その日、放送室には珍しく、少しだけのんびりした空気が流れていた。
文化祭前で忙しいのは相変わらずだが、昼の放送も終わり、香坂は職員室へ提出する書類をまとめている。朝倉は机の上にCDケースをいくつか広げ、行事用の音源を確認していた。しずるはその横で、さっき使った原稿を順番どおりに揃えている。
機械のランプが小さく灯り、窓の外には傾き始めた光がある。
教室棟のほうからは、ときどき誰かの笑い声が聞こえるものの、ここまで届くころには丸く削られて、遠い水音みたいにやわらかくなっていた。
「これ見て」
不意に朝倉が言った。
しずるが顔を上げると、朝倉はCDケースの裏面をこちらへ向けていた。白いラベルに、油性ペンで雑な字が書いてある。
『昼休み用・しっとりBGM(仮)最終完全版2』
しずるは一度その文字を読み、もう一度読み返した。
香坂が横から覗き込む。
「何回最終なんだよ」
「いや、前の最終が最終じゃなかった」
「じゃあ最終って書くな」
「気持ちの問題」
「気持ちで管理するな」
朝倉は「ひどい」と言いながら肩をすくめる。
しずるはラベルを見つめたまま、喉の奥で何かがほどけるのを感じた。最終完全版のあとにさらに数字がついていることが、どう考えてもおかしい。わかっているのに、朝倉はたぶん本気でそれほどおかしいと思っていない。
「……変です」
気づけば、そう口にしていた。
朝倉がすぐ反応する。
「今、笑っただろ」
しずるははっとして口元を押さえた。
自分では笑ったつもりはなかった。けれど頬の筋肉が少しゆるんでいるのがわかる。
「笑ってないです」
「いや、笑った」
「笑ってたね」と香坂が即座に重ねる。
「部長まで」
「だって見たし」
二対一で断定され、しずるは視線を落とした。
耳のあたりが少し熱い。からかわれているだけのはずなのに、嫌な感じはしなかった。それよりも、自分が今のやり取りの中で自然に気を抜いたことのほうが、少し信じられなかった。
放送室では、最近そういう瞬間が増えていた。
朝倉がわざとくだらないことを言って、香坂がそれを切る。しずるは最初、反応しないつもりでいても、だんだん無視しきれなくなる。気づけば短く返していたり、今日みたいに口元が勝手にゆるんだりする。教室ではまだ、自分の輪郭がどこまで保てているか気にしてばかりなのに、ここではそれを忘れる時間がほんの少しだけできるのだ。
香坂が時計を見て、まとめた書類を持ち上げた。
「私、職員室行ってくる」
「また?」
「部長だからね」
「便利な言葉」
「朝倉、それ自分で言ってて腹立たない?」
「ちょっと」
香坂は机の端で原稿の束を整え、扉の前で一度だけ振り返った。
「変な空気にしないでよ」
「しないって」
「……しないです」
しずるまで返してしまうと、香坂は「そこはもうちょっと否定して」とだけ言って出ていった。
扉が閉まる音がして、部屋の中が少し静かになる。
しずるは手元の紙に目を戻した。
別に、変な空気になるわけではない。朝倉と二人きりなのは、これが初めてでもない。香坂が放送時間の調整で席を外すことは何度かあったし、そのたびに何か特別なことが起きたわけでもない。なのに今日は、扉が閉まったあとの静けさだけが少し濃く感じられた。
朝倉がCDケースを机に置く。
「でも、前より顔やわらかくなった」
唐突に言われて、しずるは顔を上げた。
「……そういうの、自分じゃわからないです」
「俺はわかる」
朝倉はあまり考えた様子もなく、そう言った。
からかう声ではない。事実をそのまま口にしたような言い方だった。
しずるは言葉に詰まる。
「どうしてですか」
「見てるから」
たった四文字なのに、その一言は妙にまっすぐだった。
しずるは手元の原稿を見た。紙の端が少しだけぶれて見える。視界が揺れているのではなく、自分のほうが動揺しているのだとすぐにわかった。
見てるから。
それは今まで何度も朝倉がやっていたことだ。顔色を見て、輪郭の薄さを見て、返事の遅さを見て、平気じゃないことに先に気づく。実際そうなのに、言葉にされると急に逃げ場がなくなる。
