放課後、四階の音は名前を呼ぶ

 「これ、たぶん同じだと思う」

 香坂が広報誌のページを開いたまま、指先で小さな記事欄を押さえた。
 しずると朝倉がその上から覗き込む。文化祭特集の隅に載った、合唱コンクールの出場クラス紹介だった。写真は粗く、舞台の上に並ぶ生徒たちの顔までは判別しづらい。けれど本文の中には、はっきりとこう書かれていた。

 独唱候補 真壁玲音

 朝倉が低く息を吐く。

 「ほんとに“声の人”だったんだな」

 しずるはその文字を見つめたまま、小さく呟いた。

 「……声の人だったんですね」

 自分でも、妙にその言い方がしっくりきた。
 歌が上手かったとか、目立つ役だったとか、そういうことより先に、“声を持っていた人”という感じがした。誰かに聞かれる声。舞台の上で届く声。そういうものを本来持っていたはずの生徒が、今はただ人の名前を呼ぶだけの存在になって残っている。その落差が、ぞっとするほど静かに胸へ落ちる。

 香坂は広報誌のページをめくり、別のコピーを引き寄せた。
 新聞の地域欄らしい記事で、見出しの一部だけがやけに濃く印字されている。本文の大半はかすれて読みにくいが、拾える言葉はあった。

 特別棟
 放課後
 捜索
 発見まで――

 最後の行の数字は潰れていて読めない。
 だが、その曖昧さがかえって気持ち悪い。発見までの時間が肝心なのに、そこだけが抜け落ちているみたいだった。

 「記録、妙に曖昧なのよね」

 香坂が言う。

 「発見された場所とか、誰が最初に見つけたとか、そういうところがちゃんと残ってない。事故として処理はされたんだろうけど、綺麗には終わってない感じ」

 「綺麗に終わるわけないだろ、こんなの」

 朝倉がコピーの端を指で弾く。
 その言い方には怒りというより、やりきれなさが混じっていた。

 しずるは記事の文字を追いながら、知らないはずの時間を想像していた。
 文化祭前で浮ついた学校。みんな準備に追われて、少し遅くまで校舎に残っている。歌うはずだった少年が一人いなくなる。最初は誰も、すぐ戻ってくると思ったかもしれない。すぐ見つかると思ったかもしれない。けれど、その“すぐ”が伸びて、気づけば手遅れになっていた。

 待っていたのかもしれない。
 誰かが名前を呼んで、自分を見つけてくれるのを。

 その想像は、しずるの中で妙に現実味を持って広がった。

 「……待ってたのかもしれないです」

 気づけば、そう口にしていた。

 朝倉がしずるを見る。

 「何を」

 しずるは広報誌の文字から目を離さずに答える。

 「呼ばれるのを」

 放送室が少し静かになる。
 機材のランプだけが小さく灯っていて、窓の外は夕方へ傾いていた。放課後の音はこの部屋まで届く頃には薄くなり、遠いざわめきに変わっている。

 「……そうかもな」

 朝倉が、思ったよりやわらかい声で言った。

 しずるは喉の奥が少しだけ詰まるのを感じた。
 玲音がかわいそうだ、という単純な気持ちではなかった。そういう言葉にしてしまうと、自分には関係のない昔の事故みたいになる。けれど、そうではない。呼ばれないまま取り残されることが、どれだけ怖いかを、しずるはもう知ってしまっている。

 「忘れられたみたいに」

 ぽつりと落ちた言葉に、朝倉がすぐ反応する。

 「忘れられたっていうか」

 そこで一度、言い方を探すように黙る。
 それから、少しだけ低く言った。

 「見つけてもらえなかった、のほうが近いだろ」

 しずるは顔を上げた。

 朝倉の視線は、資料の上に落ちていた。
 怒っているようにも見えるし、ひどく苦そうにも見える。忘れられる、という言い方では足りないと思ったのだろう。ただ記憶から抜けたのではなく、そこにいたのに見つけてもらえなかった。声を持っていたのに、届かなかった。そのことへの嫌悪が、その短い言い換えにはこもっていた。

 香坂が腕を組んだまま言う。

 「学校側も、たぶん触れたくなかったんでしょうね。事故として閉じたかった。でも閉じきれなかった」

 「だから残った」

 朝倉が言う。

 「声だけ」

 その一言で、机の上の資料全部が急に生々しくなる。
 過去の記事でも、昔の名簿でもなく、今ここにつながっているものとして。

 しずるはもう一度、広報誌の中の名前を見た。
 真壁玲音。
 独唱候補。
 本当なら、大勢の前で自分の声を届かせるはずだった人。

 それが今は、放課後の旧校舎で、誰かの名前を呼ぶだけの存在になっている。

 しずるはそのことに、恐怖と同じくらいの重さで、言いようのない痛みを覚えていた。