それから、しずるは廊下で自分の名前を呼ばれるたびに、心臓がひとつ遅れて動くようになった。
前なら、誰かに呼ばれたと思ったら反射でそちらを見るだけだった。
返事をするかどうかを迷う余裕もない、ごく普通の反応。
けれど今は、その一瞬のあいだに考えることが増えた。
本物か。偽物か。朝倉か。違うものか。
その判別をしなければならない時点で、もう普通ではないのだとわかっている。
昼休み、しずるは図書室へ返却本を持っていく途中だった。
廊下は文化祭準備の名残でまだ少し騒がしい。掲示板の前では装飾の相談をしているグループがいて、窓際では段ボールを切り抜いている生徒が二人、床に座り込んでいる。人はいる。声もある。だからこそ、そんな中でひどく自然に混ざってきたその呼び声に、しずるは一瞬ためらわなかった。
「水瀬」
朝倉の声だった。
しずるは足を止める。
呼ばれた、と思うより先に身体がそちらを向く。
階段の踊り場へ続く廊下の角、ちょうど人の流れが切れるあたりから聞こえた気がした。声の距離まで自然だ。近すぎず、遠すぎず、いつもの朝倉が教室の外から呼ぶときと同じくらいの位置。
「……朝倉?」
返事をしたわけではない。
ただ確認するみたいに、小さく名前を返しただけだ。
それでも自分の声が出たことに、しずるは少し遅れて気づく。
「こっち」
二度目の声。
短い。いつもの朝倉なら、本当に言いそうな雑さだった。
しずるは抱えていた本を胸元に寄せたまま、半歩だけそちらへ進む。
頭では、待て、と言っている。朝倉がこんなふうにわざわざ人の少ないほうへ呼ぶだろうか。放送室ならともかく、昼休みのこんな廊下で。
でも、考えるより先に身体が反応する。自分の名前を、朝倉の声で呼ばれると、まだ胸の奥が勝手にそちらへ寄ってしまう。
「早く」
今度は少しだけ低かった。
そこで、しずるの足が止まる。
何が違うのかはすぐには言えない。
声の高さは似ている。言い方も似ている。けれど、何かが引っかかる。
朝倉は、急かすことはあっても、こんなふうに言葉だけを置いて先へ行く感じでは呼ばない。名前を呼んで、こちらが振り向く一瞬を、いつも少し待つ。そういう間がある。今の声には、それがない。
しずるは階段のほうを見た。
誰もいない。
踊り場の窓から昼の光だけが落ちていて、手すりの影が長く床に伸びていた。
「何ですか」
試すみたいに言ってみる。
すると、少しの間を置いてから、また声がした。
「こっち来ればわかる」
ぞっとする。
朝倉なら、こんな返しはしない。
しずるの喉がきゅっと縮む。
気づいてしまった瞬間、背中を冷たいものが流れた。
今のは本物じゃない。
そのとき、背後から別の足音が近づいてきた。
「水瀬?」
今度こそ本物の朝倉の声だった。
しずるはほとんど反射で振り向いた。
そこにいたのは、昼の放送用のファイルを片手に持った朝倉だった。少しだけ息が上がっている。たぶん、しずるを探していたのではなく、ただこちらへ歩いてきただけだ。なのに、その姿を見た瞬間、しずるの肩から変な力が抜けた。
「何してんの」
朝倉が首をかしげる。
しずるはすぐには答えられなかった。
さっきまで聞こえていた声の余韻が、まだ耳の奥に残っている。本物が目の前にいるのに、偽物もつい今しがたそこにいた気配がして、現実の境目が少し揺らぐ。
「今、呼びましたよね」
ようやくそう言うと、朝倉は眉を寄せた。
「呼んでない」
短い否定だった。
言い切り方まで本物だと思う。迷いがない。
「でも、たしかに……」
「誰の声だった」
問い返されて、しずるは廊下の角を見た。
もう誰もいない。昼の光だけが白くあって、さっきの気配は跡形もない。
「……朝倉の、声でした」
