それから数日、しずるは放課後になると管理棟の二階へ向かうようになった。
最初のうちは、自分でもそれを「通う」と呼ぶほどのことではないと思っていた。たまたま用事がない日が続いただけだとか、図書室に寄る前に少し座っているだけだとか、いくらでも言い訳はできる。けれど実際には、チャイムが鳴って教室がざわつき始める頃には、もう頭のどこかで放送室までの道順をなぞっていた。
文化祭前の校舎は相変わらず落ち着かない。
段ボールの山、色画用紙、絵の具、笑い声。どれも悪いものではないはずなのに、その中に立っていると、自分だけが少しずつ背景に押し込まれていく感じがした。誰かが悪意を持ってしずるを無視しているわけではない。ただ、人の多い場所では、しずるは気を抜くと簡単に“見つけられない側”へ落ちていく。
だからたぶん、放送室に向かうのは自然なことだった。
その日も、しずるが扉を開けると朝倉は机の上に広げた原稿を片手で押さえたまま顔を上げた。
「来た」
昨日も聞いた言い方だった。
けれど、その一言だけで今日もここにいていいのだとわかってしまうのが、少し悔しい。
「……はい」
「だから何で毎回、報告みたいになるんだよ」
朝倉が笑う。
しずるは答えずに扉を閉めた。放送室の中は、今日も少し乾いた機械のにおいがする。窓際では香坂が原稿用紙の束を机に打ちつけて揃えていた。
「水瀬、そこ座ってもいいけど、暇ならこれ手伝って」
そう言って差し出されたのは、ページ順のずれた原稿の山だった。
文化祭当日のアナウンス用なのだろう。紙の端には鉛筆で細かい修正が入っていて、ところどころクリップが外れている。
「番号順に直して、重複してるのは横に避けといて」
「……わかりました」
しずるは鞄を椅子の脇に置き、机の端へ寄った。
ページの右上に振られた番号を見て並べ替えていく。紙の手触りと、少し擦れたインクのにおいが指先に残る。単純な作業は嫌いではない。むしろ、何をどうすればいいか最初から決まっている仕事は落ち着く。自分がそこにいていい理由が、紙の束のぶんだけはっきりするからだ。
「真面目だな、水瀬」
向かいの席から朝倉が言う。
「手伝えることがあるなら、そのほうが」
しずるが視線を上げずに答えると、朝倉は「あー」と曖昧に相槌を打った。
「別に、いてくれるだけでも助かるけど」
紙をめくる手が、一瞬だけ止まった。
しずるはようやく顔を上げる。朝倉は原稿の束を片手で持ったまま、特別なことを言ったつもりもなさそうな顔をしていた。
香坂だけがその言葉に少しだけ目を上げたが、何も言わずにまた手元へ戻る。
「……何の助けに」
しずるがそう返すと、朝倉は少し考えるように眉を寄せた。
「何の、って言われると困るな」
「困るなら言わないでください」
「でも助かってるのはほんと」
軽い口調なのに、その言葉だけは変に揺れなかった。
しずるは返す言葉を失い、視線を原稿へ落とす。紙の端が少しだけ見づらくなったのは、目が疲れたせいだと思いたかった。
香坂がさらりと口を挟む。
「朝倉、それ以上言うと固まるからやめな」
「何で俺が怒られてんの」
「事実だから」
二人のやり取りに、しずるは小さく息を吐いた。
助かったような、余計に逃げ場を失ったような、奇妙な気分だった。
作業をしているあいだ、放送室の中ではキーボードを打つ音と紙をめくる音だけが続いた。
ときどき朝倉が明日の昼放送の確認をし、香坂が文化祭当日の進行表に赤ペンで書き込みを足す。しずるは黙ってページを揃える。誰も大きな声を出さない。沈黙が気まずくないことが、教室とは違った。
窓の外の光が少しずつ青く沈み、ブラインドの隙間から細い影が机の上に落ちる。
しずるはふと、自分がさっきから“薄くなっていく感覚”をほとんど意識していないことに気づいた。ここにいるあいだは、教室にいるときみたいに、自分の輪郭を何度も確かめなくて済む。
作業がひと区切りついたころ、香坂が時計を見て立ち上がった。
「私は職員室にこれ出してくる。二人とも、帰るならちゃんと戸締まりして」
「はーい」
朝倉が気の抜けた返事をする。
香坂は「信用ならない」とだけ言い残して出ていった。
扉が閉まると、放送室は少しだけ広くなった気がした。
しずるは揃え終えた原稿を机の端へ置く。
「これ、たぶん終わりました」
「早」
朝倉が身を乗り出して紙の束を受け取る。
ざっと目を通してから、「ほんとだ」と感心したように笑った。
「助かった」
その言い方はさっきの「いてくれるだけでも助かる」より、ずっと気楽なはずなのに、しずるには不思議と後者のほうが深く残っていた。
鞄を持って立ち上がると、朝倉も椅子を引いた。
「また明日な、水瀬」
しずるは一瞬だけ答えに迷った。
来られたら、という言い方をすれば逃げ道になる。暇なら、でもいい。実際、何か用事が入るかもしれないし、図書室に頼まれることもあるかもしれない。
でも結局、口から出たのは別の言葉だった。
「……来ます」
朝倉が少しだけ目を丸くして、それから笑う。
「うん。待ってる」
放送室を出たあともしばらく、その言葉が耳の奥に残っていた。
また明日。
待ってる。
たったそれだけのことなのに、しずるはその日の帰り道、自分の足が昨日より少しだけ軽いのを認めざるを得なかった。
