放課後、四階の音は名前を呼ぶ

 「探した」

 その一言の余韻が残ったまま、しずるは朝倉と並んで教室の前まで戻った。

 戻ったところで、何かが劇的に変わるわけではない。
 廊下は相変わらず騒がしく、教室の中では文化祭準備の続きが進んでいる。色紙の山、机の移動、掲示物の貼り直し。誰もが自分の作業に集中していて、悪意なく、視界の端にあるものをどんどん置き去りにしていく。

 その“置き去り”のほうへ、しずるはまだ引かれやすかった。

 「はい、これ回して」

 教室へ入った直後、前方の列からプリントが配られ始めた。文化祭当日の注意事項らしい。紙は順番に後ろへ流れていき、隣の列まで渡っていく。しずるは自分のところにもそのうち来るだろうと思って待った。

 けれど、来ない。

 前の席の生徒が隣へ渡し、その隣がまた別の生徒へ渡す。
 しずるの机だけを飛ばして、紙の流れは自然に後ろまで進んでいった。

 「……一枚、ないです」

 自分でも驚くくらい小さな声だった。
 それでも、紙を配っていた女子は顔を上げる。

 「え?」

 一瞬だけ、誰に向かって話しかけられたのかわからない顔をする。
 それからようやく、しずるの姿を認識したらしく目を丸くした。

 「うわ、ごめん、水瀬いたんだ」

 胸の奥がひやりとする。
 同じ言葉だ、としずるは思った。
 以前、隣の席の男子にも言われた。いたんだ。まるで、今この瞬間までここに存在していなかったみたいな言い方。

 「……います」

 しずるはプリントを受け取りながら、それだけ返す。
 相手は本当に悪気がないのだろう。「ごめん」と軽く笑って、すぐ次の話へ戻っていく。

 机の上に置かれた紙は白くて薄い。
 それなのに、今はその一枚の重みのほうが、自分の存在よりまだ確かな気がした。

 少しして、教室の後ろの机を動かすことになった。
 文化祭当日は通路を広く取るらしく、不要な机を廊下側へ寄せる必要があるのだという。クラスメイトの一人がしずるの机の端に手をかけた。

 「この机、邪魔だから下げていい?」

 本人に確認しているような口ぶりだったが、視線はしずるではなく別の場所に向いていた。
 しずるは一瞬遅れて声を出す。

 「それ、僕の」

 「あ、え、ごめん」

 手をかけていた男子はそこでようやくしずるを見た。
 本当に今気づいた、という顔だった。
 しずるは机の角を押さえたまま、小さくうなずくしかない。

 その“ごめん”が、今日は何度も自分の上を通り過ぎていく。
 謝られるたびに、自分がそこにいたことだけは事後的に証明される。
 けれど、その証明はいつも遅い。最初から数えられているわけではない。あとから「あ、いたんだ」と付け足されるだけだ。

 胸の奥が静かに削られていく。
 怒りというほどの熱はない。むしろ逆で、だんだん何も言う気力がなくなっていく。
 次にまた飛ばされても、何も言わずにそのまま立っていそうな自分がいて、しずるはそれが少し怖かった。

 「水瀬」

 不意に名前を呼ばれて、しずるは顔を上げた。

 朝倉が教室の入口に立っていた。
 昼の放送用のファイルを片手に持ち、少しだけ息を弾ませている。職員室から戻る途中らしかった。

 「……何ですか」

 「顔、死んでる」

 しずるは反射で眉を寄せる。

 「死んではないです」

 「じゃあ半分くらい」

 「縁起悪いこと言わないでください」

 それだけの短いやり取りだったのに、教室の空気が少しだけ離れる。
 しずるの中で、さっきまで薄く広がっていたざわつきが、一つの場所へ寄り集まる。朝倉の声が、また自分の輪郭を拾い上げる。

 朝倉は教室の中を一瞥し、それからしずるを見る。

 「今日、何回目」

 「……何がですか」

 「いるのに気づかれないやつ」

 図星だった。
 しずるは少しだけ視線を落とす。

 「数えてないです」

 「数えるなよ」

 朝倉は低く言った。

 「しんどいから」

 しずるはその言い方に、少しだけ息を止める。
 自分がしんどいのではなく、数えること自体がしんどいのだと、朝倉は先に決める。
 慰めるのではなく、そういうふうに線を引いてくれるところが、ずるいと思う。

 朝倉はそこで少しだけ声を落とした。

 「でも、俺は見つけるから」

 何でもない顔で言うには、重い一言だった。

 しずるは返せなかった。
 うなずくことも、冗談にすることもできない。
 ただその言葉だけが、さっき配られた薄いプリントよりもずっとはっきりと、自分の胸の奥に残っていくのを感じていた。