机の前に座っても、しずるはすぐにはノートを閉じられなかった。
白いページの上に、自分の名前だけが薄く残っている気がする。実際には何も書いていないのに、さっき小さく口にした音だけがまだそこに貼りついているようだった。
部屋の中は静かだ。リビングのテレビの音が壁越しに少し聞こえる。母と妹の話し声も、ときどき途切れながら届く。どれも日常の音なのに、自分だけがそこから一枚薄い膜を挟んでいるみたいだった。
しずるはスマートフォンを手に取った。
何を確かめたいのか、自分でもはっきりしているわけではなかった。
けれど何か、目に見える形の証拠がほしかった。今ここにいることを、自分以外にも示してくれるもの。紙でも、画像でも、何でもいいから。
写真アプリを開く。
最初に表示されたのは、先週の図書室当番のあとに撮られた集合写真だった。図書委員が本棚の前に並んでいて、司書教諭が少し端で笑っている。いつ撮ったのかも思い出せる、ごく普通の記念写真だ。
しずるは画面を見つめたまま、指で拡大した。
自分だけ、少し白い。
最初は光の加減だと思った。
窓からの逆光が当たったのかもしれない。画質が荒れているだけかもしれない。そう思って縮小し、もう一枚別の日の写真を開く。文化祭準備で黒板の前に人が集まっている写真。さらにその前の、教室で誰かがふざけて撮ったピンぼけの一枚。
どれも、しずるの輪郭だけが少し薄かった。
人の形はしている。そこに立っていることもわかる。
けれど、視線を少し外したらすぐ背景に溶けそうな曖昧さがある。ほかの生徒は髪の束も制服の皺もはっきり見えるのに、自分だけが一段、焦点の外にいるみたいだった。
「……違う」
思わず小さく呟く。
スマホを持つ手に力が入った。
しずるはさらに画面を拡大した。顔。肩。袖口。
ノイズではない。光の飛び方でもない。自分だけが、妙に軽い。実際にはちゃんと写っているはずなのに、画像の中では“そこにいた痕跡”だけがかろうじて残っているような薄さだ。
次に、スマホの画面を消したまま自分の顔を映してみる。
黒い画面の中に、自分の目元と部屋の明かりがぼんやり重なった。映ってはいる。けれど、少し首を傾けるだけで輪郭が曖昧になる。鏡のほうがましかもしれないと思い、立ち上がってクローゼット脇の姿見の前へ行く。
制服姿の自分が立っている。
そこにいる。
なのに、じっと見ていると、目の焦点が合っているのか自信がなくなる。
肩の線が少し薄い。髪の輪郭が背景の壁紙に溶ける。気のせいだと言い切るには、違和感がはっきりしすぎていた。
しずるはそっと自分の頬に触れた。
皮膚の熱はある。
指先の感触もある。骨の硬さも、耳たぶのやわらかさも、たしかに自分のものだ。
視覚だけが信用できない。身体はここにあるのに、見える像だけが先に薄くなっていく。そのずれが、たまらなく不安だった。
「……いる」
小さく言ってみる。
それから、もう一度。
「いる、はず」
声は部屋の中でちゃんと反響した。
けれど、その言葉が現実を支えてくれる感じはしなかった。自分で言う自分の存在は、思っていたよりずっと頼りない。
そのとき、廊下の向こうから母の声がした。
「しずるー、お風呂入るなら早くしなさい」
しずるははっと顔を上げる。
今度は、少しだけ肩の力が抜けた。
「……はい」
返事をすると、鏡の中の自分の輪郭がほんの少しだけ戻った気がした。
錯覚かもしれない。それでも、誰かに名前を呼ばれた直後だけ、自分がこちら側に引き戻される感覚がある。学校で朝倉の放送を聞いたときほど強くはない。けれど、何もないよりはずっとましだった。
しずるはスマホを持ち直し、もう一度だけ集合写真を見た。
そこにはたしかに自分がいる。
ただ、“ちゃんといる”とは言い切れないだけだ。
証拠がほしかったのに、余計に不安になった。
画面を消す。
黒くなったスマホには、今度は自分の顔ではなく、部屋の天井の明かりだけがはっきり映っていた。
