放送室の中には、機材のランプが小さく点っているだけだった。
机の上に積まれた原稿の束も、壁際のラックも、窓の外に沈みかけた夕方の光も、何ひとつ変わっていない。なのに、さっきまでただ静かだった部屋が、今は少しも呼吸しやすくなかった。
ぶつかった言葉だけが、まだ机の上にも床にも残っているようだった。
しずるは机の縁を掴んだまま、視線を落としている。
朝倉はその正面に立ったまま、しばらく何も言わなかった。
その沈黙が、かえってしずるには苦しかった。
怒られるなら怒られるほうがましだと思う。正しいことを言われて終わるなら、そのほうがよほど楽だ。けれど朝倉は、ただ黙ってしずるを見ている。その視線が、「わからない」で逃がしてくれない。
しずるは喉の奥で息を整えた。
「……僕なんて」
やっと絞り出した声は、思ったよりずっと小さかった。
それでも朝倉は反応した。
しずるがその先を言い切る前に、低い声が重なる。
「勝手に消えるな」
短い一言だった。
けれど、その言葉は放送室の空気ごと押し返すみたいにまっすぐだった。
しずるは息を止める。
朝倉は一歩も引かないまま、もう一度言った。
「俺が困る」
その四文字のほうが、しずるには刺さった。
怒られると思っていた。
否定されると思っていた。
そんな考え方をするなとか、軽々しく言うなとか、そういう正しい言葉を向けられるのだと思っていた。
けれど朝倉が出したのは、もっとずっと個人的で、もっとずっと逃げ場のない言葉だった。
俺が困る。
しずるは顔を上げる。
朝倉の目は逸れなかった。言った本人も、たぶんそこまで言うつもりではなかったのだろう。少しだけ息が乱れている。けれど一度口にしたその言葉を、引っ込める気もない顔だった。
「……どうしてですか」
しずるはやっとそれだけ言った。
声が少し震えていた。
朝倉は眉を寄せる。
「どうしてでも」
「理由になってません」
「じゃあ理由いるなら言うけど」
そこで一度だけ、朝倉は息を飲んだ。
喉の奥まで来た言葉を、飲み込むか、そのまま押し出すか、迷ったように見えた。
けれど結局、朝倉は目を逸らさなかった。
「お前がいなくなるの、嫌だから」
放送室がまた静かになる。
機材のランプが、かすかに熱を持って点っている。
廊下の向こうでは、誰かが笑って通りすぎた気配がした。
こんなに日常のすぐ隣にある部屋で、こんな言葉を向けられるなんて、しずるには少し現実味がなかった。
嫌だから。
それは「心配だから」よりも、ずっと近い。
「かわいそうだから」よりも、ずっと身勝手で、ずっと本気だ。
だからこそ、しずるは受け止めきれない。
「……そんな」
やっと出た声はかすれていた。
「そんなふうに言われても」
「言うだろ」
朝倉はすぐ返した。
「何でお前が、そこ無視して終わろうとすんだよ」
「無視してるわけじゃ」
「してる」
また即答だった。
「ずっと、自分のことだけは後回しにして、勝手に薄くして、最後までそれで済ませようとしてる」
朝倉の声は低いままだった。
怒鳴ってはいないのに、一つ一つの言葉がしずるの胸に落ちるたび、逃げ場が少なくなる。
「誰にも気づかれないまま消えるのが怖いって、わかってんのに」
「何でお前自身が、そこをいちばん先に手放そうとすんだよ」
しずるは答えられなかった。
答えたくないのではない。
朝倉の言っていることが、たぶん正しいからだ。
玲音に引かれているのは、玲音がかわいそうだからだけではない。自分もその側に落ちるかもしれないと、どこかでずっと思っているからだ。
呼ばれなければ、見つけてもらえなければ、自分だっていずれ同じように薄くなっていく。
その怖さを知っているのに、しずるは同時に、そんな自分を大したことのないものだと片づけようとしていた。
「……そんなふうに言われたこと、ないです」
ぽつりと落ちた自分の声が、妙に幼く聞こえた。
朝倉の顔つきが少しだけ変わる。
