その夜、しずるは布団に入ってからもなかなか眠れなかった。
部屋の明かりは消しているのに、目を閉じると暗さの種類がひとつではないことに気づく。窓の外の街灯の薄い橙、廊下の向こうで母が消し忘れたままにしているらしい電気の白さ、そしてまぶたの裏に残る、旧校舎四階の暗さ。
あの場所の暗がりは、ただ光が足りないだけではなかった。誰かを待ち続けて、待ち疲れて、それでもまだ終われない時間がそのまま沈殿しているような暗さだった。
しずるは布団の中で寝返りを打つ。
耳の奥には、今日の最後に朝倉が言った声が残っていた。
俺じゃない声に返事するな。
怒っていた。
たしかに怒っていたのに、その声はしずるの中で何度思い返しても、不思議と怖さより別のものを残した。強く言われたことより、その強さが自分へ向いていたことのほうが、ずっと苦しい。
スマートフォンの画面をつける。
時刻はまだ日付が変わる前だった。
メッセージアプリを開いて、閉じる。朝倉に何か送る理由はない。送ったところで、何と言えばいいのかわからない。怒らせてごめん、では軽すぎるし、でも自分でも何に対して謝りたいのか、うまく言葉にならない。
代わりに、机の上へ置きっぱなしにしていた資料のコピーへ目が向いた。
真壁玲音。独唱候補。特別棟四階。放課後。
断片的な言葉だけなのに、その名前を見ていると胸の奥が静かに冷える。知らないはずの相手なのに、どうしてこんなに他人事と思えないのだろう。
しずるはスマホを置き、もう一度寝返りを打った。
呼ばれなかったのだ。
見つけてもらえなかったのだ。
誰かが来ると思って待っていたのに、気づかないうちに、いないものとして扱われていった。
それは昔の事故の話なのに、しずるには想像しすぎるほどよくわかった。
自分も少しずつ、同じほうへ引かれているからだ。
教室で名前を飛ばされる。隣の席の人間に「いたんだ」と言われる。家では最初から箸が足りない。写真の中では輪郭が薄い。
その全部を積み重ねていくと、玲音がどんなふうに置き去りにされたかを、想像ではなく身体に近いところで理解してしまう。
しずるは布団の端を指先でつまんだ。
朝倉が呼べば、自分は戻れる。
それは事実だ。
でもその事実が、最近は少しだけ怖い。
朝倉が呼んでくれるから、ここにいられる。
逆に言えば、呼ばれなければ自分は薄くなる。
誰か一人の声に支えられて、ようやくこの場所へ立っていられることを、ありがたいと思うと同時に、どこかでひどくみじめだとも感じてしまう。
自分はそんなに簡単なものだったのか。
誰か一人に名前を呼ばれないと、形も保てないようなものだったのか。
「……おかしいだろ」
小さく呟いた声は、部屋の中ですぐに消えた。
玲音も、最初はそんなふうに思ったのだろうか。
呼ばれたいと思うこと自体が情けなくて、でも呼ばれなければ自分がどんどん薄れていってしまう気がして、待って、待って、それでも誰も来なかったら。
そこまで考えて、しずるは目を閉じる。
消えたくない。
そう思う。
でも、消えたくないと強く思えるほど、自分にはまだ価値があるのだろうか、と別の声が囁く。
家でも学校でも、“いなくても一応回る側”としてずっと生きてきた感覚は、怪異より前からしずるの中にあった。今起きていることは、それをただ現実の形にされているだけなのかもしれない。
そう考えると、玲音の「もう頑張らなくていい」という声が、まだ聞いてもいないのに胸の奥で先に響く気がした。
呼ばれないなら、待たなくてもいい。
いないものとして扱われるくらいなら、最初から消えてしまったほうが楽だ。
しずるは思わず目を開けた。
暗い天井を見上げる。
そんなふうに考えるのはおかしい。危ない。わかっている。けれどわかっていることと、引かれないことは別だった。
翌日の放課後、しずるは教室を出てからしばらく、放送室へ向かう足を止めそうになった。
行けば、朝倉がいる。
名前を呼ばれれば、たぶん今日も少し戻れる。
でもその救いを受け取ること自体が、今は少し苦しい。
廊下の窓に映った自分の姿は、相変わらず少しだけ薄い。
それを見て、しずるは胸の奥がひどく静かになるのを感じた。
朝倉に会いたい。
でも会ったら、また自分は朝倉の声でしか戻れないことを確認してしまう。
放送室へ続く廊下の手前で立ち止まる。
行く理由はいくらでもある。香坂の手伝い、原稿の整理、放課後の避難先。
けれど、そのどれも今は少しだけ嘘に思えた。
本当は、朝倉の声を聞きに行くのだ。呼ばれて、自分の輪郭を確かめに行くのだ。
そう思った瞬間、しずるは急に、自分がひどく弱いもののように思えた。
扉の前まで行けば、きっと朝倉はいつも通りに「来た」と言うだろう。
その一言に救われることを、今日の自分はまだうまく許せそうになかった。
しずるは一歩だけ後ずさる。
