楽準備室の入口に、朝倉が立っていた。
制服の上着の前が少し乱れていて、呼吸も速い。たぶん走ってきたのだろう。額にかかった前髪が汗で少しだけ張りついている。
顔色はよくない。怒っているようにも見える。けれど、それ以上に焦っていた。目の前のものを見失ったら本当に手遅れになると思っている人の顔だった。
「……朝倉」
しずるの口からこぼれた名前は、自分でも驚くほど弱かった。
けれど朝倉はそれを聞いた瞬間、わずかに肩を落とした。返事があった。それだけで、まだ間に合うとわかったみたいに。
「何で一人で来るんだよ」
荒い息のまま、朝倉が言う。
しずるは言葉を探した。
探しているあいだにも、玲音の気配は部屋の奥で静かに揺れている。朝倉が来たことで消えたわけではない。ただ、空気の向きが少し変わっただけだ。
「……」
「何とか言え」
朝倉の声が少し強くなる。
責めたいのではなく、つなぎ止めたいのだとわかる声だった。
それでも、しずるにはすぐ答えられない。自分でもなぜ来てしまったのか、ひとことで説明できないからだ。玲音を終わらせたかったのか。朝倉を困らせたくなかったのか。朝倉の声に頼りすぎる自分から逃げたかったのか。たぶん全部だ。
「巻き込みたく、なかった」
ようやく出た声は、情けないくらい小さかった。
朝倉の眉が寄る。
「それで、一人で消える気だったのか」
しずるは唇を噛む。
“消える”という言葉は、玲音の前で朝倉に言われるとやけに生々しかった。自分では終わらせるつもりだったのに、朝倉の口から出ると、ただ自分がここからいなくなる未来にしか聞こえない。
「……朝倉に、そこまでされる理由ないから」
しずるがそう言うと、朝倉はほとんど間を置かずに言い返した。
「まだそれ言うのかよ」
「だって」
「だってじゃない」
その言い方の強さに、しずるは肩をすくめる。
朝倉はいつもよりずっと感情を隠していなかった。正しいことを言おうとしているのではない。腹の底にある焦りと怒りが、そのまま言葉になっている。
「お前、勝手に決めるな」
その一言が、しずるには痛かった。
勝手に決めている。たしかにそうだ。自分がいなくなれば楽になるとか、朝倉を困らせないで済むとか、そういうことを全部、自分ひとりで決めようとしていた。誰にも相談しないまま、理由にならない理由を抱えて四階まで来た。
そのとき、部屋の奥から玲音の声がした。
「呼ばれてるから、そんなこと言えるんだ」
朝倉の視線が、初めてしずるから外れて玲音へ向く。
玲音は相変わらず暗がりの中に立っている。制服姿の輪郭は淡いのに、目だけがやけに静かだった。
「おまえは、持ってる側だ」
朝倉はすぐに否定した。
「違う」
「違わない」
玲音の声は穏やかだった。
怒鳴るでも、憎しみをぶつけるでもない。だからこそ、言葉のひとつひとつが冷たく残る。
「こいつは、おまえが呼ぶから残ってる」
しずるの胸の奥がきゅっと縮む。
それは、しずる自身がいちばんよくわかっていることだった。
朝倉が呼ぶから、自分は戻れる。
それを肯定でも否定でもなく、ただ事実として玲音に言われると、逃げ場がなくなる。
朝倉は玲音から目を逸らさないまま言った。
「だから呼ぶ」
玲音が少しだけ首を傾ける。
「何回でも」
その返答には、迷いがなかった。
「ずっと?」
玲音の問いは静かだった。
しずるには、その一言がひどく怖く聞こえた。ずっと、という言葉の重さを、たぶん玲音はよく知っている。待ち続けた時間が長すぎたからこそ、その言葉を簡単には信じないのだ。
けれど朝倉は、ほとんど躊躇せずに言い切った。
「ずっとだ」
放送室で聞いたときとも、教室で呼ばれたときとも違う声だった。
飾りがなく、強く、ただ本気だけが残っている。
しずるは思わず息を止める。
その言葉を受け取っていいのかどうか、自分ではまだ判断できない。けれど、聞いてしまった以上なかったことにはできない。
「……朝倉」
しずるが名を呼ぶと、朝倉はすぐにこちらを見た。
「来い」
短い命令だった。
でも、そこには朝倉の焦りも怒りも全部乗っていた。
ひとりで終わらせるな。そっちへ行くな。帰れ。戻れ。
そういう意味の全部をまとめて、一言で押し出してくる。
