放課後、四階の音は名前を呼ぶ

 その日の放課後、しずるが放送室へ入ると、机の上にはいつもの原稿の束ではなく、黄ばんだ紙の山が置かれていた。

 古い学校広報誌、新聞のコピー、穴あきファイルに挟まれた資料の抜粋。
 どれも端が少し波打っていて、何年も戸棚の奥にしまわれていた空気をそのまま連れてきたような乾いたにおいがした。機材の匂いに混じる紙の古さが、いつもの放送室を少しだけ別の場所に見せている。

 「持ってきた」

 香坂が言って、机の端に鞄を置いた。
 今日は放送部の部長というより、何かを掘り返してきた調査役の顔をしている。

 朝倉が資料の山を見下ろす。

 「すごい量だな」

 「全部は出してもらえなかったけどね」
 香坂は一冊の冊子を開きながら続けた。
 「葛西先生に頼んだ。旧校舎の記録、何か残ってないかって」

 しずるはその名前に顔を上げた。
 音楽教師の葛西は、四階のことを聞いたとき、一度だけ妙な間を見せた教師だ。知らないふりをしているわけではない。でも、知っていることを全部は言わない大人特有の曖昧さがあった。

 「……見せてもらえたんですか」

 「見せてもらえた、というより」
 香坂は肩をすくめる。
 「必要そうなところだけ抜いてくれた感じ。だから中途半端」

 「中途半端なのがいちばん気持ち悪いんだよな」と朝倉が言った。

 しずるは机のそばに寄った。
 広報誌の表紙には、今より少し古い校舎の写真が載っている。新聞のコピーは文字がつぶれ、太い見出しだけがやけに目立っていた。学校行事の記事、部活動の記事、その中に混じって、旧校舎の安全点検や補修工事に関する短い記述がある。

 香坂が一枚のコピーを指先で押さえる。

 「ここ」

 しずると朝倉が同時に身を乗り出した。

 『文化祭準備期間中、特別棟四階において――』

 そこから先は紙がかすれて読みにくい。
 けれど、拾える言葉だけでも十分だった。特別棟四階。放課後。行方不明。断片のまま並んでいるのに、どれも今のしずるの状況と不気味なほど噛み合う。

 「同じだ」

 朝倉が低く言う。

 しずるは小さくうなずいた。
 旧校舎、四階、放課後。
 それだけで背中の奥が薄く冷える。自分の体験が、たまたまでも偶然でもなく、過去の誰かと同じ場所を踏んでいるのだと突きつけられる感じだった。

 香坂が次の資料をめくる。
 手書きの名簿らしき紙が出てきて、そこに赤ペンで何か書き込みがしてあった。

 「真壁……玲音」

 その名前を、香坂ははっきり音にした。

 放送室の空気が一瞬だけ止まる。

 しずるはその文字列を見つめた。
 知らない名前のはずだった。学校ですれ違ったこともないし、話題に聞いた記憶もない。なのに、文字を目で追った瞬間、胸の奥のどこかがひどく静かになった。遠いはずなのに、遠くない。そんな妙な感覚。

 「知ってる名前?」

 朝倉がしずるを見る。

 「……いえ」

 答えながら、しずるは視線を紙から外せなかった。

 「でも」

 「でも?」と香坂。

 「……変な感じがします」

 自分でも曖昧な言い方だと思う。
 懐かしいわけではない。親しいわけでもない。ただ、その名前だけが、ほかの資料の文字よりひどく重かった。

 香坂はそれ以上追及せず、広報誌を開いた。
 そこには合唱コンクールの記事があり、舞台上に並ぶ生徒たちの写真が小さく載っている。解説文の端に、独唱候補の名前が何人か並んでいた。

 「これも見て」

 朝倉が横から読み上げる。

 「真壁玲音……ほんとだ」

 「まだ断定はできないけど、同一人物の可能性は高い」と香坂が言った。
 「音楽準備室、四階、放課後、それに文化祭前。条件が重なりすぎてる」

 しずるは記事の写真を見た。
 顔は小さくて判別できない。けれど、その中に“真壁玲音”と名前を持つ誰かがたしかにいたのだと思うと、昨日までの怪異が少しだけ形を持ちはじめる。見えなかったものに、急に輪郭が生まれる。そのことが怖い。

 「葛西先生、何て言ってた?」

 朝倉が尋ねる。

 「昔の事故だって」
 香坂は紙を揃えながら答えた。
 「面白半分で掘り返す話じゃない、って。あと、あまり近づかないほうがいいって」

 「それ先に言えよって感じだけどな」

 「言われなくても近づきたくないでしょ、普通」

 朝倉はそこで小さく鼻を鳴らし、資料の端を指で弾いた。

 「でも、これでただの噂話じゃないのは確定か」

 噂話じゃない。
 怪談でも、誰かの悪ふざけでもなく、実際に学校の中で起きたことの続き。

 しずるは机の上の名前をもう一度見た。

 真壁玲音。

 まだ知らない誰かのはずなのに、その名前を心の中で繰り返すたび、胸の奥が少しだけ重くなる。
 呼ばれた声の主が、初めてただの“怪異”ではなく、“名前を持った誰か”に変わった気がした。

 そしてそのことが、しずるには思っていたよりずっと怖かった。