放課後、四階の音は名前を呼ぶ

 結局、その日の放課後もしずるは放送室へ向かった。

 逃げ込むみたいで嫌だと思う気持ちは、まだ少し残っている。
 けれど教室にあのまま長くいるのは、もっと嫌だった。
 人が多いほど、自分が薄くなる。誰かの言葉の流れに入りそびれ、机の位置ひとつさえ、あとから思い出される。そんな小さなことの積み重ねが、今日はいつもよりずっときつかった。

 管理棟の二階まで来ると、教室棟のざわめきは扉と壁をいくつか隔てたぶんだけ遠くなる。
 職員室の前を通り、放送室のプレートが見えたところで、しずるはようやく少し息を吐けた。
 ここへ向かう足取りは、もうかなり自然になっている。意識しないまま来てしまってから、そのことに気づく程度には。

 扉を開けると、香坂が先に顔を上げた。

 「遅かったね」

 「捕まえてた」

 朝倉がしずるの少し後ろから言う。
 さっき教室まで来たあと、そのまましばらく文化祭の資料を取りに行っていたらしい。
 しずるは鞄を肩から下ろしながら、小さく眉を寄せる。

 「物みたいに言わないでください」

 香坂がそれを聞いて、机の上のクリアファイルを揃えながら言った。

 「でも捕獲はされた顔してる」

 「どういう顔ですか」

 「助かったけど、認めたくない顔」

 あまりにそのままで、しずるは返す言葉を失った。
 朝倉が横で小さく笑う。
 それが少し悔しい。

 香坂は時計を見て、持っていた書類をまとめた。

 「私はこれ、職員室に出してくる」
 扉の前で一度だけ振り返り、二人を見比べる。
 「放送機材いじって壊さないでよ」

 「壊さないって」

 「……たぶん」

 しずるがつい口を挟むと、朝倉がそちらを見る。

 「何でお前まで信用ないんだよ」

 「朝倉だからです」

 「理由が雑」

 軽く笑い合ったまま、香坂は「はいはい」と言って出ていった。
 扉が閉まる。
 放送室の中には機材の小さな駆動音と、窓の外の夕方の光だけが残る。

 しずるは鞄を椅子の脇に置いた。
 何か手伝うことがありますか、と言いかける前に、朝倉が椅子を足で軽く引いた。

 「座れよ」

 言い方はいつも通り軽いのに、妙に逆らいにくい。
 しずるは黙ってその椅子へ腰を下ろした。座った瞬間、今日一日ずっと浮いていたみたいな足元が、少しだけ床に落ち着く。

 朝倉も向かいに座る。
 机の上には昼の放送原稿と、文化祭当日の進行表、CDケースがいくつか散らばっている。どれも見慣れたはずなのに、ここにあるというだけでほっとするものばかりだった。

 「水瀬」

 名前を呼ばれる。

 しずるは反射みたいに顔を上げた。

 「……はい」

 それだけで、胸の奥が少し静まる。
 さっきまで教室で感じていた薄さが、ようやく机の向こうへ押し戻される。自分の指先、自分の膝、椅子の硬さ。全部がちゃんとこちら側にある。

 朝倉がしずるの顔を見ながら言う。

 「今、ちょっと戻った」

 「朝倉、最近そればっかりです」

 「確認してんの」

 「確認しなくても、だいたい来てます」

 言ってから、しずるは少しだけ息を止めた。
 来てます。
 その言い方は、自分がもう“放送室へ来る側”になっていることを、そのまま認めたみたいだった。

 朝倉も同じことに気づいたらしく、少しだけ目を細める。

 「……来てます、ね」

 「真似しないでください」

 「いや、別に真似じゃなくて」

 朝倉はそこで言葉を切り、原稿の束を机の端へ寄せた。

 「じゃあ今日も、しばらくいれば」

 何でもない口調だった。
 けれど、それは実質的には引き留める言葉だと、しずるにもわかった。

 「帰らなくてもいいんですか」

 問いかける自分の声が、思っていたより小さい。
 帰りたくない、とまではまだ言えない。言ってしまったら、いろいろなことが少しずつ形になりすぎる気がした。

 朝倉は肩をすくめる。

 「帰れとは言ってない」

 しずるは机の上の進行表を見た。
 文化祭当日の細かい時間が、黒い文字でびっしり並んでいる。行ごとに役割が決まっていて、誰かが何時に何をするのか、全部書いてある。
 なのに自分だけは、ここにいる理由をまだ言葉にできない。

 「……」

 何も返せないまま黙っていると、朝倉が少しだけ声を落とした。

 「いたいなら、いろよ」

 その言い方に、しずるは喉の奥がつまるのを感じた。
 先回りされた、と思う。
 言えなかった言葉を、代わりに言われてしまった。
 それは救いなのに、どこかずるい。

 「……ずるいです」

 思わずそう言うと、朝倉は本気で意味がわからないような顔をした。

 「何が」

 「言わせないの」

 「何を」

 「……そういうの」

 曖昧な言い方しかできない自分がもどかしい。
 帰りたくないとか、ここにいたいとか、そういう類の言葉だ。自分でちゃんと言う勇気がないくせに、朝倉に先に差し出されると、余計に困る。

 朝倉はしばらくしずるの顔を見ていたが、やがて小さく息を吐いた。

 「言わせたくないから」

 「……」

 「言わなくても、わかるし」

 まっすぐすぎる言葉だった。
 しずるは視線を逸らすしかない。
 放送室の中は静かで、機材の小さなランプだけがいつも通りに点っている。外では文化祭前のざわめきがまだ遠く続いているのに、この部屋だけは別の速度で時間が流れているようだった。

 朝倉がもう一度、いつもより少しだけ低い声で呼ぶ。

 「水瀬」

 しずるは今度は少しだけ間を置いてから答えた。

 「……はい」

 「今日もちゃんといる」

 確認みたいな言い方だった。
 しずるは膝の上の手を見つめる。
 さっきまで教室で何度も見失いそうになった自分の輪郭が、今はここにちゃんとある。

 「……朝倉が呼ぶからです」

 口にしてから、胸の奥が少しだけ熱くなる。
 依存みたいな言葉だと思う。
 でももう、それを完全に否定する気にはなれなかった。

 朝倉は何も笑わなかった。
 ただ、当たり前みたいに言う。

 「じゃあ呼ぶ」

 その一言だけで、しずるは椅子の背にもたれた。
 帰りたくないとは結局最後まで言えなかった。
 けれど座り直した時点で、答えはもう充分すぎるほど出ていた。