放課後、四階の音は名前を呼ぶ

 文化祭前日が近づくにつれて、校舎の中はますます明るくなっていった。

 廊下の天井には紙の鎖が渡され、教室の扉には色とりどりのポスターが貼られる。段ボールの切れ端や色画用紙の端が足元に散っていて、どこを歩いても、誰かが何かを作っている途中の音がする。
 笑い声。
 机を引く音。
 ガムテープをちぎる音。
 準備で浮き足立った空気が、学校全体を少しだけ日常から押し出しているみたいだった。

 そんな中に立っていると、しずるは自分だけが背景へ押し込まれていく感じがした。

 人が多いほど、輪郭は薄くなる。
 最初は気のせいかもしれないと思っていた。けれど最近は、もうはっきりわかる。教室が騒がしくなればなるほど、廊下の行き来が増えれば増えるほど、しずるの存在は自然に流されていく。
 ぶつかられるわけではない。
 避けられるわけでもない。
 ただ、“最初から数に入っていないもの”みたいに、人の視線と会話の隙間からこぼれていく。

 その日もしずるは、教室の後ろに積まれた装飾用の箱を持ち上げようとして、すぐ手を引っ込めた。
 自分が運ぼうとしていることに、誰も気づいていなかったからだ。箱のそばにはすでに二人いて、「それこっち」「いや、先に黒板のほう」と話を進めている。しずるがそこへ入る余地は、物理的にはあるのに、会話の流れの中にはない。

 「これ、どこに置くの」

 誰かが言う。

 「教室前。邪魔だから早く」

 「じゃあ運ぶ」

 その三つの短いやり取りの間に、しずるは結局一度も声を出せなかった。
 出せばよかったのだと思う。
 でも出す前に、もう話が終わっていた。
 いつもそうだ。自分から一歩踏み出す頃には、会話の波はもう別のほうへ流れている。

 箱が運ばれていくのを見送ってから、しずるは机の横へ立った。
 自分の席の上にも色紙の束とマーカーが置かれていて、誰のものだかわからないノートまで混ざっている。たぶん誰かが一時的に置いただけだ。悪意はない。ないからこそ、それをどけてほしいと言うのが妙に大げさなことみたいに思えてしまう。

 教室の窓ガラスに映った自分は、今日も少し薄かった。
 光の加減かもしれない。そう言い聞かせても、最近はもう自分で自分に納得できない。人の多い場所では、自分の輪郭が確かに一段後ろへ下がる。

 「ごめ、そこいたんだ」

 背後から声がして、しずるは半歩ずれた。
 振り向くと、クラスメイトの一人が飾りの棒を抱えたまま立っていた。しずるが立っていたことに今気づいたらしい顔だった。

 「……大丈夫」

 それしか言えない。
 相手はすぐに「悪い」とだけ言って通り過ぎていく。軽くて、何でもないひと言。
 けれど、その“何でもなさ”がしずるには一番きつかった。謝られたわけでも責められたわけでもない。ただ、気づかれなかっただけ。そこに大きな意味がないぶん、自分のほうが余計に意味を与えてしまう。

 教室の空気が急に息苦しくなる。

 しずるは小さく息を吐いて、廊下へ出た。
 少し静かなところへ行こうと思っただけだ。図書室でも、トイレでも、どこでもよかった。とにかく今は、人の多い場所から一歩だけ離れたかった。

 廊下へ出ても、文化祭前のざわめきは続いている。
 向かいのクラスの前には紙花が並び、階段の踊り場では看板の色塗りをしている生徒たちがしゃがみ込んでいた。しずるはその脇を抜けながら、無意識に視線をさまよわせる。

 誰かを探している、と思ったのは少し遅れてからだった。

 朝倉。

 名前を意識した瞬間、しずるは足を止めそうになった。
 何をしているのだろう、と自分でも思う。放送室へ行けばたいてい会える。わざわざこんな廊下で探す必要はない。なのに身体のほうが先に、あの明るい声と見つける視線を求めてしまう。

 人の流れの向こうに、見慣れた制服の背中が見えた。

 朝倉だった。
 ファイルの束を片手に持って、職員室のほうからこちらへ歩いてくる。別に急いでいる様子もない。いつも通りの歩き方なのに、その姿を見つけた瞬間、しずるは肩の力が少し抜けるのを感じた。

 朝倉もすぐにしずるに気づいた。
 人の多い廊下の中で、迷うことなく視線が合う。

 「水瀬」

 呼ばれる。
 それだけで、さっきまで薄く揺れていた足元が少し戻る。

 「……朝倉」

 しずるが小さく返すと、朝倉はそのまま近づいてきた。

 「探した」

 その一言に、しずるは返す言葉を一瞬失った。

 探した。
 誰かにそんなふうに言われることに、まだ慣れていない。
 けれどその言葉が、教室の中で削られた輪郭を少しだけ元へ戻してくれるのを、しずるはもう否定できなかった。