放課後、四階の音は名前を呼ぶ

 しずるは、落ちたファイルを拾う余裕もなく走り出した。

 四階の廊下を抜け、階段へ飛び込む。
 足音がやけに大きい。自分の靴音だけが、がらんとした校舎の中を追いかけてくる。手すりを掴む手が汗で少し滑った。資料の束を抱えたまま、ほとんど転がるように三階、二階と下りていく。

 どこまで逃げればいいのかわからない。
 音楽準備室から何かが追ってきている気配はない。なのに、背中だけがずっと見られている気がした。振り向いたら終わるような気がして、しずるはただ前だけを見た。

 一階まで下りたところで、ようやく空気が変わった。

 どこかの教室から椅子を引く音がする。
 廊下の先で誰かが笑った。
 グラウンドのほうから、運動部の笛の音も聞こえてくる。

 現実の音だった。

 しずるは階段の手すりに片手をつき、荒くなった呼吸を整えようとした。喉がひりつく。胸の奥だけがまだ、四階の冷たさを引きずっている。

 「水瀬くん?」

 名前を呼ばれて、肩が大きく跳ねた。

 顔を上げると、図書室の司書教諭が不思議そうにこちらを見ていた。
 五十代の、いつも静かな先生だ。眼鏡の奥の目が少しだけ丸くなっている。

 「どうしたの、そんなに慌てて」

 しずるはすぐには答えられなかった。
 先生の声は普通だった。怪異の声とはまるで違う。なのに“名前を呼ばれる”というそれだけで、胸の奥がまだひくついている。

 「……いえ」

 ようやく出た声は、自分でも驚くほどかすれていた。

 司書教諭は一歩近づいてきて、しずるの顔をのぞき込んだ。

 「顔色、悪いわよ。大丈夫?」

 「……平気です」

 「そう?」
 先生はしずるの胸元あたりに視線を落として、首をかしげた。
 「資料、置いてきた?」

 「え」

 しずるは反射的に、自分の腕の中を見下ろした。

 空だった。

 さっきまで確かに抱えていたはずの資料が、一冊もない。
 紙の角が当たっていた腕の内側だけが、まだ少しだけ重みを覚えているみたいにじんとする。けれど目の前の現実としては、何も持っていなかった。

 「……あ」

 声にならない息が漏れた。

 落としたのかと思った。
 けれど、階段を下りている途中で腕が軽くなった覚えはない。走っていた間も、確かに何かを抱えていた感触があった。あったはずなのに、今はそれが記憶の中にしか残っていない。

 司書教諭が心配そうに眉を寄せる。

 「忘れてきた? それとも、さっきまで持ってた?」

 しずるは答えられなかった。
 “持っていたのに消えた”なんて、口にした瞬間、自分でも信じられなくなる。

 「……あった、はずなんです」

 小さくそう言うと、先生はますます首をかしげた。

 「疲れてるんじゃない? 今日は文化祭準備でみんな落ち着かないし」
 それから、少しやわらかく笑って言う。
 「資料のことはあとで私が見ておくから、無理しないで帰っていいわよ」

 普通の言い方だった。
 だからこそ、しずるは余計に何も言えなくなった。

 四階で名前を呼ばれたこと。
 返事をしたこと。
 「ありがとう」と礼を言われたこと。
 そこから先のズレが、まだ自分の中でもひとつにつながっていない。

 「……すみません」

 そう返すのが精一杯だった。

 司書教諭は「謝らなくていいのよ」と言って、図書室のほうへ歩いていった。
 廊下にはまた普通の学校の音が戻る。生徒の足音。ドアの開閉。誰かの「それ違うって」という声。さっきまでいた場所と同じ校舎の中とは思えないくらい、どれも日常の音だった。

 それでも、しずるはすぐには動けなかった。

 手のひらを見下ろす。
 指先が少し震えている。資料を抱えていた感覚だけがまだ残っていて、何も持っていないことのほうが不自然だった。

 しずるはゆっくり息を吸い、今度は自分の足で歩き出した。
 図書室に戻る気にはなれなかった。司書教諭が「あとで見ておく」と言ったことに甘えるように、そのまま昇降口へ向かう。

 下駄箱の前でも、一度だけ振り返った。
 特別棟へ続く渡り廊下は、夕方の光の中で白く細く伸びているだけだった。誰もいない。何もない。
 それなのに、あの四階だけは今もまだ、別の時間で止まっている気がする。

 靴を履き替え、校門を出る。
 外の空気は少しひんやりしていた。もう十月の終わりだから、陽が落ちるのも早い。通学路には同じ制服の生徒が何人か歩いていて、自転車のベルが遠くで鳴った。

 日常に戻ったはずだった。

 なのに、耳の奥にはまだあの声が残っている。
 名字ではなく、今度はフルネームで呼ばれた響きが、妙にはっきりと離れない。

 水瀬しずる。

 心の中で、自分の名前を一度だけ繰り返す。
 それだけで少し安心するかと思ったが、うまくいかなかった。自分の名前なのに、自分で言うとどこか薄い。誰かに呼ばれたときのほうが、ずっと現実味があることに気づいてしまい、しずるはかえってぞっとした。

 家に着いて、玄関で靴を脱ぐ。
 リビングからはテレビの音が聞こえ、台所では食器の触れ合う音がした。いつもの家だ。いつもの夕方だ。
 それでも、自室へ入って鞄を置いたあともしずるはしばらく立ったままだった。

 制服の袖口を見つめる。
 腕の内側にはもう何の重みも残っていない。
 資料が本当に最初からなかったみたいに、現実のほうが静かに整っている。

 机の上のペンを一本手に取り、ノートを開く。
 意味もなく、名前を書こうとして、手が止まった。

 自分の名前を書くことさえ、今は少しだけ怖い。

 結局、ノートは白いままだった。

 その夜、布団に入ってもなかなか眠れなかった。
 目を閉じると、半開きの音楽準備室の扉が浮かぶ。暗い隙間。立っている気配。礼を言う声。
 しずるは枕に顔を埋めたまま、小さく息を吐いた。

 返事をしただけだ。
 たった一言、「はい」と言っただけ。

 なのに、その一言で何かが決定的にずれた気がしてならなかった。

 翌朝、最初に消えたのは、自分の名前だった。