怒りのままではない。けれど、やわらかくなるわけでもない。
ただその一言が、朝倉の中の何かに真っ直ぐ届いたのだとわかる表情だった。
「じゃあ今、覚えろ」
それは慰めではなかった。
やさしい言い方でもなかった。
けれど、しずるにはその不器用さのほうが、妙に本気に思えた。
「……無茶です」
「無茶でも」
朝倉は言う。
「覚えろ」
しずるは唇を噛む。
胸の奥が熱いのか苦しいのか、よくわからない。
困ると言われた。嫌だと言われた。いなくなるなと止められた。
そんなふうに、自分がいなくなることで具体的に何かを失う人がいるなんて、今まで本気で考えたことがなかった。
だからこそ、その言葉は救いになる前に痛い。
うれしいと思う前に、受け取れない。
自分なんかに向けられるには、重すぎる。
しずるは視線を逸らしたまま、かろうじて言った。
「……朝倉、ずるいです」
朝倉が少しだけ眉を上げる。
「何が」
「そういう言い方」
「どんな」
「……逃げられなくなる言い方です」
言ってから、もう取り消せないと思った。
朝倉はほんの一瞬だけ黙り、それから小さく息を吐く。
「知ってる」
認めるみたいにそう言われて、しずるはとうとう何も返せなくなった。
逃げられない。
たしかにそうだった。
玲音の孤独のほうへ寄っていくことで、自分を納得させることも。
「僕なんて」で終わらせることも。
朝倉にそこまでしてもらう理由はない、と切り離すことも。
その全部を、たった数分のあいだに塞がれてしまった。
放送室の外では、夕方のチャイムが鳴り始めていた。
短い電子音が廊下に流れ、校舎のどこかで椅子を引く音が重なる。
なのにこの部屋の中だけは、まだ別の時間に取り残されているようだった。
しずるはゆっくり息を吐く。
胸の奥はまだ苦しいままだ。
それでも、その苦しさの底のほうに、ほんの少しだけ温度のあるものが残っていることを、もうごまかせなかった。
いなくなるなと言われたことが、しずるには初めてだった。
机の上に積まれた原稿の束も、壁際のラックも、窓の外に沈みかけた夕方の光も、何ひとつ変わっていない。なのに、さっきまでただ静かだった部屋が、今は少しも呼吸しやすくなかった。
ぶつかった言葉だけが、まだ机の上にも床にも残っているようだった。
しずるは机の縁を掴んだまま、視線を落としている。
朝倉はその正面に立ったまま、しばらく何も言わなかった。
その沈黙が、かえってしずるには苦しかった。
怒られるなら怒られるほうがましだと思う。正しいことを言われて終わるなら、そのほうがよほど楽だ。けれど朝倉は、ただ黙ってしずるを見ている。その視線が、「わからない」で逃がしてくれない。
しずるは喉の奥で息を整えた。
「……僕なんて」
やっと絞り出した声は、思ったよりずっと小さかった。
それでも朝倉は反応した。
しずるがその先を言い切る前に、低い声が重なる。
「勝手に消えるな」
短い一言だった。
けれど、その言葉は放送室の空気ごと押し返すみたいにまっすぐだった。
しずるは息を止める。
朝倉は一歩も引かないまま、もう一度言った。
「俺が困る」
その四文字のほうが、しずるには刺さった。
怒られると思っていた。
否定されると思っていた。
そんな考え方をするなとか、軽々しく言うなとか、そういう正しい言葉を向けられるのだと思っていた。
けれど朝倉が出したのは、もっとずっと個人的で、もっとずっと逃げ場のない言葉だった。
俺が困る。
しずるは顔を上げる。
朝倉の目は逸れなかった。言った本人も、たぶんそこまで言うつもりではなかったのだろう。少しだけ息が乱れている。けれど一度口にしたその言葉を、引っ込める気もない顔だった。
「……どうしてですか」
しずるはやっとそれだけ言った。
声が少し震えていた。
朝倉は眉を寄せる。
「どうしてでも」
「理由になってません」
「じゃあ理由いるなら言うけど」
そこで一度だけ、朝倉は息を飲んだ。