しずるは足を動かせなかった。
玲音のほうへ引かれる静かな誘惑と、朝倉のほうへ引き戻す真っ直ぐな声。その間で身体が固まる。
「水瀬」
朝倉がもう一度、名前を呼ぶ。
その声に、しずるの足先がわずかに動く。
本物だ、と身体が先にわかっている。
だから怖い。
戻りたいと思ってしまう自分を、もうごまかせないからだ。
玲音がその様子を見て、小さく笑ったように見えた。
笑ったというより、諦めに似た揺れだった。
「じゃあ、本番の日に返してもらう」
その一言で、しずるの背中が冷える。
朝倉がすぐに言い返す。
「ふざけんな」
「文化祭の日」
玲音は淡々と続けた。
「いちばん声が響く日に」
その言い方は不気味なくらい静かだった。
祝祭の明るさを、そのまま怪異の舞台へ変えてしまう宣告。
文化祭当日。校内中に人がいて、声が飛び交って、誰もが浮き足立っている日。
いちばん明るいはずの日が、いちばん危険な日に変わる。
しずるはようやく、足を一歩だけ動かした。
玲音の暗がりから、入口のほうへ。
朝倉のほうへ。
朝倉はその動きを見て、強くではなく、でも迷いなく言った。
「帰るぞ」
帰る。
たったそれだけの言葉なのに、今のしずるにはひどく遠いもののように感じる。
それでも、その言葉を言える場所があるのだとわかった瞬間、膝の力が少し抜けた。
「……はい」
返事をすると、玲音の気配がわずかに遠のいた気がした。
最初に怪異へ向けて返した「はい」とは、意味がまるで違う。
今の返事は、奪われるためではなく、連れ戻されるためのものだった。
朝倉はしずるの腕を掴んだ。
強すぎない力だった。けれど離さない意志だけは、はっきりしていた。
音楽準備室を出る直前、しずるは一度だけ振り返る。
暗がりの中に立つ玲音の輪郭は、怒ってもいなければ泣いてもいない。ただ静かに、こちらを見ていた。
文化祭の日。
その言葉だけが、夕方の空気の中で嫌に鮮明に残り続けていた。
その声が響いた瞬間、しずるは反射で顔を上げた。
今度は迷わなかった。
似ているかどうかを考える前に、本物だとわかる。
声の高さでも、話し方でもない。名前を呼ぶ前のわずかな間、息の混じり方、その一瞬にちゃんと“しずるを見つける人”の気配がある。偽物にはないものが、そこにははっきりあった。
音楽準備室の入口に、朝倉が立っていた。
制服の上着の前が少し乱れていて、呼吸も速い。たぶん走ってきたのだろう。額にかかった前髪が汗で少しだけ張りついている。
顔色はよくない。怒っているようにも見える。けれど、それ以上に焦っていた。目の前のものを見失ったら本当に手遅れになると思っている人の顔だった。
「……朝倉」
しずるの口からこぼれた名前は、自分でも驚くほど弱かった。
けれど朝倉はそれを聞いた瞬間、わずかに肩を落とした。返事があった。それだけで、まだ間に合うとわかったみたいに。
「何で一人で来るんだよ」
荒い息のまま、朝倉が言う。
しずるは言葉を探した。
探しているあいだにも、玲音の気配は部屋の奥で静かに揺れている。朝倉が来たことで消えたわけではない。ただ、空気の向きが少し変わっただけだ。
「……」
「何とか言え」
朝倉の声が少し強くなる。
責めたいのではなく、つなぎ止めたいのだとわかる声だった。
それでも、しずるにはすぐ答えられない。自分でもなぜ来てしまったのか、ひとことで説明できないからだ。玲音を終わらせたかったのか。朝倉を困らせたくなかったのか。朝倉の声に頼りすぎる自分から逃げたかったのか。たぶん全部だ。
「巻き込みたく、なかった」
ようやく出た声は、情けないくらい小さかった。
朝倉の眉が寄る。
「それで、一人で消える気だったのか」
しずるは唇を噛む。
“消える”という言葉は、玲音の前で朝倉に言われるとやけに生々しかった。自分では終わらせるつもりだったのに、朝倉の口から出ると、ただ自分がここからいなくなる未来にしか聞こえない。
「……朝倉に、そこまでされる理由ないから」
しずるがそう言うと、朝倉はほとんど間を置かずに言い返した。
「まだそれ言うのかよ」
「だって」
「だってじゃない」
その言い方の強さに、しずるは肩をすくめる。
