その日は、放送室を出てからも足取りが少し軽かった。
校門を抜けるころにはもう空が暗くなりはじめていて、住宅街の窓にはいくつも灯りがともっていた。秋の終わりの空気は薄く冷たいのに、胸の奥だけはまだ、放送室の乾いたあたたかさを覚えている。
また明日。
朝倉が何でもない顔でそう言った一言が、帰り道のあいだずっと耳の奥に残っていた。
家の玄関を開けると、台所から味噌汁の匂いがした。
油のはねる小さな音と、テレビのバラエティ番組の笑い声が重なっている。いつもの家の音だ。いつもの夕方だ。学校でどれだけ気味の悪いことが起きても、ここへ帰ってくれば多少は薄まる。そう思いたかった。
「ただいま」
しずるが言うと、台所から母の声が返ってきた。
「おかえり。手、洗ってきなさい」
いつも通りの返事だった。
そのことに、しずるはほんの少しだけ安心する。制服の襟元をゆるめ、洗面所で手を洗ってからリビングへ入った。食卓の上には湯気の立つ味噌汁、焼き魚、小鉢が並んでいる。妹はもう椅子に座っていて、テレビを見ながら箸をいじっていた。
そこでしずるは、足を止めた。
食卓に並んでいる箸は二膳だった。
一瞬、意味がわからなかった。
母と妹の分だ、と理解してから、自分の分がないことに気づくまでに少し時間がかかった。皿も二人分の置き方になっている。ご飯茶碗も二つ。まるで最初から、夕食は二人分しか用意されていなかったみたいに、きれいに整っていた。
しずるは立ったまま口を開く。
「……あの」
母が振り向く。
「どうしたの?」
「……箸」
「え?」
「一つ、足りないです」
母は食卓を見て、あら、と軽く目を丸くした。
本当に今気づいた、という顔だった。
「あら、ほんと」
それから悪びれた様子もなく、台所の引き出しを開ける。
「ごめんね、今日ちょっとばたばたしてて」
それだけだった。
しずるは何も言えずに、母が出しかけた箸を受け取る前に、自分で食器棚のほうへ歩いた。茶碗を一つ出し、箸を取り、味噌汁のお椀も並べる。自分の分を足していく動作は慣れているはずなのに、今日はどれも少しずつぎこちなかった。
母は背を向けたまま魚を皿に移している。
妹はテレビから目を離さず、「今日、アイドルの特番あるんだって」と独り言みたいに言った。
まるで、ほんの少し段取りがずれただけみたいだった。
でも違う、としずるは思う。
ただの箸の出し忘れなら、ここまで胸の奥が冷たくならない。
「お兄ちゃん今日遅かったね」
妹がようやくこちらを見た。
その顔は普通だ。学校で隣の席の男子に「いたんだ」と言われたときみたいな違和感はない。だからこそ、最初の数え漏れだけが余計に浮く。
「……図書室の仕事」
「ふうん」
妹はすぐに興味をなくし、またテレビへ視線を戻した。
母が料理を運びながら言う。
「文化祭前で忙しいんでしょう?」
「はい」
「大変ねえ。あんまり無理しないでよ」
「……うん」
返事をしながら椅子に座る。
ようやく三人目として食卓に加わったのに、最初からここにいた感覚が薄い。途中で足された席。途中で思い出された箸。自分の存在が、そんなふうに“あってもなくてもその場は回るもの”として扱われた気がして、喉の奥が少し詰まった。
もちろん母に悪気はない。
そんなことはわかっている。
忙しくて、たまたま忘れただけ。たまたま今日だけ。そう言い聞かせれば済む話だ。しずるだって、昨日までならそうして流していたはずだった。
でも今は、その“たまたま”が昨日の四階とつながってしまう。
食事のあいだ、会話は続いた。
妹が文化祭の出し物の話をして、母が仕事先の人の愚痴を少しだけこぼし、しずるは相槌を打つ。いつもの家だ。いつもの夜だ。
それなのに、自分だけが食卓の縁に座っているみたいだった。会話の輪の中心には最初から二人しかおらず、自分は必要に応じてそこへ足されるだけ。そういう感覚が、今日はやけにはっきりしていた。
食べ終わって席を立つとき、母が振り向く。
「食べたらお風呂先入っていいわよ」
「……はい」
それだけ返して、しずるは自室へ戻った。
ドアを閉めた途端、家の中の音が少しだけ遠くなる。ベッドの脇に鞄を置き、机の前に立ったまま、しずるはゆっくり息を吐いた。
最初から数に入っていなかった。
たったそれだけのことが、遅れて胸に刺さる。
学校だけじゃない。家でも。どこにいても。自分は気を抜くと、するりと“いない側”へ落ちていくのかもしれない。
しずるは机の上のノートを開き、何も書かれていないページをしばらく見つめた。
それから、小さく口を開く。
「……水瀬しずる」
自分の名前を、自分で呼んでみる。
声はちゃんと出た。部屋の中にちゃんと響いた。けれど、それだけでは少しも安心できなかった。
誰かに呼ばれたときのほうが、自分はずっとはっきりしていた。
その事実のほうが、箸が一膳足りなかったことより、ずっと怖かった。