白いページの上に、自分の名前だけが薄く残っている気がする。実際には何も書いていないのに、さっき小さく口にした音だけがまだそこに貼りついているようだった。
部屋の中は静かだ。リビングのテレビの音が壁越しに少し聞こえる。母と妹の話し声も、ときどき途切れながら届く。どれも日常の音なのに、自分だけがそこから一枚薄い膜を挟んでいるみたいだった。
しずるはスマートフォンを手に取った。
何を確かめたいのか、自分でもはっきりしているわけではなかった。
けれど何か、目に見える形の証拠がほしかった。今ここにいることを、自分以外にも示してくれるもの。紙でも、画像でも、何でもいいから。
写真アプリを開く。
最初に表示されたのは、先週の図書室当番のあとに撮られた集合写真だった。図書委員が本棚の前に並んでいて、司書教諭が少し端で笑っている。いつ撮ったのかも思い出せる、ごく普通の記念写真だ。
しずるは画面を見つめたまま、指で拡大した。
自分だけ、少し白い。
最初は光の加減だと思った。
窓からの逆光が当たったのかもしれない。画質が荒れているだけかもしれない。そう思って縮小し、もう一枚別の日の写真を開く。文化祭準備で黒板の前に人が集まっている写真。さらにその前の、教室で誰かがふざけて撮ったピンぼけの一枚。
どれも、しずるの輪郭だけが少し薄かった。
人の形はしている。そこに立っていることもわかる。
けれど、視線を少し外したらすぐ背景に溶けそうな曖昧さがある。ほかの生徒は髪の束も制服の皺もはっきり見えるのに、自分だけが一段、焦点の外にいるみたいだった。
「……違う」
思わず小さく呟く。
スマホを持つ手に力が入った。
しずるはさらに画面を拡大した。顔。肩。袖口。
ノイズではない。光の飛び方でもない。自分だけが、妙に軽い。実際にはちゃんと写っているはずなのに、画像の中では“そこにいた痕跡”だけがかろうじて残っているような薄さだ。
次に、スマホの画面を消したまま自分の顔を映してみる。
黒い画面の中に、自分の目元と部屋の明かりがぼんやり重なった。映ってはいる。けれど、少し首を傾けるだけで輪郭が曖昧になる。鏡のほうがましかもしれないと思い、立ち上がってクローゼット脇の姿見の前へ行く。
制服姿の自分が立っている。
そこにいる。
なのに、じっと見ていると、目の焦点が合っているのか自信がなくなる。
肩の線が少し薄い。髪の輪郭が背景の壁紙に溶ける。気のせいだと言い切るには、違和感がはっきりしすぎていた。
しずるはそっと自分の頬に触れた。
皮膚の熱はある。
指先の感触もある。骨の硬さも、耳たぶのやわらかさも、たしかに自分のものだ。
視覚だけが信用できない。身体はここにあるのに、見える像だけが先に薄くなっていく。そのずれが、たまらなく不安だった。
「……いる」
小さく言ってみる。
それから、もう一度。
「いる、はず」
声は部屋の中でちゃんと反響した。
けれど、その言葉が現実を支えてくれる感じはしなかった。自分で言う自分の存在は、思っていたよりずっと頼りない。
そのとき、廊下の向こうから母の声がした。
「しずるー、お風呂入るなら早くしなさい」
しずるははっと顔を上げる。
今度は、少しだけ肩の力が抜けた。
「……はい」
返事をすると、鏡の中の自分の輪郭がほんの少しだけ戻った気がした。
錯覚かもしれない。それでも、誰かに名前を呼ばれた直後だけ、自分がこちら側に引き戻される感覚がある。学校で朝倉の放送を聞いたときほど強くはない。けれど、何もないよりはずっとましだった。
しずるはスマホを持ち直し、もう一度だけ集合写真を見た。
そこにはたしかに自分がいる。
ただ、“ちゃんといる”とは言い切れないだけだ。
証拠がほしかったのに、余計に不安になった。
画面を消す。
黒くなったスマホには、今度は自分の顔ではなく、部屋の天井の明かりだけがはっきり映っていた。



