夜が明ける頃、六条別邸の端正な庭に白い光が差した。
霜の降りた枝が、朝陽を受けてときどき光を返す。
昨日まで宮中を覆っていた陰謀の霞が、少しずつ晴れていく。
やがて、医師が部屋から出て来た。
「ご容体は落ち着かれました。四半刻ほどならば」
「四半刻……」
紬路が呟くと、医師は静かに肯じた。
それぞれが短い仮眠を取り、再び様子を見に集まるうちに昼近くになっていた。
「十五分程にございます。くれぐれも、長居なさらぬよう」
東風はその言葉を受け止め、紬路の方を見る。
「参りましょう」
二人は、佐伯翁の部屋へ入った。
室内は静かだった。
薬湯の匂いが強い。
障子越しに差す冬の光が、寝所の縁を淡く照らしていた。
佐伯翁は、褥の上に半身を起こしていた。
頬は痩せ、顔色もまだ戻りきってはいない。
けれど、その目には、いつもの穏やかな知恵の光が宿っていた。
「おお、東宮殿下。紬路姫」
「ご無理を、なさらないでください」
紬路は思わずそう言った。
今はもう入侍した身であり、東風の正体も知っている。
このようなときに、重ねて気を遣わせたくなかった。
佐伯翁は、起き上がっているだけでも苦しげに見えた。
「これで一件落着しそうですな」
それでも翁は息を深く整え、目元だけで笑ってみせた。
ふと、別の疑問が胸を過る。
撫子は、一体誰に皇統を移そうとしていたのか。
だが、その答えを今ここで求める必要はない。
思考を一つ脇へ置き、病床の老翁に向き直る。
「翁、まだ油断はできません。どうか、御身を第一になさってください」
東風が、言葉を掛けた。
佐伯翁は、二人の顔を見比べて満足そうに微笑んだ。
「儂は……臣籍降嫁された姫宮さまを頂いて、一の位にも上りつめた。存外に、幸せな人生だった」
弱った息の底に、消えぬ誇りがあった。
誰かと共に歩み、国の中枢に身を置き、藩塀たらんとして来た者の自負。
自らの栄達を誇るものではない。
その年月全てへ、深く頭を垂れるような響きだ。
「二人の息子にも恵まれて、それぞれ右大臣、左大臣家の礎となっておる。親として、これ以上のことがあろうか」
「では猶のこと。その幸せをまだ長くお守りください」
「儂の人生に心残りはない」
佐伯翁はそう言ってから、僅かに息を置いた。
「……と言いたいが、どんなに長く生きても、望みは尽きぬものです」
紬路は、黙ってその言葉を聞いた。
佐伯翁は上半身を起こしたまま、視線を部屋の外へ向ける。
六条の庭ではない。
もっと遠いところを見ている目だった。
海の向こう。
まだ見ぬ外つ国の港。
人と荷で賑わう市場。
絹や反物が、新しい名で取引されていく場所。
老いた身はこの部屋にあっても、その眼差しだけは、まだ国の先へ届こうとしていた。
「外つ国と対等に付き合い、商いを通じて販路を増やさなくてはならない」
その視野の広さに、紬路は思わず息を詰めた。
反物一反の向こうに、養蚕の家を見た。
繰糸の場を見た。
針子の手を見た。
けれど佐伯翁は、その更に先を見ている。
港。
市場。
国と国との取り引き。
民の暮らしそのもの。
商いとは、見世の中で物を売ることだけではないのだ。
「国は、刀と戦いだけでは守れぬ。異能や祈りだけでも、血筋だけでも守れぬ」
刀で斬れるものは限られている。
異能も、祈りも万能の力ではない。
腹を空かせた民の明日の糧にはならない。
「民が飢えず、職を持ち、物が巡り、銭が巡り、外へ売るものを持ち、内へ取り入れる知恵を持ってこそ守られる」
東風の眸が、静かに深まる。
それは政の言葉だった。
けれど紬路には、不思議と遠い話には聞こえなかった。
絹を選び、客の心を読み、つつ屋で一反を売って来た日々の延長に聞こえたからだ。