会いたいのに、会う資格がないような気がした。
部屋の明かりは消しているのに、目を閉じると暗さの種類がひとつではないことに気づく。窓の外の街灯の薄い橙、廊下の向こうで母が消し忘れたままにしているらしい電気の白さ、そしてまぶたの裏に残る、旧校舎四階の暗さ。
あの場所の暗がりは、ただ光が足りないだけではなかった。誰かを待ち続けて、待ち疲れて、それでもまだ終われない時間がそのまま沈殿しているような暗さだった。
しずるは布団の中で寝返りを打つ。
耳の奥には、今日の最後に朝倉が言った声が残っていた。
俺じゃない声に返事するな。
怒っていた。
たしかに怒っていたのに、その声はしずるの中で何度思い返しても、不思議と怖さより別のものを残した。強く言われたことより、その強さが自分へ向いていたことのほうが、ずっと苦しい。
スマートフォンの画面をつける。
時刻はまだ日付が変わる前だった。
メッセージアプリを開いて、閉じる。朝倉に何か送る理由はない。送ったところで、何と言えばいいのかわからない。怒らせてごめん、では軽すぎるし、でも自分でも何に対して謝りたいのか、うまく言葉にならない。
代わりに、机の上へ置きっぱなしにしていた資料のコピーへ目が向いた。
真壁玲音。独唱候補。特別棟四階。放課後。
断片的な言葉だけなのに、その名前を見ていると胸の奥が静かに冷える。知らないはずの相手なのに、どうしてこんなに他人事と思えないのだろう。
しずるはスマホを置き、もう一度寝返りを打った。
呼ばれなかったのだ。
見つけてもらえなかったのだ。
誰かが来ると思って待っていたのに、気づかないうちに、いないものとして扱われていった。
それは昔の事故の話なのに、しずるには想像しすぎるほどよくわかった。
自分も少しずつ、同じほうへ引かれているからだ。
教室で名前を飛ばされる。隣の席の人間に「いたんだ」と言われる。家では最初から箸が足りない。写真の中では輪郭が薄い。
その全部を積み重ねていくと、玲音がどんなふうに置き去りにされたかを、想像ではなく身体に近いところで理解してしまう。
しずるは布団の端を指先でつまんだ。
朝倉が呼べば、自分は戻れる。
それは事実だ。
でもその事実が、最近は少しだけ怖い。
朝倉が呼んでくれるから、ここにいられる。
逆に言えば、呼ばれなければ自分は薄くなる。
誰か一人の声に支えられて、ようやくこの場所へ立っていられることを、ありがたいと思うと同時に、どこかでひどくみじめだとも感じてしまう。
自分はそんなに簡単なものだったのか。
誰か一人に名前を呼ばれないと、形も保てないようなものだったのか。
「……おかしいだろ」
小さく呟いた声は、部屋の中ですぐに消えた。
玲音も、最初はそんなふうに思ったのだろうか。
呼ばれたいと思うこと自体が情けなくて、でも呼ばれなければ自分がどんどん薄れていってしまう気がして、待って、待って、それでも誰も来なかったら。
そこまで考えて、しずるは目を閉じる。
消えたくない。
そう思う。
でも、消えたくないと強く思えるほど、自分にはまだ価値があるのだろうか、と別の声が囁く。
家でも学校でも、“いなくても一応回る側”としてずっと生きてきた感覚は、怪異より前からしずるの中にあった。今起きていることは、それをただ現実の形にされているだけなのかもしれない。
そう考えると、玲音の「もう頑張らなくていい」という声が、まだ聞いてもいないのに胸の奥で先に響く気がした。
呼ばれないなら、待たなくてもいい。
いないものとして扱われるくらいなら、最初から消えてしまったほうが楽だ。
しずるは思わず目を開けた。
暗い天井を見上げる。
そんなふうに考えるのはおかしい。危ない。わかっている。けれどわかっていることと、引かれないことは別だった。
翌日の放課後、しずるは教室を出てからしばらく、放送室へ向かう足を止めそうになった。
行けば、朝倉がいる。
名前を呼ばれれば、たぶん今日も少し戻れる。
でもその救いを受け取ること自体が、今は少し苦しい。
廊下の窓に映った自分の姿は、相変わらず少しだけ薄い。
それを見て、しずるは胸の奥がひどく静かになるのを感じた。
朝倉に会いたい。
でも会ったら、また自分は朝倉の声でしか戻れないことを確認してしまう。
放送室へ続く廊下の手前で立ち止まる。
行く理由はいくらでもある。香坂の手伝い、原稿の整理、放課後の避難先。
けれど、そのどれも今は少しだけ嘘に思えた。
本当は、朝倉の声を聞きに行くのだ。呼ばれて、自分の輪郭を確かめに行くのだ。
そう思った瞬間、しずるは急に、自分がひどく弱いもののように思えた。
扉の前まで行けば、きっと朝倉はいつも通りに「来た」と言うだろう。
その一言に救われることを、今日の自分はまだうまく許せそうになかった。
しずるは一歩だけ後ずさる。
会いたいのに、会う資格がないような気がした。



