それから、朝倉は本当に何度も、しずるの名前を呼んだ。
最初は必要な連絡のついでだった。
図書室から回ってきた返却確認、文化祭準備で使う備品の確認、委員会からの伝達。しずる宛てでなくても成立するものの中に、朝倉は器用にしずるの名前を差し込んだ。
けれど二日も経つ頃には、香坂が半ば呆れた顔で言うようになる。
「朝倉、それただの私的利用じゃない?」
昼休みの放送原稿に目を通しながら、香坂は赤ペンの先で机を叩いた。
放送室の窓の外では、文化祭前の校庭がいつもより明るく見える。晴れた昼の光が強くて、机の上の白い原稿用紙まで少し眩しかった。
朝倉は悪びれもせず肩をすくめる。
「効くんだから仕方ないだろ」
「仕方なくない」
香坂は即答した。
「だいたい何、その文面」
朝倉の前に置かれた原稿には、見慣れた校内放送用の定型に混じって、どこか無理やり作った用件が並んでいた。
二年B組、水瀬しずるくん。図書室で借りている本の返却期限を確認してください。
しずるはそれを横から見て、思わず眉を寄せた。
「それ、必要ありますか」
朝倉がすぐに振り向く。
「あります」
「絶対ないです」
「いや、ある。期限切れたら困るだろ」
「切れてないです」
「でも確認は大事」
「朝倉、理屈の形だけ整えて押し切ろうとするのやめな」と香坂が言う。
「どう見ても、水瀬の名前を読みたいだけ」
「言い方」
「合ってるでしょ」
朝倉は口を尖らせたが、否定はしなかった。
しずるはそれ以上何か言おうとしてやめる。否定してもたぶん無駄だし、それよりも厄介なのは、自分が本気では嫌がっていないことだった。
放送のチャイムが鳴る。
短い電子音のあと、朝倉はマイクのスイッチを入れた。さっきまで机を挟んで軽口を叩いていたのに、マイクの前に座ると声音が一段だけ整う。明るさは残るのに、言葉の輪郭が急にはっきりするのが不思議だった。
『昼休みのお知らせです』
最初はいつもの放送だった。
文化祭準備に関する注意、部活動の集合時間、落とし物の案内。しずるは放送室の隅にある丸椅子へ座り、膝の上で手を組んだままその声を聞いていた。
教室や廊下で聞くのとは違う。
ここで聞く朝倉の声は、スピーカーに乗る前の、生の音の振動が少し混じっている。だから余計に、自分の名前が呼ばれる瞬間を待っていることがばれてしまいそうで落ち着かなかった。
そして、案の定その瞬間は来る。
『二年B組、水瀬しずるくん。図書室からの連絡です』
放送用の、よく通る声。
けれどフルネームを読むところだけ、朝倉はいつも少し丁寧だった。しずるにはその違いがもうわかる。わかってしまう自分が困る。
『借りている本の返却期限を確認してください。繰り返します――』
二度目の自分の名前が流れた瞬間、しずるは息を吐いていた。
胸の奥に貼りついていた薄い膜が剥がれるみたいに、身体が少し軽くなる。足の裏がちゃんと床を踏む。机の角、窓の光、香坂が赤ペンを回す音。全部が一度に近くなる。
効いている。
それを、もう疑えなかった。
放送が終わり、スイッチが切られる。
朝倉は椅子ごと半分こちらへ向いて、「どう」とでも言いたげな顔をした。しずるはその顔を見る前に視線を外す。
「それ、必要ありましたか」
さっきと同じ台詞を繰り返す。
でも今度は声が少し弱い。自分でもわかるくらい、抗議の形だけになっている。
「ありました」
「ないです」
「今、だいぶ戻った」
朝倉はしれっと言う。
しずるは返事に詰まる。
事実だから困る。
香坂が原稿を揃えながら口を挟んだ。
「まあ私も、放送内容としては相当どうかと思う」
「だろ」としずるが小さく言うと、
「でも顔色はさっきよりいい」
と、香坂はあっさり続けた。
逃げ道がなくなる。
しずるは膝の上の指先を見つめた。たしかにさっきより、指の輪郭がはっきりしている気がする。自分の手なのに、自分のものとして見えるだけで少し安心するのが情けなかった。
「だからって、あんなの毎回……」
「毎回やるけど」
朝倉は迷いなく言った。
「そんな宣言みたいに言わないでください」
「宣言だから」
「勝手すぎます」
「効くなら勝手でもやる」
軽く言っているようで、その実、少しも冗談ではない声だった。
しずるは何も返せなくなる。自分の存在が薄れていく恐怖と、名前を呼ばれた瞬間に戻れる安堵。そのどちらも、もう朝倉は知っている。知った上で、当然みたいに呼ぶと言う。
「嫌だった?」
朝倉がふと、少しだけ声を落として聞いた。
しずるは顔を上げる。
朝倉はさっきまでの軽さをそのまま残しながら、でも目だけはちゃんとこちらを見ていた。
嫌かどうか。
恥ずかしい。落ち着かない。全校に名前を流されるなんて、できれば何度もやってほしくない。そういう感情は全部本当だ。
でも。
「……嫌、では」
小さく言ったところで、香坂が「はい確定」と横から呟いた。
「部長」
「だって今のは完全に負けでしょ」
「負けって何ですか」
「朝倉の私的利用に」
「言い方」
朝倉が笑う。
その笑い声が、さっき放送で聞いた声とは違う近さでしずるの耳に触れる。しずるはほんの少しだけ肩の力を抜いた。呼ばれることを待ってしまう自分を、まだ認めたくはなかった。けれど少なくとも、朝倉の声が流れたあとの自分のほうが、今は確かにこの場所へ戻ってこられている。
それだけは、どんな理屈を探しても、ごまかせなかった。
