翌日の放課後、しずるは教室を出てからしばらく、自分がどこへ向かうつもりなのか考えないようにしていた。
文化祭準備で騒がしい廊下は昨日と同じように落ち着かない。
教室の前では模造紙を抱えた生徒たちが笑いながら通りすぎ、廊下の隅では誰かがガムテープを引きちぎる音を立てている。しずるはその間を抜けながら、なるべく誰とも目を合わせないように歩いた。
今日は図書室の当番はない。
司書教諭に頼まれた仕事もない。
だから本来なら、そのまま靴を履き替えて帰ればいいはずだった。
それなのに足は、昇降口ではなく管理棟のほうへ向かっていた。
昨日の夜からずっと、自分の輪郭がどこか頼りなかった。
教室でも、何度か会話の流れから置き去りにされた。出席確認のときほど露骨ではないにせよ、気を抜けばすぐ背景に溶けそうになる感覚は消えない。だからたぶん、安心できる場所へ行こうとしているのだと、しずるは薄々わかっていた。
放送室。
その名前をはっきり心の中で言った瞬間、少しだけ立ち止まりたくなった。
助けを求めに行くみたいで、嫌だった。
正確には、助けを求めること自体が嫌なのではない。求めなければ立っていられない自分を認めるのが嫌だった。
廊下の窓に映る自分は、昨日の写真ほどではないにしても、やはり少し薄い気がした。
視線を外したら見失いそうな顔。肩。制服の輪郭。
しずるはそれ以上考えるのをやめて、管理棟の階段を上がった。
二階の廊下は、教室棟より静かだった。
職員室の奥からコピー機の音が聞こえる。放送室の前まで来ると、扉の向こうでかすかに紙をめくるような音がした。誰かいる。たぶん朝倉だ。そう思うだけで、胸の奥のざわつきが少し静まるのが悔しい。
扉の前に立ったまま、しずるはノックをするか迷った。
用事はない。
ただ来ただけだ。
それを説明する言葉が見つからない。
すると中から、椅子を引く音がした。次いで、扉一枚隔てた向こうから聞き慣れた声がする。
「入れば?」
しずるは思わず息を止めた。
たったそれだけの言葉なのに、張っていた糸が少しゆるむ。返事をする前から、自分がちゃんとここに見つかっていることがわかる声だった。
扉を開けると、朝倉が机の前からこちらを見た。
今日は香坂の姿はない。放送室の中には、乾いた機械のにおいと、夕方の少し青い光があるだけだった。
「……なんでわかったんですか」
しずるがそう言うと、朝倉は肩をすくめる。
「気配」
「それでわかるものですか」
「わかるよ。扉の前でずっと止まってる気配、珍しいし」
珍しい、という言い方に少しだけ引っかかる。
でも否定するほどでもなくて、しずるは扉を閉めた。
「今日、顔色やばい」
朝倉はすぐそう言った。
「そうでもないです」
「そうでもない人の顔じゃないって」
あっさり返される。
しずるは言い返しかけて、やめた。ここへ来た時点で、平気ではないと認めているようなものだ。
「座れば」
朝倉が向かいの椅子を足で軽く引いた。
しずるは黙ってそこへ腰を下ろす。座った瞬間、足元が少しだけ安定した気がした。教室の椅子とも図書室の椅子とも違うのに、不思議とここでは身体の位置が決まりやすい。
机の上には、昼放送の原稿らしい紙の束が置かれている。
朝倉はその一枚を適当に揃えてから、しずるを見た。
「水瀬」
名前を呼ばれる。
それだけで、視界の端にかかっていた薄い膜が少しだけ剥がれた気がした。
肩の力が抜け、呼吸が深くなる。昨日も今日も、何度も確かめてしまった感覚だ。
「……はい」
返事は、自分でも驚くほど自然に出た。
朝倉はしずるの顔を少しだけ眺めてから言う。
「今、ちょっと戻った?」
しずるは机の縁に置いた自分の手を見た。
指先が、さっきよりはっきりして見える。
「……たぶん」
「じゃあ来たの正解」
「別に、それで来たわけじゃ」
反射で否定すると、朝倉は小さく笑った。
「うん、そういうことにしとく」
その軽さに、しずるは少しだけ救われる。
本当に助けを求めに来たのだと、今ここで言葉にしなくていい。朝倉はたぶん、もうわかっている。それでもあえて問い詰めない。
放送室の外では、どこかでチャイムが鳴った。
もうすぐ下校時刻だろう。教室棟のほうから聞こえるざわめきは、扉一枚向こうにあるのに遠かった。
しずるは椅子に座ったまま、小さく息を吐く。
ここへ来たのは偶然ではない。たぶん最初から、自分はこの声を聞きに来ていた。
そのことをまだ口にはできなかったけれど、朝倉に名前を呼ばれた瞬間、足元が現実へ戻る感覚だけは、もうごまかしようがなかった。