朝倉はいつもよりずっと感情を隠していなかった。正しいことを言おうとしているのではない。腹の底にある焦りと怒りが、そのまま言葉になっている。
「お前、勝手に決めるな」
その一言が、しずるには痛かった。
勝手に決めている。たしかにそうだ。自分がいなくなれば楽になるとか、朝倉を困らせないで済むとか、そういうことを全部、自分ひとりで決めようとしていた。誰にも相談しないまま、理由にならない理由を抱えて四階まで来た。
そのとき、部屋の奥から玲音の声がした。
「呼ばれてるから、そんなこと言えるんだ」
朝倉の視線が、初めてしずるから外れて玲音へ向く。
玲音は相変わらず暗がりの中に立っている。制服姿の輪郭は淡いのに、目だけがやけに静かだった。
「おまえは、持ってる側だ」
朝倉はすぐに否定した。
「違う」
「違わない」
玲音の声は穏やかだった。
怒鳴るでも、憎しみをぶつけるでもない。だからこそ、言葉のひとつひとつが冷たく残る。
「こいつは、おまえが呼ぶから残ってる」
しずるの胸の奥がきゅっと縮む。
それは、しずる自身がいちばんよくわかっていることだった。
朝倉が呼ぶから、自分は戻れる。
それを肯定でも否定でもなく、ただ事実として玲音に言われると、逃げ場がなくなる。
朝倉は玲音から目を逸らさないまま言った。
「だから呼ぶ」
玲音が少しだけ首を傾ける。
「何回でも」
その返答には、迷いがなかった。
「ずっと?」
玲音の問いは静かだった。
しずるには、その一言がひどく怖く聞こえた。ずっと、という言葉の重さを、たぶん玲音はよく知っている。待ち続けた時間が長すぎたからこそ、その言葉を簡単には信じないのだ。
けれど朝倉は、ほとんど躊躇せずに言い切った。
「ずっとだ」
放送室で聞いたときとも、教室で呼ばれたときとも違う声だった。
飾りがなく、強く、ただ本気だけが残っている。
しずるは思わず息を止める。
その言葉を受け取っていいのかどうか、自分ではまだ判断できない。けれど、聞いてしまった以上なかったことにはできない。
「……朝倉」
しずるが名を呼ぶと、朝倉はすぐにこちらを見た。
「来い」
短い命令だった。
でも、そこには朝倉の焦りも怒りも全部乗っていた。
ひとりで終わらせるな。そっちへ行くな。帰れ。戻れ。
そういう意味の全部をまとめて、一言で押し出してくる。
しずるは足を動かせなかった。
玲音のほうへ引かれる静かな誘惑と、朝倉のほうへ引き戻す真っ直ぐな声。その間で身体が固まる。
「水瀬」
朝倉がもう一度、名前を呼ぶ。
その声に、しずるの足先がわずかに動く。
本物だ、と身体が先にわかっている。
だから怖い。
戻りたいと思ってしまう自分を、もうごまかせないからだ。
玲音がその様子を見て、小さく笑ったように見えた。
笑ったというより、諦めに似た揺れだった。
「じゃあ、本番の日に返してもらう」
その一言で、しずるの背中が冷える。
朝倉がすぐに言い返す。
「ふざけんな」
「文化祭の日」
玲音は淡々と続けた。
「いちばん声が響く日に」
その言い方は不気味なくらい静かだった。
祝祭の明るさを、そのまま怪異の舞台へ変えてしまう宣告。
文化祭当日。校内中に人がいて、声が飛び交って、誰もが浮き足立っている日。
いちばん明るいはずの日が、いちばん危険な日に変わる。
しずるはようやく、足を一歩だけ動かした。
玲音の暗がりから、入口のほうへ。
朝倉のほうへ。
朝倉はその動きを見て、強くではなく、でも迷いなく言った。
「帰るぞ」
帰る。
たったそれだけの言葉なのに、今のしずるにはひどく遠いもののように感じる。
それでも、その言葉を言える場所があるのだとわかった瞬間、膝の力が少し抜けた。
「……はい」
返事をすると、玲音の気配がわずかに遠のいた気がした。
最初に怪異へ向けて返した「はい」とは、意味がまるで違う。
今の返事は、奪われるためではなく、連れ戻されるためのものだった。
朝倉はしずるの腕を掴んだ。
強すぎない力だった。けれど離さない意志だけは、はっきりしていた。
音楽準備室を出る直前、しずるは一度だけ振り返る。
暗がりの中に立つ玲音の輪郭は、怒ってもいなければ泣いてもいない。ただ静かに、こちらを見ていた。
文化祭の日。
その言葉だけが、夕方の空気の中で嫌に鮮明に残り続けていた。



