放課後、四階の音は名前を呼ぶ

 放送室へ戻るまでのあいだ、しずるはほとんど何も話せなかった。

 廊下を歩く足音だけがやけに大きく聞こえる。
 昼休みのざわめきはまだ校舎のあちこちに残っているのに、自分のまわりだけ空気が少し薄い膜に包まれているみたいだった。さっき聞いた“朝倉の声”が、まだ耳の奥に貼りついて離れない。本物ではなかったと頭ではわかっている。わかっているのに、身体のほうは一瞬、本当に助かったと思ってしまった。

 放送室の扉が閉まると、外の音が一段遠くなる。
 その静けさの中で、香坂がしずるの顔を見て小さく眉を上げた。

 「何その顔」

 「偽物の声に引っ張られかけた」

 朝倉が先に答える。
 しずるが言葉を探しているあいだに、香坂は「うわ」と短く呟いた。

 「精度、上がってるわね」

 「笑いごとじゃない」

 「笑ってないって」

 香坂は椅子を引いて座り、机の上の原稿を脇へ避けた。
 朝倉はまだ少し機嫌が悪そうな顔のまま、しずるの向かいへ立つ。立ったままなのが落ち着かない。怒られるわけではないとわかっていても、何かの確認が始まる気配がした。

 「で、何が違ったの」

 香坂がしずるを見る。
 声はいつも通り淡々としているが、問い方だけは真っ直ぐだった。誤魔化すな、と言われているわけではない。ただ、曖昧なまま流すな、と静かに求められている感じがする。

 しずるはすぐには答えられなかった。

 何が違ったのか。
 それを言葉にできないから、さっきも半歩、そちらへ行きかけたのだ。似ていた。高さも、言い方も、名前を呼ぶ響きも。だから本物じゃないと気づいた瞬間のほうが、あとから遅れて怖くなった。

 「違った、というか……」

 声が少しだけ掠れる。
 朝倉が腕を組んだ。

 「いや、違ったんだろ」

 「……はい」

 そう認めると、朝倉の目が少しだけ細くなる。
 責めているのではなく、続きを待っている目だ。

 香坂が机に肘をついたまま言う。

 「高さ? 速さ?」

 しずるは首を振る。

 「そういうのじゃ、なくて」

 「じゃあ何」

 朝倉の問いは短い。
 でも乱暴ではない。答えられるなら答えろ、とまっすぐ押し出してくる。

 しずるは視線を机へ落とした。
 そこに並んだ原稿の端を見つめながら、どうにか言葉を探す。音の違いではない。もっと細かい、でも確かに違う何か。

 「……間、というか」

 香坂が反応する。

 「間?」

 「はい」

 しずるはゆっくり息を吸った。

 「朝倉は、呼ぶ前に少し待つから」

 言った瞬間、自分でもその説明の私的さに気づいてしまう。
 高さや語尾なら、誰にでもわかる。けれど“呼ぶ前に少し待つ”なんて、そんな癖まで意識していたこと自体が、自分でも思っていたよりずっと深いところで朝倉の声を聞いていた証拠みたいだった。

 放送室が急に静かになる。

 朝倉が先に目を逸らした。
 けれど、それは嫌がったというより、少しだけ意表を突かれたような仕草だった。

 「……そんなことまで見てんの」

 しずるは顔を上げる。

 「見てるわけじゃなくて」

 反射で否定する。
 だが、否定の言葉は途中で少し弱くなった。

 「聞けば、わかります」

 「へえ」

 香坂が言った。
 からかうような声ではない。ただ事実として受け取った響きだった。

 しずるは視線の置き場に困って、机の上の紙へ戻す。

 「……朝倉の声だけは」

 そこまで言ってから、自分で自分の言葉に詰まった。
 言いすぎた、と思う。
 朝倉の声だけはわかる。それは、ただの状況説明としてはあまりにも私的だった。

 けれどもう引っ込められない。

 朝倉は黙ったままだった。
 何も言われないほうが、かえって落ち着かない。しずるは思わず続ける。

 「……変な意味じゃないです」

 そう言うと、香坂がすぐに口を開いた。

 「誰も変な意味とは言ってないけど」

 「部長」

 「だって先にそっち警戒したの、水瀬でしょ」

 しずるは返す言葉を失った。
 そのやり取りのあいだに、朝倉がようやく小さく息を吐く。

 「いや、でも助かる」

 短い一言だった。
 軽く流すでもなく、重く受け止めるでもなく、その中間みたいな言い方だった。うれしいとも照れるとも言わず、ただ本音として助かると言う。そういうところが、朝倉らしい。

 「水瀬が本物の俺を聞き分けられるなら、それがいちばん強いだろ」

 香坂が頷く。

 「現時点では、かなり強い情報ね」

 「強いっていうか……」

 朝倉がそこまで言って、言葉を切る。
 香坂がすぐに拾う。

 「何」

 「……なんでもない」

 でも、その“なんでもない”の向こうにあるものを、しずるは少しだけ想像してしまった。
 強い情報。対策として有効。そういう言い方もできる。けれど、それだけではない。朝倉にとっても、自分の声だけがわかると言われることは、単なる状況整理では済まない何かを含んでいるのだと、さすがにわかった。

 気まずい、とは少し違う。
 静かで、やわらかくて、でも今までより少しだけ逃げ場の少ない空気だった。

 その沈黙を破るように、朝倉がしずるを見た。

 「水瀬」

 呼ばれる。
 今度は何も迷わない。しずるはほとんど反射で顔を上げた。

 「……はい」

 返事をしたあと、胸の奥が少しだけ落ち着く。
 似ている声はいくつあっても、本物はやっぱり違う。
 そう思えること自体が、しずるには思った以上に心強く、同時に少しだけ怖かった。