放課後、四階の音は名前を呼ぶ

 気のせいだ、としずるは思った。

 思っただけで、足はすぐには動かなかった。
 音楽準備室の前の空気だけが、ほかの廊下より一段重い。開ききっていない扉の隙間は細いのに、その向こうから誰かの視線だけがまっすぐ伸びてきているような感じがした。

 しずるは抱えていた資料を持ち直し、できるだけ扉を見ないようにして歩き出そうとした。

 そのときだった。

 「――水瀬」

 小さな声だった。
 呼ばれた、と思うより先に、足が止まる。

 しずるはゆっくり振り返った。
 廊下には誰もいない。窓から入る夕方の白い光が床に長く伸びていて、古い壁の影を細く区切っているだけだった。

 聞き間違いだ。
 四階は静かだから、階下の声が変に響くこともある。そう自分に言い聞かせ、しずるはまた前を向く。

 「水瀬」

 今度はさっきより近かった。

 胸の奥がひやりとした。
 はっきりと自分の名字だった。音の輪郭だけが妙に鮮明で、ほかの廊下の音と混ざらない。まるで、そこだけ別の空気で出来ているみたいに、名前だけが浮いて聞こえる。

 しずるは資料の角を強く掴んだ。

 「……誰ですか」

 喉が少しかすれた。
 返事をするつもりはなかった。ただ、誰かがいるなら出てきてほしかった。人の気配があるなら、それが先生でも生徒でも、ちゃんと見える形でそこにいてほしかった。

 けれど、返ってきたのは名乗りではなかった。

 「水瀬しずる」

 今度はフルネームだった。

 その瞬間、しずるの背中を冷たいものが滑った。
 名字だけなら偶然かもしれない。けれど下の名前まで、しかも誰かと話すときのような自然さで呼ばれると、反射で意識がそちらへ向いてしまう。

 音楽準備室の扉の隙間は、さっきよりほんの少しだけ広がって見えた。
 もちろん、本当に動いたのかどうかはわからない。そう見えただけかもしれない。だが暗い隙間の奥に、誰かが立っているような輪郭だけは、確かにある気がした。

 しずるは息を止めた。

 返事をしてはいけない。

 そんな噂を、どこかで聞いた覚えがあった。
 旧校舎の四階では、名前を呼ばれても振り向くな。返事をするな。誰かが笑いながら話していた、ありがちな学校の怪談。信じたことは一度もないし、今この瞬間まで思い出しもしなかった。

 なのに、人は自分の名前を呼ばれると、思っているより簡単に反応してしまう。

 「……はい」

 声は小さかった。
 でも、その一言で十分だった。

 返事をした途端、廊下の空気が変わった。

 なくなったわけではない。
 グラウンドの笛の音も、遠くの話し声も、存在はしているはずなのに、一斉に遠くへ引いていった。水の底に潜ったときみたいに、世界の音だけが薄い膜の向こうへ押しやられる。

 しずるは立ち尽くした。

 手の中の資料の重みだけが、やけにはっきりしている。
 呼吸をしようとして、喉がうまく開かない。

 その静けさの中で、暗い音楽準備室の奥から、ひどく安堵したような声がした。

 「ありがとう」

 礼を言われた。

 何に対しての、ありがとうなのか。
 考えたくなかった。考えた瞬間、たぶん何かが決定的に変わる気がした。

 しずるは扉の向こうを見た。

 窓からの光が届かない部屋の奥に、黒い譜面台の影が重なっている。積み上がった椅子の脚が、縦にいくつも並んでいた。その隙間に、立っているものがあるように見えた。

 人影、と呼ぶには輪郭が曖昧だった。
 制服のようにも見える。けれど顔はわからない。目も鼻も口も見えないのに、こちらを見ていることだけは妙にはっきりわかった。

 しずるは一歩、後ずさる。

 そのとき、腕の中の資料がずれた。
 紙の束が傾き、一番上のファイルが床へ落ちる。乾いた音が、静まり返った廊下に不自然なくらい大きく響いた。

 その音をきっかけに、しずるの足はようやく動いた。