「……朝倉、そういうこと普通に言いますよね」
ようやくそれだけ返すと、朝倉は少しだけ首を傾げた。
「言ったらまずかった?」
「まずい、というか」
「うん」
そこで続きを促され、しずるは困った。
何がまずいのか、自分でもうまく説明できない。うれしいとか、恥ずかしいとか、そういう整理された言葉にはまだならない。ただ、見ていると言われると、自分の輪郭がいっそうはっきりしてしまう。見落とされることに慣れてきたぶん、そのまっすぐさが少し痛い。
「……困ります」
しずるが小さく言うと、朝倉は一瞬だけ黙った。
それから、目元だけ少し笑う。
「困る顔してる」
「だから、そういうのです」
「何が」
「わかってて言うの、ずるいです」
言ってから、しずるは少しだけ息を止めた。
こんなふうに返したのは初めてかもしれない。前なら、もっと曖昧に流していた。けれど朝倉はそれを嫌がるでもなく、むしろどこか面白そうに見つめている。
「じゃあ、次から黙っとく?」
「……それは」
「それは?」
しずるは答えられなかった。
黙られたら、それはそれで困る気がした。名前を呼ばれなくなることに似た不安が、喉の奥で小さく広がる。朝倉の前では、そういう感情が少しずつ隠しきれなくなっている。
結局、しずるは視線をそらして小さく言った。
「……それも、困ります」
朝倉はそれを聞いて、今度ははっきり笑った。
からかうためではなく、うれしそうな、少しだけ安堵したような笑い方だった。
「じゃあ、今までどおり見とく」
「勝手です」
「うん」
素直に認められると、文句の行き先がなくなる。
しずるは呆れたように息を吐いたが、その息のほうが少しだけやわらかいことに自分で気づいてしまった。
窓の外では、夕方の光がさらに薄くなっていく。
放送室の中には、機材の小さなランプと、机の上に広がった紙の白さだけが残っていた。
ここにいるあいだだけは、自分が消える前の自分に少し戻れる。
そのことを、しずるはまだはっきり認めてはいなかった。
けれど少なくとも、朝倉の前で笑ったことだけは、もうなかったことにはできなかった。
文化祭前で忙しいのは相変わらずだが、昼の放送も終わり、香坂は職員室へ提出する書類をまとめている。朝倉は机の上にCDケースをいくつか広げ、行事用の音源を確認していた。しずるはその横で、さっき使った原稿を順番どおりに揃えている。
機械のランプが小さく灯り、窓の外には傾き始めた光がある。
教室棟のほうからは、ときどき誰かの笑い声が聞こえるものの、ここまで届くころには丸く削られて、遠い水音みたいにやわらかくなっていた。
「これ見て」
不意に朝倉が言った。
しずるが顔を上げると、朝倉はCDケースの裏面をこちらへ向けていた。白いラベルに、油性ペンで雑な字が書いてある。
『昼休み用・しっとりBGM(仮)最終完全版2』
しずるは一度その文字を読み、もう一度読み返した。
香坂が横から覗き込む。
「何回最終なんだよ」
「いや、前の最終が最終じゃなかった」
「じゃあ最終って書くな」
「気持ちの問題」
「気持ちで管理するな」
朝倉は「ひどい」と言いながら肩をすくめる。
しずるはラベルを見つめたまま、喉の奥で何かがほどけるのを感じた。最終完全版のあとにさらに数字がついていることが、どう考えてもおかしい。わかっているのに、朝倉はたぶん本気でそれほどおかしいと思っていない。
「……変です」
気づけば、そう口にしていた。
朝倉がすぐ反応する。
「今、笑っただろ」
しずるははっとして口元を押さえた。
自分では笑ったつもりはなかった。けれど頬の筋肉が少しゆるんでいるのがわかる。
「笑ってないです」
「いや、笑った」
「笑ってたね」と香坂が即座に重ねる。
「部長まで」
「だって見たし」
二対一で断定され、しずるは視線を落とした。
耳のあたりが少し熱い。からかわれているだけのはずなのに、嫌な感じはしなかった。それよりも、自分が今のやり取りの中で自然に気を抜いたことのほうが、少し信じられなかった。
放送室では、最近そういう瞬間が増えていた。