文化祭準備で騒がしい廊下は昨日と同じように落ち着かない。
教室の前では模造紙を抱えた生徒たちが笑いながら通りすぎ、廊下の隅では誰かがガムテープを引きちぎる音を立てている。しずるはその間を抜けながら、なるべく誰とも目を合わせないように歩いた。
今日は図書室の当番はない。
司書教諭に頼まれた仕事もない。
だから本来なら、そのまま靴を履き替えて帰ればいいはずだった。
それなのに足は、昇降口ではなく管理棟のほうへ向かっていた。
昨日の夜からずっと、自分の輪郭がどこか頼りなかった。
教室でも、何度か会話の流れから置き去りにされた。出席確認のときほど露骨ではないにせよ、気を抜けばすぐ背景に溶けそうになる感覚は消えない。だからたぶん、安心できる場所へ行こうとしているのだと、しずるは薄々わかっていた。
放送室。
その名前をはっきり心の中で言った瞬間、少しだけ立ち止まりたくなった。
助けを求めに行くみたいで、嫌だった。
正確には、助けを求めること自体が嫌なのではない。求めなければ立っていられない自分を認めるのが嫌だった。
廊下の窓に映る自分は、昨日の写真ほどではないにしても、やはり少し薄い気がした。
視線を外したら見失いそうな顔。肩。制服の輪郭。
しずるはそれ以上考えるのをやめて、管理棟の階段を上がった。
二階の廊下は、教室棟より静かだった。
職員室の奥からコピー機の音が聞こえる。放送室の前まで来ると、扉の向こうでかすかに紙をめくるような音がした。誰かいる。たぶん朝倉だ。そう思うだけで、胸の奥のざわつきが少し静まるのが悔しい。
扉の前に立ったまま、しずるはノックをするか迷った。
用事はない。
ただ来ただけだ。
それを説明する言葉が見つからない。
すると中から、椅子を引く音がした。次いで、扉一枚隔てた向こうから聞き慣れた声がする。
「入れば?」
しずるは思わず息を止めた。
たったそれだけの言葉なのに、張っていた糸が少しゆるむ。返事をする前から、自分がちゃんとここに見つかっていることがわかる声だった。
扉を開けると、朝倉が机の前からこちらを見た。
今日は香坂の姿はない。放送室の中には、乾いた機械のにおいと、夕方の少し青い光があるだけだった。
「……なんでわかったんですか」
しずるがそう言うと、朝倉は肩をすくめる。
「気配」
「それでわかるものですか」
「わかるよ。扉の前でずっと止まってる気配、珍しいし」
珍しい、という言い方に少しだけ引っかかる。
でも否定するほどでもなくて、しずるは扉を閉めた。
「今日、顔色やばい」
朝倉はすぐそう言った。
「そうでもないです」
「そうでもない人の顔じゃないって」
あっさり返される。
しずるは言い返しかけて、やめた。ここへ来た時点で、平気ではないと認めているようなものだ。
「座れば」
朝倉が向かいの椅子を足で軽く引いた。
しずるは黙ってそこへ腰を下ろす。座った瞬間、足元が少しだけ安定した気がした。教室の椅子とも図書室の椅子とも違うのに、不思議とここでは身体の位置が決まりやすい。
机の上には、昼放送の原稿らしい紙の束が置かれている。
朝倉はその一枚を適当に揃えてから、しずるを見た。
「水瀬」
名前を呼ばれる。
それだけで、視界の端にかかっていた薄い膜が少しだけ剥がれた気がした。
肩の力が抜け、呼吸が深くなる。昨日も今日も、何度も確かめてしまった感覚だ。
「……はい」
返事は、自分でも驚くほど自然に出た。
朝倉はしずるの顔を少しだけ眺めてから言う。
「今、ちょっと戻った?」
しずるは机の縁に置いた自分の手を見た。
指先が、さっきよりはっきりして見える。
「……たぶん」
「じゃあ来たの正解」
「別に、それで来たわけじゃ」
反射で否定すると、朝倉は小さく笑った。
「うん、そういうことにしとく」
その軽さに、しずるは少しだけ救われる。
本当に助けを求めに来たのだと、今ここで言葉にしなくていい。朝倉はたぶん、もうわかっている。それでもあえて問い詰めない。
放送室の外では、どこかでチャイムが鳴った。
もうすぐ下校時刻だろう。教室棟のほうから聞こえるざわめきは、扉一枚向こうにあるのに遠かった。
しずるは椅子に座ったまま、小さく息を吐く。
ここへ来たのは偶然ではない。たぶん最初から、自分はこの声を聞きに来ていた。
そのことをまだ口にはできなかったけれど、朝倉に名前を呼ばれた瞬間、足元が現実へ戻る感覚だけは、もうごまかしようがなかった。



