放課後、四階の音は名前を呼ぶ

 四階へ続く階段を上がるたび、校舎の音が少しずつ遠のいた。

 一階ではまだ聞こえていた笑い声も、二階ではくぐもり、三階では壁の向こうのざわめきに変わる。四階へ着くころには、それらはもう“外の世界の音”になっていた。
 廊下は薄暗く、窓から差し込む夕方の光だけが床を白く照らしている。古い掲示物の端がわずかにめくれ、誰もいないはずなのに、空気だけがそこに何かを待っているみたいに止まっていた。

 音楽準備室の扉は、以前と同じように少しだけ開いていた。

 しずるはその前で足を止める。
 鼓動が速い。
 喉が乾いている。
 それでも、引き返そうとは思わなかった。ここまで来たのは、自分で選んだからだ。朝倉の声に呼ばれたからではない。誰かに背中を押されたからでもない。
 そう思い込もうとするほど、胸の奥では別の声がささやく。本当は、止めてほしかったんだろう。
 しずるはその声を振り払うみたいに、扉を押した。

 軋む音がして、暗い室内がゆっくり開く。

 積まれた椅子。古い譜面台。楽器ケース。
 窓の外の光は弱く、部屋の奥までは届いていない。
 その暗がりの中に、ひとつだけ人の形があった。

 最初に見たときより、ずっとはっきりしている。
 制服姿の少年だった。しずるたちと変わらない年頃に見える。髪は少し長めで、顔立ちは整っているのに、全体が水の底から浮かび上がっているみたいに淡い。
 けれど目だけは妙に静かで、こちらをまっすぐ見ていた。

 「来てくれてよかった」

 玲音はそう言った。

 責める声ではなかった。
 うれしいとも違う。
 ずっと待っていた約束がようやく果たされたみたいな、静かな安堵だけがそこにあった。

 しずるは扉のそばに立ったまま、息を整える。

 「……待ってたんですか」

 玲音は少しだけ首を傾ける。

 「うん」

 その答えはあまりにも軽くて、しずるは逆に言葉を失った。
 待っていた。
 たぶんずっと。十数年という時間を、その一言で片づけるみたいに。

 しずるは喉の奥の乾きを飲み込み、ようやく次の言葉を押し出す。

 「どうして、僕を呼ぶんですか」

 玲音は一歩も近づかないまま言う。

 「呼ばれたから」

 「……返事をしたから」

 「そう」

 玲音の声は穏やかだった。

 「返してくれたの、おまえだけだった」

 その一言が、しずるの胸に重く落ちた。

 最初に四階で声を聞いたとき、しずるはただ反射で「はい」と返してしまっただけだ。
 深く考えたわけでも、助けようとしたわけでもない。
 なのに玲音にとっては、それが唯一の応答だった。長いあいだ、誰にも返されなかった呼びかけに、たった一度、返事が返ってきたのだ。

 しずるは視線を逸らせないまま立っている。

 玲音が続ける。

 「待ってたんだ」
 「呼ばれるのを」
 「見つけてもらえると思ってた」

 その声に、怒りはほとんどなかった。
 あるのは、疲れ果てた静けさだった。

 「でも、誰も来なかった」

 しずるの指先がわずかに震える。

 「最初は、みんな探してるって思ってた」
 「すぐ見つかると思ってた」
 「そのうち名前を呼んでくれると思ってた」

 玲音は少しだけ目を伏せる。

 「でも、来なかった」
 「待ってるうちに、いないことにされた」

 いないことにされた。

 その言い方が、しずるには痛いほどわかった。
 忘れられる、と少し違う。
 名前が抜け落ちること。
 最初から数えられていなかったみたいに、その場から滑り落ちること。
 最近のしずるの毎日は、まさにその輪郭を少しずつなぞっていた。

 「……怖かったですよね」

 気づけば、そう言っていた。

 玲音はしずるを見る。
 その目には驚きも皮肉もない。ただ、ようやく話が通じる相手を見つけたみたいな静かな色があった。

 「怖かったよ」

 短い返事だった。
 でもそれで十分だった。

 「だから、おまえはわかると思った」

 しずるは何も言えない。
 否定したかった。自分は同じじゃないと言いたかった。
 でも言えなかった。
 名前を飛ばされ、見えているのに見えていないみたいに扱われ、写真の中で輪郭が薄くなり、家でも最初から数えられない。
 それらを積み重ねた先にある孤独を、しずるはもう身体で知っている。

 玲音の声がさらに静かになる。

 「おまえも、同じだろ」

 その問いは問いではなかった。
 断定だった。
 しずるの逃げ道を先回りして塞ぐような言い方だった。

 「……」

 答えられない。
 答えられないこと自体が、ほとんど肯定になっている。

 玲音はそれを見て、小さく息を吐く。

 「呼ばれないなら、もう頑張らなくていい」

 その言葉に、しずるの肩が揺れた。

 「待たなくてもいい」
 「見つけてもらおうとしなくていい」
 「消えたほうが、楽だよ」

 やさしい声だった。
 だからこそ危なかった。
 責めるのでも、脅すのでもない。しずるが一番弱っているところへ、いちばんほしい形の諦めを差し出してくる。

 「おまえ、ずっとそう思ってた」

 しずるは唇を噛んだ。
 違うと言いたい。
 でも、まったく違うとは言えない。
 “いなくても困らない側”として生きてきた感覚は、怪異が始まる前から自分の中にあった。だから玲音の言葉は、怪異の囁きなのに妙に現実的だった。

 「……朝倉が、呼ぶから」

 それがやっとだった。
 朝倉の名前を出した瞬間、胸の奥が少しだけ熱を持つ。最後に残る抵抗は、たぶんそこにしかない。

 玲音はしずるを見つめたまま言う。

 「今だけだよ」

 しずるの喉が詰まる。

 「いなくなったら、すぐ忘れる」

 その言葉は、朝倉を悪く言っているようには聞こえなかった。
 むしろ残酷なくらい静かな現実として置かれた。
 今だけ。
 もし朝倉がいなくなれば。
 もし呼ばれなくなれば。
 そうなったとき、自分はどこまで保てるのか。

 しずるは息を吸う。
 答えは出ない。
 ただ、玲音の言葉が胸の奥へ沈んでいくのを止められなかった。

 朝倉の声を思い浮かべる。
 呼ばれたときの、自分の輪郭が戻る感覚を思い出す。
 それでも、その救いにすがっている自分の弱さまで一緒に浮かび上がってしまい、しずるはその場で動けなくなっていた。