放送室の扉を開けたとき、朝倉はすぐにしずるの顔を見た。
いつもなら「来た」と軽く言うところを、その日は何も言わなかった。
ただ一度だけ視線を上げて、しずるの顔色と、立っている位置と、呼吸の浅さを一息で確かめるみたいに見た。その見方だけで、しずるは余計に落ち着かなくなる。
「……何か手伝うことありますか」
しずるは先にそう言った。
机の上には文化祭の進行表と原稿の束が広がっている。香坂は不在らしく、部屋の中には朝倉しかいない。機材のランプがいくつか点いていて、窓の外はもう夕方の色だった。
朝倉は原稿から手を離さずに答える。
「あるけど」
「じゃあ、やります」
「その前に」
そこでようやく椅子を回し、朝倉はしずるの正面を向いた。
「水瀬」
名前を呼ばれる。
その一言だけで、胸の奥が少しだけ静まる。静まってしまうことに、しずるはまた腹が立つ。
「玲音のこと、考えすぎ」
唐突だった。
けれど、ずっとそこで待ち構えていた言葉のようでもあった。
しずるは一拍遅れて目を逸らす。
「考えますよ」
「引っ張られてる」
「引っ張られてないです」
「引っ張られてる」
言い切られて、しずるは顔を上げた。
朝倉は珍しく譲る気のない顔をしていた。怒っているというより、ここだけは見過ごさないと決めた顔だ。
しずるは机の端を指で押さえる。
「……朝倉にはわからないです」
言った瞬間、空気が少し固まった。
朝倉の表情は変わらない。
でも、その変わらなさの奥で、何かがぴんと張ったのがわかる。
「何が」
「呼ばれないまま、いなくなるの」
自分でも思っていたより、声が冷たく出た。
止められなかった。
「見えてるのに、見えてないみたいにされるの」
「そういうの、朝倉には」
「わからないって決めるな」
朝倉の声が重なる。
強くはない。けれど、しずるの言葉をそのまま通さない強さがあった。
しずるは唇を噛む。
「でも、実際」
「わからないまま放っとくつもりなんかない」
朝倉はほとんど間を置かずに言った。
その言い方は、慰めではなかった。正しいことを言って聞かせる調子でもない。ただ、本気でそう思っている人間の声だった。
「結局」
しずるはそれでも言葉を押し出す。
「呼ばれないと戻れないのは、僕のほうです」
朝倉の目が細くなる。
「だから呼んでる」
「それが苦しいんです」
言ってしまってから、放送室がひどく静かになった。
機材のランプは変わらず点いている。
窓の外では誰かの笑い声が遠く聞こえた。
なのに、その一言で部屋の中だけ空気が別のものに入れ替わったみたいだった。
朝倉が小さく息を吐く。
「……何で」
しずるは視線を机へ落とした。
原稿の紙の端が少しだけ波打って見える。目が疲れているのか、動揺しているのか、自分でもわからない。
「朝倉がいないと、保てないみたいで」
声は思ったより小さかった。
でも、それだけで充分だった。
「実際そうでも、今はそれでいいだろ」
「よくないです」
「何が」
「……朝倉に、そこまでしてもらう理由がない」
言葉にした途端、自分の中の一番みじめな部分が机の上へ引きずり出された気がした。
助けてもらう理由。呼んでもらう理由。そこまでしてもらう価値。
しずるはずっと、そのへんをうまく見ないようにしていた。見れば最後、自分がどれだけ“誰かに支えられないと立てない側”へ傾いているか、認めるしかなくなるからだ。
朝倉は黙った。
その沈黙が、しずるには思っていたよりきつい。
やっぱりそうだ、と思ってしまう。
理由なんかないのだ。朝倉が放っておけないから、気まぐれで呼んでいるだけで、本当はこんなふうにしずるが依存めいたことを感じる必要はない。
「僕なんて」
そこまで言いかけたときだった。
朝倉が立ち上がる。
椅子の脚が床を擦る音が、放送室に短く響いた。
