「探した」
その一言の余韻が残ったまま、しずるは朝倉と並んで教室の前まで戻った。
戻ったところで、何かが劇的に変わるわけではない。
廊下は相変わらず騒がしく、教室の中では文化祭準備の続きが進んでいる。色紙の山、机の移動、掲示物の貼り直し。誰もが自分の作業に集中していて、悪意なく、視界の端にあるものをどんどん置き去りにしていく。
その“置き去り”のほうへ、しずるはまだ引かれやすかった。
「はい、これ回して」
教室へ入った直後、前方の列からプリントが配られ始めた。文化祭当日の注意事項らしい。紙は順番に後ろへ流れていき、隣の列まで渡っていく。しずるは自分のところにもそのうち来るだろうと思って待った。
けれど、来ない。
前の席の生徒が隣へ渡し、その隣がまた別の生徒へ渡す。
しずるの机だけを飛ばして、紙の流れは自然に後ろまで進んでいった。
「……一枚、ないです」
自分でも驚くくらい小さな声だった。
それでも、紙を配っていた女子は顔を上げる。
「え?」
一瞬だけ、誰に向かって話しかけられたのかわからない顔をする。
それからようやく、しずるの姿を認識したらしく目を丸くした。
「うわ、ごめん、水瀬いたんだ」
胸の奥がひやりとする。
同じ言葉だ、としずるは思った。
以前、隣の席の男子にも言われた。いたんだ。まるで、今この瞬間までここに存在していなかったみたいな言い方。
「……います」
しずるはプリントを受け取りながら、それだけ返す。
相手は本当に悪気がないのだろう。「ごめん」と軽く笑って、すぐ次の話へ戻っていく。
机の上に置かれた紙は白くて薄い。
それなのに、今はその一枚の重みのほうが、自分の存在よりまだ確かな気がした。
少しして、教室の後ろの机を動かすことになった。
文化祭当日は通路を広く取るらしく、不要な机を廊下側へ寄せる必要があるのだという。クラスメイトの一人がしずるの机の端に手をかけた。
「この机、邪魔だから下げていい?」
本人に確認しているような口ぶりだったが、視線はしずるではなく別の場所に向いていた。
しずるは一瞬遅れて声を出す。
「それ、僕の」
「あ、え、ごめん」
手をかけていた男子はそこでようやくしずるを見た。
本当に今気づいた、という顔だった。
しずるは机の角を押さえたまま、小さくうなずくしかない。
その“ごめん”が、今日は何度も自分の上を通り過ぎていく。
謝られるたびに、自分がそこにいたことだけは事後的に証明される。
けれど、その証明はいつも遅い。最初から数えられているわけではない。あとから「あ、いたんだ」と付け足されるだけだ。
胸の奥が静かに削られていく。
怒りというほどの熱はない。むしろ逆で、だんだん何も言う気力がなくなっていく。
次にまた飛ばされても、何も言わずにそのまま立っていそうな自分がいて、しずるはそれが少し怖かった。
「水瀬」
不意に名前を呼ばれて、しずるは顔を上げた。
朝倉が教室の入口に立っていた。
昼の放送用のファイルを片手に持ち、少しだけ息を弾ませている。職員室から戻る途中らしかった。
「……何ですか」
「顔、死んでる」
しずるは反射で眉を寄せる。
「死んではないです」
「じゃあ半分くらい」
「縁起悪いこと言わないでください」
それだけの短いやり取りだったのに、教室の空気が少しだけ離れる。
しずるの中で、さっきまで薄く広がっていたざわつきが、一つの場所へ寄り集まる。朝倉の声が、また自分の輪郭を拾い上げる。
朝倉は教室の中を一瞥し、それからしずるを見る。
「今日、何回目」
「……何がですか」
「いるのに気づかれないやつ」
図星だった。
しずるは少しだけ視線を落とす。
「数えてないです」
「数えるなよ」
朝倉は低く言った。
「しんどいから」
しずるはその言い方に、少しだけ息を止める。
自分がしんどいのではなく、数えること自体がしんどいのだと、朝倉は先に決める。
慰めるのではなく、そういうふうに線を引いてくれるところが、ずるいと思う。
朝倉はそこで少しだけ声を落とした。
「でも、俺は見つけるから」
何でもない顔で言うには、重い一言だった。
しずるは返せなかった。
うなずくことも、冗談にすることもできない。
ただその言葉だけが、さっき配られた薄いプリントよりもずっとはっきりと、自分の胸の奥に残っていくのを感じていた。