喉の奥まで来た言葉を、飲み込むか、そのまま押し出すか、迷ったように見えた。
けれど結局、朝倉は目を逸らさなかった。
「お前がいなくなるの、嫌だから」
放送室がまた静かになる。
機材のランプが、かすかに熱を持って点っている。
廊下の向こうでは、誰かが笑って通りすぎた気配がした。
こんなに日常のすぐ隣にある部屋で、こんな言葉を向けられるなんて、しずるには少し現実味がなかった。
嫌だから。
それは「心配だから」よりも、ずっと近い。
「かわいそうだから」よりも、ずっと身勝手で、ずっと本気だ。
だからこそ、しずるは受け止めきれない。
「……そんな」
やっと出た声はかすれていた。
「そんなふうに言われても」
「言うだろ」
朝倉はすぐ返した。
「何でお前が、そこ無視して終わろうとすんだよ」
「無視してるわけじゃ」
「してる」
また即答だった。
「ずっと、自分のことだけは後回しにして、勝手に薄くして、最後までそれで済ませようとしてる」
朝倉の声は低いままだった。
怒鳴ってはいないのに、一つ一つの言葉がしずるの胸に落ちるたび、逃げ場が少なくなる。
「誰にも気づかれないまま消えるのが怖いって、わかってんのに」
「何でお前自身が、そこをいちばん先に手放そうとすんだよ」
しずるは答えられなかった。
答えたくないのではない。
朝倉の言っていることが、たぶん正しいからだ。
玲音に引かれているのは、玲音がかわいそうだからだけではない。自分もその側に落ちるかもしれないと、どこかでずっと思っているからだ。
呼ばれなければ、見つけてもらえなければ、自分だっていずれ同じように薄くなっていく。
その怖さを知っているのに、しずるは同時に、そんな自分を大したことのないものだと片づけようとしていた。
「……そんなふうに言われたこと、ないです」
ぽつりと落ちた自分の声が、妙に幼く聞こえた。
朝倉の顔つきが少しだけ変わる。
怒りのままではない。けれど、やわらかくなるわけでもない。
ただその一言が、朝倉の中の何かに真っ直ぐ届いたのだとわかる表情だった。
「じゃあ今、覚えろ」
それは慰めではなかった。
やさしい言い方でもなかった。
けれど、しずるにはその不器用さのほうが、妙に本気に思えた。
「……無茶です」
「無茶でも」
朝倉は言う。
「覚えろ」
しずるは唇を噛む。
胸の奥が熱いのか苦しいのか、よくわからない。
困ると言われた。嫌だと言われた。いなくなるなと止められた。
そんなふうに、自分がいなくなることで具体的に何かを失う人がいるなんて、今まで本気で考えたことがなかった。
だからこそ、その言葉は救いになる前に痛い。
うれしいと思う前に、受け取れない。
自分なんかに向けられるには、重すぎる。
しずるは視線を逸らしたまま、かろうじて言った。
「……朝倉、ずるいです」
朝倉が少しだけ眉を上げる。
「何が」
「そういう言い方」
「どんな」
「……逃げられなくなる言い方です」
言ってから、もう取り消せないと思った。
朝倉はほんの一瞬だけ黙り、それから小さく息を吐く。
「知ってる」
認めるみたいにそう言われて、しずるはとうとう何も返せなくなった。
逃げられない。
たしかにそうだった。
玲音の孤独のほうへ寄っていくことで、自分を納得させることも。
「僕なんて」で終わらせることも。
朝倉にそこまでしてもらう理由はない、と切り離すことも。
その全部を、たった数分のあいだに塞がれてしまった。
放送室の外では、夕方のチャイムが鳴り始めていた。
短い電子音が廊下に流れ、校舎のどこかで椅子を引く音が重なる。
なのにこの部屋の中だけは、まだ別の時間に取り残されているようだった。
しずるはゆっくり息を吐く。
胸の奥はまだ苦しいままだ。
それでも、その苦しさの底のほうに、ほんの少しだけ温度のあるものが残っていることを、もうごまかせなかった。
いなくなるなと言われたことが、しずるには初めてだった。



