「やがて世界は通貨を通して一つの競い合いを始める。『俗姓筋目にも構わず、ただ金銀が町人の氏系図になるぞかし』だ」
佐伯翁は、ゆっくりと言った。
「金の流れを制する者が、物の流れを制する。物の流れを制する者が、人の暮らしを左右する。武で負けずとも、商いで膝を折らされる国もあろう。条約で名を奪われずとも、銭で魂を削られる国もあろう」
座敷に、重い沈黙が落ちた。
「儂と、先に御薨去された姫宮の人生のあった、この国を……儂の愛した人々を。子を、孫を、そしてこれから生まれる者たちを。今後も守るために、経世済民の長く続くことだけが、最後の願いだ」
経世済民。
世の理を読み、その流れを経めて、民を済うこと。
此れよりの世、人の上に立つ者にこそ求められる資質である。
国が富めば、臣民もまた富むからだ。
佐伯翁は、東風を見た。
「殿下。あなたは、いずれこの国の頂に上られる」
「まだ、遠い話です」
「遠い話のうちから、考えておくものです。最高権威者として立たれてから考え始めたのでは、もう遅い」
老翁は、少しだけ笑った。
東風は答えなかった。
ただ深く、静かに頭を下げた。
次に佐伯翁は、紬路を見た。
「紬路姫」
「はい」
「あなたは、落ちこぼれなどではなかった。異能なしと東宮妃候補から見限られてよい姫では、決してなかったのです」
佐伯翁は、穏やかに言った。
「……わたくし一人の力ではございません」
咄嗟に守りたいと思った。
佐伯翁との縁。
文子との縁。
そして、此処まで紬路を支えてくれた人々との縁。
何を契機に、あの異能が発動したのかは判らない。
けれど、一人で辿り着いた力ではなかった。
誰かが手を貸してくれた。
誰かが見守ってくれた。
誰かが信じてくれた。
その一つ一つが、今の紬路を形作っている。
「だからよいのです。物事には多くの協力者が必要です」
佐伯翁の響きは、僅かに掠れていた。
それでも、その一語一語は、はっきりと紬路の胸に届いた。
「佐伯の両替大蔵の帰り、あなたとの会話後、殿下より遣わされた御使者から打診を頂いたのです。――あの姫を、後見してはくれまいか、と」
紬路は、息を忘れた。
両替大蔵。
耳慣れぬ言葉ではない。
だが、佐伯家に広く手形を発行していた顔もあったなどとは、思いもよらぬことだった。
大名華族でありながら、公家華族を差し置いて太政大臣にまで上った家。
その不可思議さの理由が、今になって漸く見えた気がした。
「偶さかお会いした日の儂らの会話は、すぐ殿下のお耳に入ったようです」
そこまで言って、翁は深く息を吐いた。
「儂は喜んでお受けしました。けれど、ただお匿いするだけでは、あなたの為にならぬとも思うた」
「……わたくしのために?」
「ええ。あなたは布を見れば、人の望む姿を見抜く。言葉を交わせば、心の滞りを見抜く。品の値ばかりでなく、それを求める者の立場、面子、先々の使い道まで見ておいでだった」
翁の目蓋が、懐かしむように細められる。
「既に審美眼をお持ちだったのです。……ならば隠して守るより、見世へ立って頂き、人と品と銭の流れの中に身を置いて頂いたほうがよい、と」
紬路は、言葉を失った。
つつ屋に張り合いというものを思い出させてもらった日々。
反物を広げ、客の迷いを聞き、帯と着物と心の釣り合いを見た。
それは、ただ行き場を与えられた時間ではなかった。
佐伯翁は初めから、紬路の中にあった隠れた力を育てて国に活かすため、あの場所へ据えてくれていたのだ。
「あなたは、東宮殿下の隣に飾られる姫ではない。人と品と国の流れを見定め、共に立てる器をお持ちだった。儂は、それを少しばかり早く見つけただけです」
その言葉は、ただ褒められているのとは違った。
俯いていた頃の自分まで、静かに掬い上げられているようだった。
気付かぬところで多くの人に支えられ、見届けられていたのだ。
「紬路妃殿下」
佐伯翁は、祈りを込めるように、二人を見た。
「東宮殿下と手を取り合い、この国を経世済民の強い国にしてはくれまいか」
東風が、そっと隣に立つ。
二人の袖は触れるほど近い。
隣に立つことを許されるだけではない。
既に、共に歩むことを求められている距離だった。
縁談が途絶え、嫁かず後家になるしかないと思っていた。
異能なしと嗤われ、姉のようにはなれぬと、心の底では僻んでもいた。
けれど反物を手に取ったあの日から、道は少しずつ開けていた。
商いは、紬路を救った。
東風の寵愛を卑屈にならずに受け取れた。
そして今、佐伯翁はその道を、この国の未来へ繋げようとしている。
紬路は膝を正した。
隣で東風も静かに姿勢を改める。
恋した青年と、国を背負う皇子とが、漸く一つの姿として、紬路の中で融け合い始めていた。
「謹んで」
紬路は、はっきりと言った。
「尚彰殿下と共に、お受けいたします」
「翁。必ずや、あなたの心残りを、我らの務めといたします。紬路姫と共に」
東風も続けた。
佐伯翁の顔に、深い安堵が広がった。
「ならば、儂ももう少しだけ生きねばならんな。欲のない商人ほど、頼りにならぬものはない。姿勢を見せねばならん」
