資料をめくる音が途切れると、放送室の中は急に静かになった。
さっきまで机の上に散らばっていた文字の群れが、そのまま重みになって空気に沈んでいるようだった。広報誌の紙は黄ばんでいて、新聞のコピーはところどころ掠れている。どれも過去の記録にすぎないはずなのに、今はどれも、放送室の壁や机の上に直接つながっているように見える。
香坂が最後の一枚を揃えて、軽く息をついた。
「……まあ、これで全部じゃないにしても」
その言い方には、情報が足りないことへの苛立ちと、足りないのに十分すぎるほど嫌な線が見えてしまった諦めが混じっていた。
「嫌な線はつながったわね」
朝倉が椅子の背にもたれたまま、天井を見た。
「嫌すぎるけどな」
それ以上、すぐに続く言葉はなかった。
しずるは机の端に置かれた新聞コピーを見つめる。真壁玲音。独唱候補。特別棟四階。放課後。発見までの空白。
断片のままのそれらを見ていると、まるで何かが途中で呼吸を止めたまま、その瞬間だけが切り取られて残っているようだった。
「……わかる気がします」
気づけば、そう口にしていた。
自分で言ってから、遅れて空気が変わるのがわかった。
香坂がわずかに目を細め、朝倉がこちらを見る。放送室の中の静けさが、一段深くなる。
「何が」
朝倉の声は低かった。
責めているわけではない。ただ、曖昧なまま通り過ぎさせない響きだった。
しずるは少しだけ唇を噛み、視線を資料へ落としたまま答える。
「呼ばれないまま、いなくなるの」
自分でも、ひどく静かな言い方だと思った。
けれど、その静けさの奥で言葉だけがやけに鮮明だった。誰にも呼ばれないまま。見つけてもらえないまま。そこにいたのに、いないことにされていくまま。
「……怖いと思います」
しずるは続ける。
「たぶん、すごく」
朝倉が何か言いかけて、すぐには言葉にならなかった。
香坂は腕を組んだまま、机の端へ腰を預ける。
「水瀬」
部長らしい、整理するための声だった。
「それ、玲音の話だけじゃないでしょ」
しずるは答えない。
答えたくないというより、否定の仕方がわからなかった。玲音の話をしているつもりだった。けれどその実、玲音を通して見ていたのは自分のことだ。出席で名前を飛ばされ、図書室で認識を滑られ、家では最初から箸が用意されていなかった。自分の輪郭が、少しずつ、何の音もなく薄くなっていく感覚。あれを知ってしまったら、玲音の孤独だけを“昔の誰かのこと”として切り離すことはできなかった。
朝倉が椅子を引いて、しずるの正面に回り込むように立つ。
「お前は、まだいる」
しずるはその足元を見た。
制服の裾、床に落ちる影、机の角。見慣れた放送室の風景なのに、その言葉だけがひどく重く響く。
「今は、です」
口にした瞬間、自分でその言い方の冷たさに気づいた。
でも引っ込めるには遅かった。
朝倉の眉がわずかに寄る。
「今はじゃない」
「朝倉が呼ぶからです」
しずるはようやく顔を上げた。
逃げるみたいな言い方だとわかっていた。わかっていても、それ以外の言い方が見つからない。
「朝倉が呼ぶから、僕はまだここにいるだけで」
言葉にしてしまうと、よけいにはっきりする。
自分は自力でここに立っているわけではない。誰かが名前を呼んでくれるから、ようやく存在の輪郭を保てているだけだ。それは救いのはずなのに、同時にどうしようもなく苦しかった。
香坂が小さく息を吐く。
「一回落ち着いて」
それから、しずるを見る。
「水瀬、玲音に寄りすぎ」
しずるは反射的に首を振った。
「寄ってないです」
「寄ってる」
香坂はきっぱり言った。
朝倉も、今度はすぐには否定しなかった。
「……そうだな」
短い同意が、しずるの胸に刺さる。
「でも」
しずるは指先を握りしめた。