その一言の余韻が残ったまま、しずるは朝倉と並んで教室の前まで戻った。
戻ったところで、何かが劇的に変わるわけではない。
廊下は相変わらず騒がしく、教室の中では文化祭準備の続きが進んでいる。色紙の山、机の移動、掲示物の貼り直し。誰もが自分の作業に集中していて、悪意なく、視界の端にあるものをどんどん置き去りにしていく。
その“置き去り”のほうへ、しずるはまだ引かれやすかった。
「はい、これ回して」
教室へ入った直後、前方の列からプリントが配られ始めた。文化祭当日の注意事項らしい。紙は順番に後ろへ流れていき、隣の列まで渡っていく。しずるは自分のところにもそのうち来るだろうと思って待った。
けれど、来ない。
前の席の生徒が隣へ渡し、その隣がまた別の生徒へ渡す。
しずるの机だけを飛ばして、紙の流れは自然に後ろまで進んでいった。
「……一枚、ないです」
自分でも驚くくらい小さな声だった。
それでも、紙を配っていた女子は顔を上げる。
「え?」
一瞬だけ、誰に向かって話しかけられたのかわからない顔をする。
それからようやく、しずるの姿を認識したらしく目を丸くした。
「うわ、ごめん、水瀬いたんだ」
胸の奥がひやりとする。
同じ言葉だ、としずるは思った。
以前、隣の席の男子にも言われた。いたんだ。まるで、今この瞬間までここに存在していなかったみたいな言い方。
「……います」
しずるはプリントを受け取りながら、それだけ返す。
相手は本当に悪気がないのだろう。「ごめん」と軽く笑って、すぐ次の話へ戻っていく。
机の上に置かれた紙は白くて薄い。
それなのに、今はその一枚の重みのほうが、自分の存在よりまだ確かな気がした。
少しして、教室の後ろの机を動かすことになった。
文化祭当日は通路を広く取るらしく、不要な机を廊下側へ寄せる必要があるのだという。クラスメイトの一人がしずるの机の端に手をかけた。
「この机、邪魔だから下げていい?」
本人に確認しているような口ぶりだったが、視線はしずるではなく別の場所に向いていた。
しずるは一瞬遅れて声を出す。
「それ、僕の」
「あ、え、ごめん」
手をかけていた男子はそこでようやくしずるを見た。
本当に今気づいた、という顔だった。
しずるは机の角を押さえたまま、小さくうなずくしかない。
その“ごめん”が、今日は何度も自分の上を通り過ぎていく。
謝られるたびに、自分がそこにいたことだけは事後的に証明される。
けれど、その証明はいつも遅い。最初から数えられているわけではない。あとから「あ、いたんだ」と付け足されるだけだ。
胸の奥が静かに削られていく。
怒りというほどの熱はない。むしろ逆で、だんだん何も言う気力がなくなっていく。
次にまた飛ばされても、何も言わずにそのまま立っていそうな自分がいて、しずるはそれが少し怖かった。
「水瀬」
不意に名前を呼ばれて、しずるは顔を上げた。
朝倉が教室の入口に立っていた。
昼の放送用のファイルを片手に持ち、少しだけ息を弾ませている。職員室から戻る途中らしかった。
「……何ですか」
「顔、死んでる」
しずるは反射で眉を寄せる。
「死んではないです」
「じゃあ半分くらい」
「縁起悪いこと言わないでください」
それだけの短いやり取りだったのに、教室の空気が少しだけ離れる。
しずるの中で、さっきまで薄く広がっていたざわつきが、一つの場所へ寄り集まる。朝倉の声が、また自分の輪郭を拾い上げる。
朝倉は教室の中を一瞥し、それからしずるを見る。
「今日、何回目」
「……何がですか」
「いるのに気づかれないやつ」
図星だった。
しずるは少しだけ視線を落とす。
「数えてないです」
「数えるなよ」
朝倉は低く言った。
「しんどいから」
しずるはその言い方に、少しだけ息を止める。
自分がしんどいのではなく、数えること自体がしんどいのだと、朝倉は先に決める。
慰めるのではなく、そういうふうに線を引いてくれるところが、ずるいと思う。
朝倉はそこで少しだけ声を落とした。
「でも、俺は見つけるから」
何でもない顔で言うには、重い一言だった。
しずるは返せなかった。
うなずくことも、冗談にすることもできない。
ただその言葉だけが、さっき配られた薄いプリントよりもずっとはっきりと、自分の胸の奥に残っていくのを感じていた。



