放課後、四階の音は名前を呼ぶ

 文化祭前日、校舎の中は遅くまで明るかった。

 教室の前にはまだ装飾用の段ボールが積まれ、廊下の端には使い終わったペンキ缶が並んでいる。どこかのクラスでは最終確認らしく大きな笑い声が上がり、別の教室では机を動かす重い音が響いた。
 明日になれば、この騒がしさはそのまま“楽しい日”の空気へ変わるのだろう。そう思うと、しずるにはその明るさが少し遠かった。

 放課後、放送室を出てからもしばらく、朝倉の声が耳の奥に残っていた。

 じゃあ呼ぶ。

 あまりにも当然みたいな言い方だった。
 呼ぶことを約束でも決意でもなく、ただ自分のすることとして置くような、迷いのない声。
 それがうれしかった。
 うれしいと思ってしまったことのほうが、しずるには苦しかった。

 階段を下りながら、しずるは手すりに軽く指を滑らせた。
 冷たい金属の感触はたしかにある。けれど、最近はそういう確かさだけでは足りない。触れた感覚があっても、自分がここにいることの輪郭までは支えきれない。
 名前を呼ばれたときだけ戻る。
 その事実が今では、救いであると同時に鎖のようにも思えた。

 「……困る、って」

 踊り場で立ち止まり、小さく呟く。

 朝倉が言った、俺が困る、という言葉。
 あの一言を思い出すだけで胸の奥がざわつく。
 いなくなるな、と言われたこと。困る、と言われたこと。嫌だ、と言われたこと。
 どれも、しずるが今まで受け取ったことのない種類の言葉だった。

 だからこそ、逃げたくなる。

 朝倉が呼んでくれるから、自分はまだここにいられる。
 それは本当だ。
 でも、その本当を受け取ってしまったら、自分はもう“いなくても困らない側”のままでいられなくなる。
 誰か一人に強く引き留められてしまったことを認めたら、そのぶんだけ、朝倉に渡してしまうものが増える気がした。

 「そんなの、困らせるほうが悪いだけだ」

 独り言みたいにそう言ってみる。
 言葉にした途端、自分で自分を切り離すような冷たさがそこにあった。
 でも今は、その冷たさのほうが楽だった。
 朝倉が呼ぶ。しずるが戻る。そうやって一時的に保たれているだけなら、いっそその元を断てば終わるのではないか。そう考えてしまう。
 自分が薄くなっていく原因が玲音なら、自分がそこへ行って終わらせればいい。
 それは誰かを守る立派な自己犠牲ではなく、もっとずっと内向きで、自分勝手で、疲れた人間の考えだとわかっていた。
 それでも、そのほうが少しだけ楽に思えた。

 廊下の窓に映った自分の姿は、夕方の光の中でまた少し輪郭が弱かった。
 肩の線が背景に溶ける。目元が曖昧になる。
 朝倉に会えば、たぶん少し戻る。名前を呼ばれれば、また今日も床の感触が近くなる。
 でも、そのたびに思い知らされる。
 自分は一人では保てないのだと。

 「……終わらせないと」

 しずるはそう呟いて、教室棟とは逆の廊下へ歩き出した。

 そのとき、前方の曲がり角の向こうから声がした。

 「水瀬」

 朝倉の声だった。

 しずるの足が止まる。
 けれど今回は、すぐには振り向かなかった。
 耳の奥で、昨日までならそれだけで寄ってしまっていた音を、今日は一歩分だけ遠くへ置いて聞こうとする。

 「……朝倉じゃない」

 小さくそう返す。
 確信があったわけではない。ただ、本物ならこういう呼び方はしないだろうと思っただけだ。
 朝倉は名前を呼んだあと、こちらが顔を上げる一瞬を待つ。
 今の声には、その待つ間がない。

 少しの沈黙のあと、また声がする。

 「こっち」

 短い。
 促すだけの声。

 しずるは曲がり角を見つめたまま、唇を噛んだ。
 偽物だとわかっている。
 それでも、身体のどこかがその声に引っ張られる。
 玲音のほうへ行けば、終わるかもしれない。
 朝倉がこれ以上困ることも、呼び続けることも、自分がそれに甘えてしまうことも、全部。

 「……でも」

 しずるは一度だけ目を閉じた。
 本当にそれで終わるのかはわからない。
 むしろもっと悪いほうへ行くのかもしれない。
 それでも今は、放っておいてもいずれ同じ場所へ引かれるのだという確信のほうが強かった。

 だったら、自分で行く。

 「……終わらせないと」

 今度ははっきり口にして、しずるは歩き出した。

 教室棟を離れ、渡り廊下へ向かう。
 窓の外では、文化祭前日の明るいざわめきがまだ続いている。グラウンドの向こうには夕焼けが残り、校庭の隅では誰かが脚立を片づけていた。
 それなのに渡り廊下の先だけ、別の時間が始まっているみたいに静かだった。

 特別棟の入口をくぐる。
 空気が一段冷える。
 しずるはそれでも足を止めなかった。

 これでいい。
 これで、たぶん。
 心の中でそう繰り返しながらも、その“たぶん”だけは最後まで消えない。
 自分で選んで進んでいるはずなのに、どこかでまだ、誰かに止めてほしいと思っている自分がいる。

 それでも、階段の前に立ったしずるは、少しだけ息を整えてから、一段目へ足をかけた。

 四階へ上がるその一歩は、戻れなくなる境界線を越えるみたいに重かった。