最初は必要な連絡のついでだった。
図書室から回ってきた返却確認、文化祭準備で使う備品の確認、委員会からの伝達。しずる宛てでなくても成立するものの中に、朝倉は器用にしずるの名前を差し込んだ。
けれど二日も経つ頃には、香坂が半ば呆れた顔で言うようになる。
「朝倉、それただの私的利用じゃない?」
昼休みの放送原稿に目を通しながら、香坂は赤ペンの先で机を叩いた。
放送室の窓の外では、文化祭前の校庭がいつもより明るく見える。晴れた昼の光が強くて、机の上の白い原稿用紙まで少し眩しかった。
朝倉は悪びれもせず肩をすくめる。
「効くんだから仕方ないだろ」
「仕方なくない」
香坂は即答した。
「だいたい何、その文面」
朝倉の前に置かれた原稿には、見慣れた校内放送用の定型に混じって、どこか無理やり作った用件が並んでいた。
二年B組、水瀬しずるくん。図書室で借りている本の返却期限を確認してください。
しずるはそれを横から見て、思わず眉を寄せた。
「それ、必要ありますか」
朝倉がすぐに振り向く。
「あります」
「絶対ないです」
「いや、ある。期限切れたら困るだろ」
「切れてないです」
「でも確認は大事」
「朝倉、理屈の形だけ整えて押し切ろうとするのやめな」と香坂が言う。
「どう見ても、水瀬の名前を読みたいだけ」
「言い方」
「合ってるでしょ」
朝倉は口を尖らせたが、否定はしなかった。
しずるはそれ以上何か言おうとしてやめる。否定してもたぶん無駄だし、それよりも厄介なのは、自分が本気では嫌がっていないことだった。
放送のチャイムが鳴る。
短い電子音のあと、朝倉はマイクのスイッチを入れた。さっきまで机を挟んで軽口を叩いていたのに、マイクの前に座ると声音が一段だけ整う。明るさは残るのに、言葉の輪郭が急にはっきりするのが不思議だった。
『昼休みのお知らせです』
最初はいつもの放送だった。
文化祭準備に関する注意、部活動の集合時間、落とし物の案内。しずるは放送室の隅にある丸椅子へ座り、膝の上で手を組んだままその声を聞いていた。
教室や廊下で聞くのとは違う。
ここで聞く朝倉の声は、スピーカーに乗る前の、生の音の振動が少し混じっている。だから余計に、自分の名前が呼ばれる瞬間を待っていることがばれてしまいそうで落ち着かなかった。
そして、案の定その瞬間は来る。
『二年B組、水瀬しずるくん。図書室からの連絡です』
放送用の、よく通る声。
けれどフルネームを読むところだけ、朝倉はいつも少し丁寧だった。しずるにはその違いがもうわかる。わかってしまう自分が困る。
『借りている本の返却期限を確認してください。繰り返します――』
二度目の自分の名前が流れた瞬間、しずるは息を吐いていた。
胸の奥に貼りついていた薄い膜が剥がれるみたいに、身体が少し軽くなる。足の裏がちゃんと床を踏む。机の角、窓の光、香坂が赤ペンを回す音。全部が一度に近くなる。
効いている。
それを、もう疑えなかった。
放送が終わり、スイッチが切られる。
朝倉は椅子ごと半分こちらへ向いて、「どう」とでも言いたげな顔をした。しずるはその顔を見る前に視線を外す。
「それ、必要ありましたか」
さっきと同じ台詞を繰り返す。
でも今度は声が少し弱い。自分でもわかるくらい、抗議の形だけになっている。
「ありました」
「ないです」
「今、だいぶ戻った」
朝倉はしれっと言う。
しずるは返事に詰まる。
事実だから困る。
香坂が原稿を揃えながら口を挟んだ。
「まあ私も、放送内容としては相当どうかと思う」
「だろ」としずるが小さく言うと、
「でも顔色はさっきよりいい」
と、香坂はあっさり続けた。
逃げ道がなくなる。
しずるは膝の上の指先を見つめた。たしかにさっきより、指の輪郭がはっきりしている気がする。自分の手なのに、自分のものとして見えるだけで少し安心するのが情けなかった。
「だからって、あんなの毎回……」
「毎回やるけど」
朝倉は迷いなく言った。
「そんな宣言みたいに言わないでください」
「宣言だから」
「勝手すぎます」
「効くなら勝手でもやる」
軽く言っているようで、その実、少しも冗談ではない声だった。
しずるは何も返せなくなる。自分の存在が薄れていく恐怖と、名前を呼ばれた瞬間に戻れる安堵。そのどちらも、もう朝倉は知っている。知った上で、当然みたいに呼ぶと言う。
「嫌だった?」
朝倉がふと、少しだけ声を落として聞いた。
しずるは顔を上げる。
朝倉はさっきまでの軽さをそのまま残しながら、でも目だけはちゃんとこちらを見ていた。
嫌かどうか。
恥ずかしい。落ち着かない。全校に名前を流されるなんて、できれば何度もやってほしくない。そういう感情は全部本当だ。
でも。
「……嫌、では」
小さく言ったところで、香坂が「はい確定」と横から呟いた。
「部長」
「だって今のは完全に負けでしょ」
「負けって何ですか」
「朝倉の私的利用に」
「言い方」
朝倉が笑う。
その笑い声が、さっき放送で聞いた声とは違う近さでしずるの耳に触れる。しずるはほんの少しだけ肩の力を抜いた。呼ばれることを待ってしまう自分を、まだ認めたくはなかった。けれど少なくとも、朝倉の声が流れたあとの自分のほうが、今は確かにこの場所へ戻ってこられている。
それだけは、どんな理屈を探しても、ごまかせなかった。