自分で言ってから、その事実が遅れて重くなる。
朝倉の声だった。だから振り向いた。だから半歩、そちらへ行こうとした。助けになるはずの声に、自分はこんなにも簡単に引かれる。
朝倉は小さく舌打ちするみたいに息を吐いた。
「最悪」
その一言には、怖がっている感じより、ひどく嫌そうな響きがあった。
しずるは少し意外に思いながらも、その嫌悪感の向きがわかる気がした。自分の声を勝手に使われること。しずるをそちらへ引っ張るために、自分の声の形だけを抜き取られること。たぶん朝倉は、それを本気で嫌がっている。
「次、俺の声で呼ばれても、すぐ行くな」
しずるは本を抱え直した。
「……わかってます」
「わかってない顔してる」
あっさり返される。
しずるは反射的に言い返しかけて、やめた。
わかっていない、というより、わかっていても身体が追いつかないのだ。朝倉の声には反応してしまう。呼ばれることに、まだ救われてしまう。その事実を言葉にしたくなくて、しずるは視線を逸らす。
廊下の向こうでは、昼休みのざわめきがまだ続いている。
誰かが笑って、誰かが走って、教室のドアが開いて閉まる。日常の音ばかりだ。その中で、自分だけがひどく異質なところへ立っている気がした。
朝倉が半歩近づく。
「水瀬」
呼ばれる。
今度はちゃんと本物だとわかる。わかるだけで、胸の奥が少しだけ落ち着くのが悔しい。
「……はい」
返事をすると、朝倉は少しだけ目を細めた。
「その返事、次からちゃんと確認してからにしろよ」
怒っているというより、警戒している声だった。
しずるはうなずくしかない。
けれど、わかっていた。
ただ注意されたからといって、もう簡単に切り替えられる段階ではない。
偽物の声は、思っていた以上に朝倉に似ていた。
似ているからこそ怖い。
そして、その怖さの中心には、自分がもう朝倉の声に反応する身体になってしまっているという事実があった。
前なら、誰かに呼ばれたと思ったら反射でそちらを見るだけだった。
返事をするかどうかを迷う余裕もない、ごく普通の反応。
けれど今は、その一瞬のあいだに考えることが増えた。
本物か。偽物か。朝倉か。違うものか。
その判別をしなければならない時点で、もう普通ではないのだとわかっている。
昼休み、しずるは図書室へ返却本を持っていく途中だった。
廊下は文化祭準備の名残でまだ少し騒がしい。掲示板の前では装飾の相談をしているグループがいて、窓際では段ボールを切り抜いている生徒が二人、床に座り込んでいる。人はいる。声もある。だからこそ、そんな中でひどく自然に混ざってきたその呼び声に、しずるは一瞬ためらわなかった。
「水瀬」
朝倉の声だった。
しずるは足を止める。
呼ばれた、と思うより先に身体がそちらを向く。
階段の踊り場へ続く廊下の角、ちょうど人の流れが切れるあたりから聞こえた気がした。声の距離まで自然だ。近すぎず、遠すぎず、いつもの朝倉が教室の外から呼ぶときと同じくらいの位置。
「……朝倉?」
返事をしたわけではない。
ただ確認するみたいに、小さく名前を返しただけだ。
それでも自分の声が出たことに、しずるは少し遅れて気づく。
「こっち」
二度目の声。
短い。いつもの朝倉なら、本当に言いそうな雑さだった。
しずるは抱えていた本を胸元に寄せたまま、半歩だけそちらへ進む。
頭では、待て、と言っている。朝倉がこんなふうにわざわざ人の少ないほうへ呼ぶだろうか。放送室ならともかく、昼休みのこんな廊下で。
でも、考えるより先に身体が反応する。自分の名前を、朝倉の声で呼ばれると、まだ胸の奥が勝手にそちらへ寄ってしまう。
「早く」
今度は少しだけ低かった。
そこで、しずるの足が止まる。
何が違うのかはすぐには言えない。