言わなければ終わるのに、言わないままでは自分の中のどこにも置けない気がした。
「わからなくは、ないです」
「わかるな」
朝倉がすぐに返す。
それは問いではなく、ほとんど止めるような声だった。
しずるは黙った。
朝倉の言い方には、否定より先に苛立ちがあった。玲音への同情を責めているというより、しずるがそこへ自分を近づけていくことそのものを嫌がっている響きだった。
「水瀬」
朝倉がもう一度呼ぶ。
その声に反応しそうになる自分がいることが、今は少しだけ苦しい。
「お前、それ以上そっち見んな」
低い声だった。
怒鳴ってはいない。けれど、しずるの胸の内側に直接届く種類の強さがある。
「……見てないです」
「見てる」
朝倉は迷いなく言った。
その視線から逃げるように、しずるは机の上の資料を見た。真壁玲音という文字が、さっきよりもさらに濃く見える。
誰にも呼ばれないまま。
見つけてもらえないまま。
それがどれだけ怖いかを、自分はもう知っている。
だからこそ、玲音のほうへ引かれる。
だからこそ、朝倉の声にしがみついている自分が、よけいに苦しい。
そのときだった。
放送室の外、人気の薄い廊下のほうから、小さく声がした。
「水瀬」
しずるの肩が跳ねた。
反射で振り向きかける。身体が先に動いてしまう。考える前に、自分の名前に引っ張られる。
けれどその瞬間、肩に手がかかった。
「そっち見るな」
本物の朝倉の声が、すぐ近くで言う。
しずるは息を止めたまま、ようやく動きを止めた。
肩を掴む手は強くはない。強くないのに、逃がさない温度がある。
もう一度、廊下の向こうから声がする。
「水瀬」
朝倉はすぐに言った。
「今の、俺じゃない」
しずるはようやく小さくうなずく。
「……朝倉」
呼び返したその声は、思っていたより頼りなかった。
けれど朝倉の手は肩から離れない。
それだけで、しずるはまた少しだけ、自分の輪郭をこの場所へ引き戻されるのを感じていた。
さっきまで机の上に散らばっていた文字の群れが、そのまま重みになって空気に沈んでいるようだった。広報誌の紙は黄ばんでいて、新聞のコピーはところどころ掠れている。どれも過去の記録にすぎないはずなのに、今はどれも、放送室の壁や机の上に直接つながっているように見える。
香坂が最後の一枚を揃えて、軽く息をついた。
「……まあ、これで全部じゃないにしても」
その言い方には、情報が足りないことへの苛立ちと、足りないのに十分すぎるほど嫌な線が見えてしまった諦めが混じっていた。
「嫌な線はつながったわね」
朝倉が椅子の背にもたれたまま、天井を見た。
「嫌すぎるけどな」
それ以上、すぐに続く言葉はなかった。
しずるは机の端に置かれた新聞コピーを見つめる。真壁玲音。独唱候補。特別棟四階。放課後。発見までの空白。
断片のままのそれらを見ていると、まるで何かが途中で呼吸を止めたまま、その瞬間だけが切り取られて残っているようだった。
「……わかる気がします」
気づけば、そう口にしていた。
自分で言ってから、遅れて空気が変わるのがわかった。
香坂がわずかに目を細め、朝倉がこちらを見る。放送室の中の静けさが、一段深くなる。
「何が」
朝倉の声は低かった。
責めているわけではない。ただ、曖昧なまま通り過ぎさせない響きだった。
しずるは少しだけ唇を噛み、視線を資料へ落としたまま答える。
「呼ばれないまま、いなくなるの」
自分でも、ひどく静かな言い方だと思った。
けれど、その静けさの奥で言葉だけがやけに鮮明だった。誰にも呼ばれないまま。見つけてもらえないまま。そこにいたのに、いないことにされていくまま。
「……怖いと思います」
しずるは続ける。
「たぶん、すごく」
朝倉が何か言いかけて、すぐには言葉にならなかった。
香坂は腕を組んだまま、机の端へ腰を預ける。
「水瀬」