朝倉がわざとくだらないことを言って、香坂がそれを切る。しずるは最初、反応しないつもりでいても、だんだん無視しきれなくなる。気づけば短く返していたり、今日みたいに口元が勝手にゆるんだりする。教室ではまだ、自分の輪郭がどこまで保てているか気にしてばかりなのに、ここではそれを忘れる時間がほんの少しだけできるのだ。
香坂が時計を見て、まとめた書類を持ち上げた。
「私、職員室行ってくる」
「また?」
「部長だからね」
「便利な言葉」
「朝倉、それ自分で言ってて腹立たない?」
「ちょっと」
香坂は机の端で原稿の束を整え、扉の前で一度だけ振り返った。
「変な空気にしないでよ」
「しないって」
「……しないです」
しずるまで返してしまうと、香坂は「そこはもうちょっと否定して」とだけ言って出ていった。
扉が閉まる音がして、部屋の中が少し静かになる。
しずるは手元の紙に目を戻した。
別に、変な空気になるわけではない。朝倉と二人きりなのは、これが初めてでもない。香坂が放送時間の調整で席を外すことは何度かあったし、そのたびに何か特別なことが起きたわけでもない。なのに今日は、扉が閉まったあとの静けさだけが少し濃く感じられた。
朝倉がCDケースを机に置く。
「でも、前より顔やわらかくなった」
唐突に言われて、しずるは顔を上げた。
「……そういうの、自分じゃわからないです」
「俺はわかる」
朝倉はあまり考えた様子もなく、そう言った。
からかう声ではない。事実をそのまま口にしたような言い方だった。
しずるは言葉に詰まる。
「どうしてですか」
「見てるから」
たった四文字なのに、その一言は妙にまっすぐだった。
しずるは手元の原稿を見た。紙の端が少しだけぶれて見える。視界が揺れているのではなく、自分のほうが動揺しているのだとすぐにわかった。
見てるから。
それは今まで何度も朝倉がやっていたことだ。顔色を見て、輪郭の薄さを見て、返事の遅さを見て、平気じゃないことに先に気づく。実際そうなのに、言葉にされると急に逃げ場がなくなる。
「……朝倉、そういうこと普通に言いますよね」
ようやくそれだけ返すと、朝倉は少しだけ首を傾げた。
「言ったらまずかった?」
「まずい、というか」
「うん」
そこで続きを促され、しずるは困った。
何がまずいのか、自分でもうまく説明できない。うれしいとか、恥ずかしいとか、そういう整理された言葉にはまだならない。ただ、見ていると言われると、自分の輪郭がいっそうはっきりしてしまう。見落とされることに慣れてきたぶん、そのまっすぐさが少し痛い。
「……困ります」
しずるが小さく言うと、朝倉は一瞬だけ黙った。
それから、目元だけ少し笑う。
「困る顔してる」
「だから、そういうのです」
「何が」
「わかってて言うの、ずるいです」
言ってから、しずるは少しだけ息を止めた。
こんなふうに返したのは初めてかもしれない。前なら、もっと曖昧に流していた。けれど朝倉はそれを嫌がるでもなく、むしろどこか面白そうに見つめている。
「じゃあ、次から黙っとく?」
「……それは」
「それは?」
しずるは答えられなかった。
黙られたら、それはそれで困る気がした。名前を呼ばれなくなることに似た不安が、喉の奥で小さく広がる。朝倉の前では、そういう感情が少しずつ隠しきれなくなっている。
結局、しずるは視線をそらして小さく言った。
「……それも、困ります」
朝倉はそれを聞いて、今度ははっきり笑った。
からかうためではなく、うれしそうな、少しだけ安堵したような笑い方だった。
「じゃあ、今までどおり見とく」
「勝手です」
「うん」
素直に認められると、文句の行き先がなくなる。
しずるは呆れたように息を吐いたが、その息のほうが少しだけやわらかいことに自分で気づいてしまった。
窓の外では、夕方の光がさらに薄くなっていく。
放送室の中には、機材の小さなランプと、机の上に広がった紙の白さだけが残っていた。
ここにいるあいだだけは、自分が消える前の自分に少し戻れる。
そのことを、しずるはまだはっきり認めてはいなかった。
けれど少なくとも、朝倉の前で笑ったことだけは、もうなかったことにはできなかった。



