放課後、四階の音は名前を呼ぶ

 文化祭前の放課後は、学校全体が少し浮き足立っている。

 廊下には色紙の切れ端が落ち、教室の前を通るたびに、段ボールを引きずる音や笑い声が漏れてきた。どこかのクラスでは模造紙を広げていて、絵の具のにおいが廊下まで流れている。階段の踊り場では、飾りつけ用の星を抱えた生徒たちが、ぶつかりそうになりながら小走りで駆け上がっていった。

 そんな騒がしさの中を、水瀬しずるは胸の前に資料の束を抱えて歩いていた。

 図書室の司書教諭に、特別棟の倉庫へ戻しておいてほしいと頼まれたのだ。断る理由は特になかったし、断るほどのことでもないと思った。しずるは昔から、そういう頼まれごとを断るのが苦手だった。嫌ではない。けれど積極的に引き受けたいわけでもない。ただ、断るために言葉を探すくらいなら、受け取ってしまったほうが早いのだ。

 特別棟へ続く渡り廊下に出たところで、背後の喧騒が少し遠のいた。

 窓の外では、グラウンドの隅で運動部がまだ走っている。吹奏楽部の音もかすかに聞こえた。けれど、特別棟の入口をくぐった瞬間、それらは厚いガラス越しの音みたいに鈍くなる。古い校舎特有の、乾いたにおいがした。ワックスの薄くなった床板と、長く閉め切られていた部屋の空気が混じったようなにおいだ。

 しずるは腕の中の資料を抱え直した。

 この棟は嫌いではない。静かだから。図書室に似た空気もある。けれど、放課後の特別棟は、静かすぎることがある。人のいない教室が並んでいるだけなのに、見られているような気配がふと首筋をなぞることがあった。

 気のせいだ、としずるは思う。

 窓から差し込む夕方の光が、廊下を長く白く照らしていた。歩くたびに足音が反響する。自分の音なのに、半拍遅れて後ろからついてくるみたいで落ち着かない。

 二階、三階と上がるにつれて、校内の音はますます薄くなった。

 四階に着くと、そこには使われていない教室が並んでいた。扉のプレートはどれも古びていて、文字の一部が擦れて消えている。視聴覚教材室、美術倉庫、音楽準備室。壁には何年も前のまま色褪せた掲示物が残っていて、端がめくれたまま止まっていた。

 しずるは一度、廊下の奥まで目をやった。

 誰もいない。

 それなのに、四階だけ空気がよどんでいる気がした。夏でもないのに、ここだけ少し湿っているような、呼吸がひとつ浅くなるような感覚。抱えている資料の角が腕に食い込む。早く戻して、図書室に帰ろう。そう思って歩き出しかけたとき、突き当たりにある音楽準備室の扉が、ほんの少しだけ開いているのに気づいた。

 半開き、というほどでもない。人ひとり通れる隙間もないくらい、わずかな開き方だった。

 こんな時間に、誰かいるのだろうか。

 しずるは足を止めた。

 たぶん、誰かが閉め忘れただけだ。先生か、生徒か、用具の出し入れをしたまま。そう思えばそれで済むことだった。けれど、開いた隙間の向こうだけが妙に暗い。窓からの光が届いていないわけではないのに、そこだけ廊下から切り離されたみたいに沈んで見えた。

 資料を倉庫へ戻すのが先だ、としずるは自分に言い聞かせる。

 一歩、踏み出す。

 そのとき、音楽準備室の向こうから、誰かが息をひそめたような気がした。

 しずるはもう一度、足を止めた。