声の高さは似ている。言い方も似ている。けれど、何かが引っかかる。
朝倉は、急かすことはあっても、こんなふうに言葉だけを置いて先へ行く感じでは呼ばない。名前を呼んで、こちらが振り向く一瞬を、いつも少し待つ。そういう間がある。今の声には、それがない。
しずるは階段のほうを見た。
誰もいない。
踊り場の窓から昼の光だけが落ちていて、手すりの影が長く床に伸びていた。
「何ですか」
試すみたいに言ってみる。
すると、少しの間を置いてから、また声がした。
「こっち来ればわかる」
ぞっとする。
朝倉なら、こんな返しはしない。
しずるの喉がきゅっと縮む。
気づいてしまった瞬間、背中を冷たいものが流れた。
今のは本物じゃない。
そのとき、背後から別の足音が近づいてきた。
「水瀬?」
今度こそ本物の朝倉の声だった。
しずるはほとんど反射で振り向いた。
そこにいたのは、昼の放送用のファイルを片手に持った朝倉だった。少しだけ息が上がっている。たぶん、しずるを探していたのではなく、ただこちらへ歩いてきただけだ。なのに、その姿を見た瞬間、しずるの肩から変な力が抜けた。
「何してんの」
朝倉が首をかしげる。
しずるはすぐには答えられなかった。
さっきまで聞こえていた声の余韻が、まだ耳の奥に残っている。本物が目の前にいるのに、偽物もつい今しがたそこにいた気配がして、現実の境目が少し揺らぐ。
「今、呼びましたよね」
ようやくそう言うと、朝倉は眉を寄せた。
「呼んでない」
短い否定だった。
言い切り方まで本物だと思う。迷いがない。
「でも、たしかに……」
「誰の声だった」
問い返されて、しずるは廊下の角を見た。
もう誰もいない。昼の光だけが白くあって、さっきの気配は跡形もない。
「……朝倉の、声でした」
自分で言ってから、その事実が遅れて重くなる。
朝倉の声だった。だから振り向いた。だから半歩、そちらへ行こうとした。助けになるはずの声に、自分はこんなにも簡単に引かれる。
朝倉は小さく舌打ちするみたいに息を吐いた。
「最悪」
その一言には、怖がっている感じより、ひどく嫌そうな響きがあった。
しずるは少し意外に思いながらも、その嫌悪感の向きがわかる気がした。自分の声を勝手に使われること。しずるをそちらへ引っ張るために、自分の声の形だけを抜き取られること。たぶん朝倉は、それを本気で嫌がっている。
「次、俺の声で呼ばれても、すぐ行くな」
しずるは本を抱え直した。
「……わかってます」
「わかってない顔してる」
あっさり返される。
しずるは反射的に言い返しかけて、やめた。
わかっていない、というより、わかっていても身体が追いつかないのだ。朝倉の声には反応してしまう。呼ばれることに、まだ救われてしまう。その事実を言葉にしたくなくて、しずるは視線を逸らす。
廊下の向こうでは、昼休みのざわめきがまだ続いている。
誰かが笑って、誰かが走って、教室のドアが開いて閉まる。日常の音ばかりだ。その中で、自分だけがひどく異質なところへ立っている気がした。
朝倉が半歩近づく。
「水瀬」
呼ばれる。
今度はちゃんと本物だとわかる。わかるだけで、胸の奥が少しだけ落ち着くのが悔しい。
「……はい」
返事をすると、朝倉は少しだけ目を細めた。
「その返事、次からちゃんと確認してからにしろよ」
怒っているというより、警戒している声だった。
しずるはうなずくしかない。
けれど、わかっていた。
ただ注意されたからといって、もう簡単に切り替えられる段階ではない。
偽物の声は、思っていた以上に朝倉に似ていた。
似ているからこそ怖い。
そして、その怖さの中心には、自分がもう朝倉の声に反応する身体になってしまっているという事実があった。



