放課後、四階の音は名前を呼ぶ

 その日の帰り際、放送室を出たあともしずるの胸の奥は落ち着かなかった。

 「朝倉の声だけはわかる」と言ってしまったことが、思っていた以上に後を引いている。
 言葉にした時点で、ただ体感していただけのことが現実になってしまった。しかもそれを、朝倉本人の前で。
 放送室の中では、香坂があえて深くは触れずに流してくれた。朝倉も「助かる」とだけ言って、それ以上は何も言わなかった。
 けれど、何も言われなかったからこそ、しずるの中には妙に静かな緊張だけが残っている。

 夕方の校舎は、昼よりもずっと音が薄い。
 文化祭準備の名残で教室の前には段ボールや色紙の束が置かれているが、生徒の数はもう少ない。階段の踊り場には西日が斜めに差し込み、手すりの影を床に細く落としていた。

 朝倉はしずるの少し前を歩いていた。
 機材室の鍵を指先で回しながら、何か考えているような横顔をしている。さっきまでより口数が少ないのは、自分のせいだろうかとしずるは思う。思ってしまう自分が面倒だった。

 何か言ったほうがいいのかもしれない。
 さっきのは変な意味ではなくて、ただ本当に違いがわかるだけだとか。いや、それを説明しようとすればするほど、余計に変な意味へ近づいていく気もする。
 考えているうちに、朝倉との距離が二歩ぶんくらい開いた。

 そのときだった。

 「水瀬」

 名前を呼ぶ声が、廊下の奥からした。

 しずるの足が止まる。
 考えるより先に首がそちらを向きかける。放送室を出てからまだ数分も経っていない。朝倉が前にいるのに、違う方向から朝倉の声で名前を呼ばれる。その異常さに気づくよりも先に、身体のほうがいつもの反応をしてしまう。

 「……っ」

 振り向きかけた肩を、強くはない力が止めた。

 「そっち見るな」

 本物の朝倉の声が、すぐ横で言う。

 しずるは息を止めた。
 肩を掴まれている。指先だけが触れているのに、そこから身体の輪郭が急に戻ってくる感じがした。さっきまで薄くざわついていた意識が、急に一つの場所へ引き寄せられる。

 廊下の奥には誰もいない。
 夕方の光が床を白く照らし、開いた窓から風が少し入ってくるだけだ。
 それでも確かに、今、名前を呼ばれた。

 「今のは」

 しずるがやっと声を出すと、朝倉は間を置かずに言った。

 「俺じゃない」

 短い断定だった。
 迷いがない。だからこそ、さっきの声との違いがしずるにもはっきりわかる。似ている。似ていた。けれどやはり違う。違うのに、一瞬でも反応しかけた自分がひどく嫌になる。

 「……わかってます」

 小さくそう言うと、朝倉の手が肩から離れた。
 離れたのに、さっき触れられた場所だけがまだ熱を持っている。

 「わかってるなら、反応するなよ」

 抑えた声だった。
 怒鳴ってはいない。けれど、押し殺した苛立ちがそのまま滲んでいる。
 しずるは思わず眉を寄せる。

 「反応したくてしてるわけじゃないです」

 「じゃあなおさらだめだろ」

 「だめって言われても」

 「言う」

 朝倉は一歩分だけしずるに近づいた。
 廊下は静かで、二人の声だけがやけに近い。教室棟のほうからは文化祭準備のざわめきがまだ少し聞こえるのに、ここだけ別の時間に切り離されたみたいだった。

 「朝倉の声だから」

 しずるは半ば言い訳のように言ってしまってから、自分の言葉に遅れて息を呑んだ。
 それは事実だった。だからこそ、口にすると急に逃げ場がなくなる。

 朝倉の表情が変わる。
 驚いたわけではない。むしろ逆だった。予想していたものを、改めて本人の口から聞いてしまった時の顔だ。

 「だから嫌なんだよ」

 低い声で、朝倉は言った。

 その“嫌”は、偽物の声への嫌悪なのか、自分がその声に引かれることへの怒りなのか、一瞬ではわからなかった。たぶん両方だ。
 しずるは何も言えずに立ち尽くす。

 朝倉はしずるの目をまっすぐ見たまま、今度ははっきりと言った。

 「俺じゃない声に返事するな」

 その一言で、廊下の空気がさらに静かになる。

 返事をするな。
 それは忠告で、命令で、ほとんど懇願にも近かった。
 しずるは喉の奥が熱くなるのを感じた。怒られているはずなのに、その強さの向きが自分へ向いていることのほうが、別の意味で苦しい。

 「聞こえても、行くな」

 朝倉は続ける。

 「……朝倉」

 「俺の声なら、俺がここにいるか見ろ」

 その言い方は少し乱暴で、でも切実だった。
 本物かどうかは、声だけじゃなく、ちゃんとこちらを見ろ。そこに自分がいるか確かめろ。
 言葉にすればそれだけのことなのに、しずるにはその一つ一つが胸の奥へ沈む。

 「そんなの、毎回」

 しずるはかろうじて言い返した。

 「無茶言わないでください」

 「無茶でもやれ」

 「できないかもしれない」

 「やれ」

 即答だった。

 しずるは息を呑む。
 こんなふうに言い切られると、反発するはずなのに言葉が続かない。朝倉はいつもよりずっと強い。優しく言い聞かせるのではなく、ほとんど噛みつくみたいな勢いで、しずるを偽物のほうへやるまいとしている。

 「……怒ってるんですか」

 やっとそれだけ聞くと、朝倉は少しの間黙った。
 それから、視線を逸らさずに答える。

 「怒ってる」

 「どうして」

 問い返してから、自分でも答えを半分わかっている気がした。
 でも、口にしてほしかったのかもしれない。
 朝倉はまた一瞬だけ黙る。言えるならとっくに言っている。そういう種類の沈黙だった。

 「……とにかく」

 結局、朝倉は少しだけ低くなった声で言い直す。

 「返事するな」

 さっきと同じ言葉のはずなのに、今度のほうが深く刺さる。
 理由を説明しないまま、でも絶対に譲らない響きだった。
 しずるは何も言えない。
 言えないまま、胸の奥だけが落ち着かなくざわつく。怖いはずなのに、その強さをどこかでうれしいと思ってしまったことが、いちばん厄介だった。

 二人のあいだに短い沈黙が落ちる。
 窓の外では、日がさらに傾いていた。影が長く伸び、廊下の端まで夕方の色が入り込んでいる。

 朝倉は先に視線を外した。

 「……帰るぞ」

 それだけ言って歩き出す。
 しずるは半拍遅れて、その背中を追った。

 怒られた。
 たぶんそうなのだと思う。
 けれど帰り道、しずるの耳にいちばん残っていたのは、偽物の声ではなく、本物の朝倉が低く言ったあの一言のほうだった。

 俺じゃない声に返事するな。