「その言い方やめろ」
しずるは息を止める。
朝倉は机を回り込むようにして、しずるの前まで来た。
距離が近い。怒鳴られているわけでもないのに、逃げ場が少ない。
「僕なんて、何」
低い声だった。
怒っている。今度ははっきりわかる。
しずるは返せない。
言えないまま、視線だけが下がる。
「お前、自分でそこ決めて終わらせようとすんなよ」
「……終わらせようなんて」
「してる」
即答だった。
「ずっと」
たった二文字なのに、その言い方のほうがしずるには痛かった。
一度や二度の話ではなく、しずるがずっとそうしてきたことまで見抜かれた気がしたからだ。
しずるは机の縁を強く掴む。
「だって」
やっと出た声は、思ったより幼く響いた。
「だって、朝倉にそこまで」
「そこまで、って何」
「……」
「呼ぶこと?」
朝倉は言う。
「助けること?」
言葉の一つ一つがまっすぐすぎて、しずるは顔を上げられない。
「お前が勝手に重くしてるだけだろ」
それが正しいのかどうかはわからない。
でも、その言い方に少しだけ救われる自分がいることが、また苦しい。
しずるは唇を開いて、閉じた。
言い返したいのに、何を返せばいいのかわからない。玲音のことを考えると、自分は確かに引っ張られている。朝倉の声に呼ばれると戻れるのも本当だ。助けられることがありがたくて、同時に苦しいのも本当だ。
本当のことばかりが重なって、どれも否定できない。
「……朝倉には」
ようやくしぼり出した声は、さっきよりずっと弱かった。
「わからないです」
繰り返したその言葉は、反発というより、ほとんど逃げ道みたいに響いた。
朝倉はすぐには返さなかった。
ただしずるを見ている。逃がさないように、でも追い詰めすぎないように、そのぎりぎりの顔で。
放送室の静けさは、もうさっきまでの穏やかなものではなかった。
何かが決定的にぶつかって、まだ音だけが残っているような静けさだった。
いつもなら「来た」と軽く言うところを、その日は何も言わなかった。
ただ一度だけ視線を上げて、しずるの顔色と、立っている位置と、呼吸の浅さを一息で確かめるみたいに見た。その見方だけで、しずるは余計に落ち着かなくなる。
「……何か手伝うことありますか」
しずるは先にそう言った。
机の上には文化祭の進行表と原稿の束が広がっている。香坂は不在らしく、部屋の中には朝倉しかいない。機材のランプがいくつか点いていて、窓の外はもう夕方の色だった。
朝倉は原稿から手を離さずに答える。
「あるけど」
「じゃあ、やります」
「その前に」
そこでようやく椅子を回し、朝倉はしずるの正面を向いた。
「水瀬」
名前を呼ばれる。
その一言だけで、胸の奥が少しだけ静まる。静まってしまうことに、しずるはまた腹が立つ。
「玲音のこと、考えすぎ」
唐突だった。
けれど、ずっとそこで待ち構えていた言葉のようでもあった。
しずるは一拍遅れて目を逸らす。
「考えますよ」
「引っ張られてる」
「引っ張られてないです」
「引っ張られてる」
言い切られて、しずるは顔を上げた。
朝倉は珍しく譲る気のない顔をしていた。怒っているというより、ここだけは見過ごさないと決めた顔だ。
しずるは机の端を指で押さえる。
「……朝倉にはわからないです」
言った瞬間、空気が少し固まった。
朝倉の表情は変わらない。
でも、その変わらなさの奥で、何かがぴんと張ったのがわかる。
「何が」
「呼ばれないまま、いなくなるの」
自分でも思っていたより、声が冷たく出た。
止められなかった。
「見えてるのに、見えてないみたいにされるの」
「そういうの、朝倉には」
「わからないって決めるな」
朝倉の声が重なる。
強くはない。けれど、しずるの言葉をそのまま通さない強さがあった。
しずるは唇を噛む。
「でも、実際」