霜の降りた枝が、朝陽を受けてときどき光を返す。
昨日まで宮中を覆っていた陰謀の霞が、少しずつ晴れていく。
やがて、医師が部屋から出て来た。
「ご容体は落ち着かれました。四半刻ほどならば」
「四半刻……」
紬路が呟くと、医師は静かに肯じた。
それぞれが短い仮眠を取り、再び様子を見に集まるうちに昼近くになっていた。
「十五分程にございます。くれぐれも、長居なさらぬよう」
東風はその言葉を受け止め、紬路の方を見る。
「参りましょう」
二人は、佐伯翁の部屋へ入った。
室内は静かだった。
薬湯の匂いが強い。
障子越しに差す冬の光が、寝所の縁を淡く照らしていた。
佐伯翁は、褥の上に半身を起こしていた。
頬は痩せ、顔色もまだ戻りきってはいない。
けれど、その目には、いつもの穏やかな知恵の光が宿っていた。
「おお、東宮殿下。紬路姫」
「ご無理を、なさらないでください」
紬路は思わずそう言った。
今はもう入侍した身であり、東風の正体も知っている。
このようなときに、重ねて気を遣わせたくなかった。
佐伯翁は、起き上がっているだけでも苦しげに見えた。
「これで一件落着しそうですな」
それでも翁は息を深く整え、目元だけで笑ってみせた。
ふと、別の疑問が胸を過る。
撫子は、一体誰に皇統を移そうとしていたのか。
だが、その答えを今ここで求める必要はない。
思考を一つ脇へ置き、病床の老翁に向き直る。
「翁、まだ油断はできません。どうか、御身を第一になさってください」
東風が、言葉を掛けた。
佐伯翁は、二人の顔を見比べて満足そうに微笑んだ。
「儂は……臣籍降嫁された姫宮さまを頂いて、一の位にも上りつめた。存外に、幸せな人生だった」
弱った息の底に、消えぬ誇りがあった。
誰かと共に歩み、国の中枢に身を置き、藩塀たらんとして来た者の自負。
自らの栄達を誇るものではない。
その年月全てへ、深く頭を垂れるような響きだ。
「二人の息子にも恵まれて、それぞれ右大臣、左大臣家の礎となっておる。親として、これ以上のことがあろうか」
「では猶のこと。その幸せをまだ長くお守りください」
「儂の人生に心残りはない」
佐伯翁はそう言ってから、僅かに息を置いた。
「……と言いたいが、どんなに長く生きても、望みは尽きぬものです」
紬路は、黙ってその言葉を聞いた。
佐伯翁は上半身を起こしたまま、視線を部屋の外へ向ける。
六条の庭ではない。
もっと遠いところを見ている目だった。
海の向こう。
まだ見ぬ外つ国の港。
人と荷で賑わう市場。
絹や反物が、新しい名で取引されていく場所。
老いた身はこの部屋にあっても、その眼差しだけは、まだ国の先へ届こうとしていた。
「外つ国と対等に付き合い、商いを通じて販路を増やさなくてはならない」
その視野の広さに、紬路は思わず息を詰めた。
反物一反の向こうに、養蚕の家を見た。
繰糸の場を見た。
針子の手を見た。
けれど佐伯翁は、その更に先を見ている。
港。
市場。
国と国との取り引き。
民の暮らしそのもの。
商いとは、見世の中で物を売ることだけではないのだ。
「国は、刀と戦いだけでは守れぬ。異能や祈りだけでも、血筋だけでも守れぬ」
刀で斬れるものは限られている。
異能も、祈りも万能の力ではない。
腹を空かせた民の明日の糧にはならない。
「民が飢えず、職を持ち、物が巡り、銭が巡り、外へ売るものを持ち、内へ取り入れる知恵を持ってこそ守られる」
東風の眸が、静かに深まる。
それは政の言葉だった。
けれど紬路には、不思議と遠い話には聞こえなかった。
絹を選び、客の心を読み、つつ屋で一反を売って来た日々の延長に聞こえたからだ。