最初のうちは、自分でもそれを「通う」と呼ぶほどのことではないと思っていた。たまたま用事がない日が続いただけだとか、図書室に寄る前に少し座っているだけだとか、いくらでも言い訳はできる。けれど実際には、チャイムが鳴って教室がざわつき始める頃には、もう頭のどこかで放送室までの道順をなぞっていた。
文化祭前の校舎は相変わらず落ち着かない。
段ボールの山、色画用紙、絵の具、笑い声。どれも悪いものではないはずなのに、その中に立っていると、自分だけが少しずつ背景に押し込まれていく感じがした。誰かが悪意を持ってしずるを無視しているわけではない。ただ、人の多い場所では、しずるは気を抜くと簡単に“見つけられない側”へ落ちていく。
だからたぶん、放送室に向かうのは自然なことだった。
その日も、しずるが扉を開けると朝倉は机の上に広げた原稿を片手で押さえたまま顔を上げた。
「来た」
昨日も聞いた言い方だった。
けれど、その一言だけで今日もここにいていいのだとわかってしまうのが、少し悔しい。
「……はい」
「だから何で毎回、報告みたいになるんだよ」
朝倉が笑う。
しずるは答えずに扉を閉めた。放送室の中は、今日も少し乾いた機械のにおいがする。窓際では香坂が原稿用紙の束を机に打ちつけて揃えていた。
「水瀬、そこ座ってもいいけど、暇ならこれ手伝って」
そう言って差し出されたのは、ページ順のずれた原稿の山だった。
文化祭当日のアナウンス用なのだろう。紙の端には鉛筆で細かい修正が入っていて、ところどころクリップが外れている。
「番号順に直して、重複してるのは横に避けといて」
「……わかりました」
しずるは鞄を椅子の脇に置き、机の端へ寄った。
ページの右上に振られた番号を見て並べ替えていく。紙の手触りと、少し擦れたインクのにおいが指先に残る。単純な作業は嫌いではない。むしろ、何をどうすればいいか最初から決まっている仕事は落ち着く。自分がそこにいていい理由が、紙の束のぶんだけはっきりするからだ。
「真面目だな、水瀬」
向かいの席から朝倉が言う。
「手伝えることがあるなら、そのほうが」
しずるが視線を上げずに答えると、朝倉は「あー」と曖昧に相槌を打った。
「別に、いてくれるだけでも助かるけど」
紙をめくる手が、一瞬だけ止まった。
しずるはようやく顔を上げる。朝倉は原稿の束を片手で持ったまま、特別なことを言ったつもりもなさそうな顔をしていた。
香坂だけがその言葉に少しだけ目を上げたが、何も言わずにまた手元へ戻る。
「……何の助けに」
しずるがそう返すと、朝倉は少し考えるように眉を寄せた。
「何の、って言われると困るな」
「困るなら言わないでください」
「でも助かってるのはほんと」
軽い口調なのに、その言葉だけは変に揺れなかった。
しずるは返す言葉を失い、視線を原稿へ落とす。紙の端が少しだけ見づらくなったのは、目が疲れたせいだと思いたかった。
香坂がさらりと口を挟む。
「朝倉、それ以上言うと固まるからやめな」
「何で俺が怒られてんの」
「事実だから」
二人のやり取りに、しずるは小さく息を吐いた。
助かったような、余計に逃げ場を失ったような、奇妙な気分だった。
作業をしているあいだ、放送室の中ではキーボードを打つ音と紙をめくる音だけが続いた。
ときどき朝倉が明日の昼放送の確認をし、香坂が文化祭当日の進行表に赤ペンで書き込みを足す。しずるは黙ってページを揃える。誰も大きな声を出さない。沈黙が気まずくないことが、教室とは違った。
窓の外の光が少しずつ青く沈み、ブラインドの隙間から細い影が机の上に落ちる。
しずるはふと、自分がさっきから“薄くなっていく感覚”をほとんど意識していないことに気づいた。ここにいるあいだは、教室にいるときみたいに、自分の輪郭を何度も確かめなくて済む。
作業がひと区切りついたころ、香坂が時計を見て立ち上がった。
「私は職員室にこれ出してくる。二人とも、帰るならちゃんと戸締まりして」
「はーい」
朝倉が気の抜けた返事をする。
香坂は「信用ならない」とだけ言い残して出ていった。
扉が閉まると、放送室は少しだけ広くなった気がした。
しずるは揃え終えた原稿を机の端へ置く。
「これ、たぶん終わりました」
「早」
朝倉が身を乗り出して紙の束を受け取る。
ざっと目を通してから、「ほんとだ」と感心したように笑った。
「助かった」
その言い方はさっきの「いてくれるだけでも助かる」より、ずっと気楽なはずなのに、しずるには不思議と後者のほうが深く残っていた。
鞄を持って立ち上がると、朝倉も椅子を引いた。
「また明日な、水瀬」
しずるは一瞬だけ答えに迷った。
来られたら、という言い方をすれば逃げ道になる。暇なら、でもいい。実際、何か用事が入るかもしれないし、図書室に頼まれることもあるかもしれない。
でも結局、口から出たのは別の言葉だった。
「……来ます」
朝倉が少しだけ目を丸くして、それから笑う。
「うん。待ってる」
放送室を出たあともしばらく、その言葉が耳の奥に残っていた。
また明日。
待ってる。
たったそれだけのことなのに、しずるはその日の帰り道、自分の足が昨日より少しだけ軽いのを認めざるを得なかった。