校門を抜けるころにはもう空が暗くなりはじめていて、住宅街の窓にはいくつも灯りがともっていた。秋の終わりの空気は薄く冷たいのに、胸の奥だけはまだ、放送室の乾いたあたたかさを覚えている。
また明日。
朝倉が何でもない顔でそう言った一言が、帰り道のあいだずっと耳の奥に残っていた。
家の玄関を開けると、台所から味噌汁の匂いがした。
油のはねる小さな音と、テレビのバラエティ番組の笑い声が重なっている。いつもの家の音だ。いつもの夕方だ。学校でどれだけ気味の悪いことが起きても、ここへ帰ってくれば多少は薄まる。そう思いたかった。
「ただいま」
しずるが言うと、台所から母の声が返ってきた。
「おかえり。手、洗ってきなさい」
いつも通りの返事だった。
そのことに、しずるはほんの少しだけ安心する。制服の襟元をゆるめ、洗面所で手を洗ってからリビングへ入った。食卓の上には湯気の立つ味噌汁、焼き魚、小鉢が並んでいる。妹はもう椅子に座っていて、テレビを見ながら箸をいじっていた。
そこでしずるは、足を止めた。
食卓に並んでいる箸は二膳だった。
一瞬、意味がわからなかった。
母と妹の分だ、と理解してから、自分の分がないことに気づくまでに少し時間がかかった。皿も二人分の置き方になっている。ご飯茶碗も二つ。まるで最初から、夕食は二人分しか用意されていなかったみたいに、きれいに整っていた。
しずるは立ったまま口を開く。
「……あの」
母が振り向く。
「どうしたの?」
「……箸」
「え?」
「一つ、足りないです」
母は食卓を見て、あら、と軽く目を丸くした。
本当に今気づいた、という顔だった。
「あら、ほんと」
それから悪びれた様子もなく、台所の引き出しを開ける。
「ごめんね、今日ちょっとばたばたしてて」
それだけだった。
しずるは何も言えずに、母が出しかけた箸を受け取る前に、自分で食器棚のほうへ歩いた。茶碗を一つ出し、箸を取り、味噌汁のお椀も並べる。自分の分を足していく動作は慣れているはずなのに、今日はどれも少しずつぎこちなかった。
母は背を向けたまま魚を皿に移している。
妹はテレビから目を離さず、「今日、アイドルの特番あるんだって」と独り言みたいに言った。
まるで、ほんの少し段取りがずれただけみたいだった。
でも違う、としずるは思う。
ただの箸の出し忘れなら、ここまで胸の奥が冷たくならない。
「お兄ちゃん今日遅かったね」
妹がようやくこちらを見た。
その顔は普通だ。学校で隣の席の男子に「いたんだ」と言われたときみたいな違和感はない。だからこそ、最初の数え漏れだけが余計に浮く。
「……図書室の仕事」
「ふうん」
妹はすぐに興味をなくし、またテレビへ視線を戻した。
母が料理を運びながら言う。
「文化祭前で忙しいんでしょう?」
「はい」
「大変ねえ。あんまり無理しないでよ」
「……うん」
返事をしながら椅子に座る。
ようやく三人目として食卓に加わったのに、最初からここにいた感覚が薄い。途中で足された席。途中で思い出された箸。自分の存在が、そんなふうに“あってもなくてもその場は回るもの”として扱われた気がして、喉の奥が少し詰まった。
もちろん母に悪気はない。
そんなことはわかっている。
忙しくて、たまたま忘れただけ。たまたま今日だけ。そう言い聞かせれば済む話だ。しずるだって、昨日までならそうして流していたはずだった。
でも今は、その“たまたま”が昨日の四階とつながってしまう。
食事のあいだ、会話は続いた。
妹が文化祭の出し物の話をして、母が仕事先の人の愚痴を少しだけこぼし、しずるは相槌を打つ。いつもの家だ。いつもの夜だ。
それなのに、自分だけが食卓の縁に座っているみたいだった。会話の輪の中心には最初から二人しかおらず、自分は必要に応じてそこへ足されるだけ。そういう感覚が、今日はやけにはっきりしていた。
食べ終わって席を立つとき、母が振り向く。
「食べたらお風呂先入っていいわよ」
「……はい」
それだけ返して、しずるは自室へ戻った。
ドアを閉めた途端、家の中の音が少しだけ遠くなる。ベッドの脇に鞄を置き、机の前に立ったまま、しずるはゆっくり息を吐いた。
最初から数に入っていなかった。
たったそれだけのことが、遅れて胸に刺さる。
学校だけじゃない。家でも。どこにいても。自分は気を抜くと、するりと“いない側”へ落ちていくのかもしれない。
しずるは机の上のノートを開き、何も書かれていないページをしばらく見つめた。
それから、小さく口を開く。
「……水瀬しずる」
自分の名前を、自分で呼んでみる。
声はちゃんと出た。部屋の中にちゃんと響いた。けれど、それだけでは少しも安心できなかった。
誰かに呼ばれたときのほうが、自分はずっとはっきりしていた。
その事実のほうが、箸が一膳足りなかったことより、ずっと怖かった。