その言葉に、紬路は深く頭を下げた。
佐伯翁は、ゆっくりと言った。
「金の流れを制する者が、物の流れを制する。物の流れを制する者が、人の暮らしを左右する。武で負けずとも、商いで膝を折らされる国もあろう。条約で名を奪われずとも、銭で魂を削られる国もあろう」
座敷に、重い沈黙が落ちた。
「儂と、先に御薨去された姫宮の人生のあった、この国を……儂の愛した人々を。子を、孫を、そしてこれから生まれる者たちを。今後も守るために、経世済民の長く続くことだけが、最後の願いだ」
経世済民。
世の理を読み、その流れを経めて、民を済うこと。
此れよりの世、人の上に立つ者にこそ求められる資質である。
国が富めば、臣民もまた富むからだ。
佐伯翁は、東風を見た。
「殿下。あなたは、いずれこの国の頂に上られる」
「まだ、遠い話です」
「遠い話のうちから、考えておくものです。最高権威者として立たれてから考え始めたのでは、もう遅い」
老翁は、少しだけ笑った。
東風は答えなかった。
ただ深く、静かに頭を下げた。
次に佐伯翁は、紬路を見た。
「紬路姫」
「はい」
「あなたは、落ちこぼれなどではなかった。異能なしと東宮妃候補から見限られてよい姫では、決してなかったのです」
佐伯翁は、穏やかに言った。
「……わたくし一人の力ではございません」
咄嗟に守りたいと思った。
佐伯翁との縁。
文子との縁。
そして、此処まで紬路を支えてくれた人々との縁。
何を契機に、あの異能が発動したのかは判らない。
けれど、一人で辿り着いた力ではなかった。
誰かが手を貸してくれた。
誰かが見守ってくれた。
誰かが信じてくれた。
その一つ一つが、今の紬路を形作っている。
「だからよいのです。物事には多くの協力者が必要です」
佐伯翁の響きは、僅かに掠れていた。
それでも、その一語一語は、はっきりと紬路の胸に届いた。
「佐伯の両替大蔵の帰り、あなたとの会話後、殿下より遣わされた御使者から打診を頂いたのです。――あの姫を、後見してはくれまいか、と」
紬路は、息を忘れた。
両替大蔵。
耳慣れぬ言葉ではない。
だが、佐伯家に広く手形を発行していた顔もあったなどとは、思いもよらぬことだった。
大名華族でありながら、公家華族を差し置いて太政大臣にまで上った家。
その不可思議さの理由が、今になって漸く見えた気がした。
「偶さかお会いした日の儂らの会話は、すぐ殿下のお耳に入ったようです」
そこまで言って、翁は深く息を吐いた。
「儂は喜んでお受けしました。けれど、ただお匿いするだけでは、あなたの為にならぬとも思うた」
「……わたくしのために?」
「ええ。あなたは布を見れば、人の望む姿を見抜く。言葉を交わせば、心の滞りを見抜く。品の値ばかりでなく、それを求める者の立場、面子、先々の使い道まで見ておいでだった」
翁の目蓋が、懐かしむように細められる。
「既に審美眼をお持ちだったのです。……ならば隠して守るより、見世へ立って頂き、人と品と銭の流れの中に身を置いて頂いたほうがよい、と」
紬路は、言葉を失った。
つつ屋に張り合いというものを思い出させてもらった日々。
反物を広げ、客の迷いを聞き、帯と着物と心の釣り合いを見た。
それは、ただ行き場を与えられた時間ではなかった。
佐伯翁は初めから、紬路の中にあった隠れた力を育てて国に活かすため、あの場所へ据えてくれていたのだ。
「あなたは、東宮殿下の隣に飾られる姫ではない。人と品と国の流れを見定め、共に立てる器をお持ちだった。儂は、それを少しばかり早く見つけただけです」
その言葉は、ただ褒められているのとは違った。
俯いていた頃の自分まで、静かに掬い上げられているようだった。
気付かぬところで多くの人に支えられ、見届けられていたのだ。
「紬路妃殿下」
佐伯翁は、祈りを込めるように、二人を見た。
「東宮殿下と手を取り合い、この国を経世済民の強い国にしてはくれまいか」
東風が、そっと隣に立つ。
二人の袖は触れるほど近い。
隣に立つことを許されるだけではない。
既に、共に歩むことを求められている距離だった。
縁談が途絶え、嫁かず後家になるしかないと思っていた。
異能なしと嗤われ、姉のようにはなれぬと、心の底では僻んでもいた。
けれど反物を手に取ったあの日から、道は少しずつ開けていた。
商いは、紬路を救った。
東風の寵愛を卑屈にならずに受け取れた。
そして今、佐伯翁はその道を、この国の未来へ繋げようとしている。
紬路は膝を正した。
隣で東風も静かに姿勢を改める。
恋した青年と、国を背負う皇子とが、漸く一つの姿として、紬路の中で融け合い始めていた。
「謹んで」
紬路は、はっきりと言った。
「尚彰殿下と共に、お受けいたします」
「翁。必ずや、あなたの心残りを、我らの務めといたします。紬路姫と共に」
東風も続けた。
佐伯翁の顔に、深い安堵が広がった。
「ならば、儂ももう少しだけ生きねばならんな。欲のない商人ほど、頼りにならぬものはない。姿勢を見せねばならん」
その言葉に、紬路は深く頭を下げた。