「わからないまま放っとくつもりなんかない」
朝倉はほとんど間を置かずに言った。
その言い方は、慰めではなかった。正しいことを言って聞かせる調子でもない。ただ、本気でそう思っている人間の声だった。
「結局」
しずるはそれでも言葉を押し出す。
「呼ばれないと戻れないのは、僕のほうです」
朝倉の目が細くなる。
「だから呼んでる」
「それが苦しいんです」
言ってしまってから、放送室がひどく静かになった。
機材のランプは変わらず点いている。
窓の外では誰かの笑い声が遠く聞こえた。
なのに、その一言で部屋の中だけ空気が別のものに入れ替わったみたいだった。
朝倉が小さく息を吐く。
「……何で」
しずるは視線を机へ落とした。
原稿の紙の端が少しだけ波打って見える。目が疲れているのか、動揺しているのか、自分でもわからない。
「朝倉がいないと、保てないみたいで」
声は思ったより小さかった。
でも、それだけで充分だった。
「実際そうでも、今はそれでいいだろ」
「よくないです」
「何が」
「……朝倉に、そこまでしてもらう理由がない」
言葉にした途端、自分の中の一番みじめな部分が机の上へ引きずり出された気がした。
助けてもらう理由。呼んでもらう理由。そこまでしてもらう価値。
しずるはずっと、そのへんをうまく見ないようにしていた。見れば最後、自分がどれだけ“誰かに支えられないと立てない側”へ傾いているか、認めるしかなくなるからだ。
朝倉は黙った。
その沈黙が、しずるには思っていたよりきつい。
やっぱりそうだ、と思ってしまう。
理由なんかないのだ。朝倉が放っておけないから、気まぐれで呼んでいるだけで、本当はこんなふうにしずるが依存めいたことを感じる必要はない。
「僕なんて」
そこまで言いかけたときだった。
朝倉が立ち上がる。
椅子の脚が床を擦る音が、放送室に短く響いた。
「その言い方やめろ」
しずるは息を止める。
朝倉は机を回り込むようにして、しずるの前まで来た。
距離が近い。怒鳴られているわけでもないのに、逃げ場が少ない。
「僕なんて、何」
低い声だった。
怒っている。今度ははっきりわかる。
しずるは返せない。
言えないまま、視線だけが下がる。
「お前、自分でそこ決めて終わらせようとすんなよ」
「……終わらせようなんて」
「してる」
即答だった。
「ずっと」
たった二文字なのに、その言い方のほうがしずるには痛かった。
一度や二度の話ではなく、しずるがずっとそうしてきたことまで見抜かれた気がしたからだ。
しずるは机の縁を強く掴む。
「だって」
やっと出た声は、思ったより幼く響いた。
「だって、朝倉にそこまで」
「そこまで、って何」
「……」
「呼ぶこと?」
朝倉は言う。
「助けること?」
言葉の一つ一つがまっすぐすぎて、しずるは顔を上げられない。
「お前が勝手に重くしてるだけだろ」
それが正しいのかどうかはわからない。
でも、その言い方に少しだけ救われる自分がいることが、また苦しい。
しずるは唇を開いて、閉じた。
言い返したいのに、何を返せばいいのかわからない。玲音のことを考えると、自分は確かに引っ張られている。朝倉の声に呼ばれると戻れるのも本当だ。助けられることがありがたくて、同時に苦しいのも本当だ。
本当のことばかりが重なって、どれも否定できない。
「……朝倉には」
ようやくしぼり出した声は、さっきよりずっと弱かった。
「わからないです」
繰り返したその言葉は、反発というより、ほとんど逃げ道みたいに響いた。
朝倉はすぐには返さなかった。
ただしずるを見ている。逃がさないように、でも追い詰めすぎないように、そのぎりぎりの顔で。
放送室の静けさは、もうさっきまでの穏やかなものではなかった。
何かが決定的にぶつかって、まだ音だけが残っているような静けさだった。