部長らしい、整理するための声だった。
「それ、玲音の話だけじゃないでしょ」
しずるは答えない。
答えたくないというより、否定の仕方がわからなかった。玲音の話をしているつもりだった。けれどその実、玲音を通して見ていたのは自分のことだ。出席で名前を飛ばされ、図書室で認識を滑られ、家では最初から箸が用意されていなかった。自分の輪郭が、少しずつ、何の音もなく薄くなっていく感覚。あれを知ってしまったら、玲音の孤独だけを“昔の誰かのこと”として切り離すことはできなかった。
朝倉が椅子を引いて、しずるの正面に回り込むように立つ。
「お前は、まだいる」
しずるはその足元を見た。
制服の裾、床に落ちる影、机の角。見慣れた放送室の風景なのに、その言葉だけがひどく重く響く。
「今は、です」
口にした瞬間、自分でその言い方の冷たさに気づいた。
でも引っ込めるには遅かった。
朝倉の眉がわずかに寄る。
「今はじゃない」
「朝倉が呼ぶからです」
しずるはようやく顔を上げた。
逃げるみたいな言い方だとわかっていた。わかっていても、それ以外の言い方が見つからない。
「朝倉が呼ぶから、僕はまだここにいるだけで」
言葉にしてしまうと、よけいにはっきりする。
自分は自力でここに立っているわけではない。誰かが名前を呼んでくれるから、ようやく存在の輪郭を保てているだけだ。それは救いのはずなのに、同時にどうしようもなく苦しかった。
香坂が小さく息を吐く。
「一回落ち着いて」
それから、しずるを見る。
「水瀬、玲音に寄りすぎ」
しずるは反射的に首を振った。
「寄ってないです」
「寄ってる」
香坂はきっぱり言った。
朝倉も、今度はすぐには否定しなかった。
「……そうだな」
短い同意が、しずるの胸に刺さる。
「でも」
しずるは指先を握りしめた。
言わなければ終わるのに、言わないままでは自分の中のどこにも置けない気がした。
「わからなくは、ないです」
「わかるな」
朝倉がすぐに返す。
それは問いではなく、ほとんど止めるような声だった。
しずるは黙った。
朝倉の言い方には、否定より先に苛立ちがあった。玲音への同情を責めているというより、しずるがそこへ自分を近づけていくことそのものを嫌がっている響きだった。
「水瀬」
朝倉がもう一度呼ぶ。
その声に反応しそうになる自分がいることが、今は少しだけ苦しい。
「お前、それ以上そっち見んな」
低い声だった。
怒鳴ってはいない。けれど、しずるの胸の内側に直接届く種類の強さがある。
「……見てないです」
「見てる」
朝倉は迷いなく言った。
その視線から逃げるように、しずるは机の上の資料を見た。真壁玲音という文字が、さっきよりもさらに濃く見える。
誰にも呼ばれないまま。
見つけてもらえないまま。
それがどれだけ怖いかを、自分はもう知っている。
だからこそ、玲音のほうへ引かれる。
だからこそ、朝倉の声にしがみついている自分が、よけいに苦しい。
そのときだった。
放送室の外、人気の薄い廊下のほうから、小さく声がした。
「水瀬」
しずるの肩が跳ねた。
反射で振り向きかける。身体が先に動いてしまう。考える前に、自分の名前に引っ張られる。
けれどその瞬間、肩に手がかかった。
「そっち見るな」
本物の朝倉の声が、すぐ近くで言う。
しずるは息を止めたまま、ようやく動きを止めた。
肩を掴む手は強くはない。強くないのに、逃がさない温度がある。
もう一度、廊下の向こうから声がする。
「水瀬」
朝倉はすぐに言った。
「今の、俺じゃない」
しずるはようやく小さくうなずく。
「……朝倉」
呼び返したその声は、思っていたより頼りなかった。
けれど朝倉の手は肩から離れない。
それだけで、しずるはまた少しだけ、自分の輪郭をこの場所へ引き戻されるのを感じていた。



