ふいに御簾の向こうで、何かが倒れる音がした。
続いて、荒い息遣い。
衣を引きずる音。
閉ざしていた遣戸が、外から乱暴に引かれる。
木の軋みが走った直後、制止する女房の悲鳴が途中で断ち切られた。
次の瞬間、撫子が飛び込んで来た。
結い上げた筈の黒髪が幾筋も頬に張りついている。
それでも猶、撫子は美しかった。
美しいからこそ、その崩れ方が、見る者の息を詰まらせるほど痛々しい。
その腕には、錦に包まれた重みが抱えられていた。
濃い紫の御袱紗の間から、鏡の縁らしき冷たい光が僅かに覗く。
足元には、空になった長い箱が転がっている。
剣を納めるものだと、ひと目で知れた。
小さな唐櫃の紐も解けかけていた。
割れた蓋の隙間から、勾玉を連ねたような翡翠が、青く覗いている。
乳姉妹と思しき女房が、その後ろから縋るように現れた。
その面は青ざめている。
二人がかりでなければ、神器を持ち出すことは到底適わなかったのだろう。
「紬路――ッ」
撫子は、名を裂くように呼んだ。
掠れた響きの底に、燃え尽きぬ憎しみだけが残っている。
「あなただけは許さない」
「……わたくしが、何をしたと?」
「うるさいわッ!」
撫子の唇が顫える。
次の瞬間、その言葉は、もう形を保たなかった。
「うるさい! うるさい!」
「撫子ッ」
名を呼ばれても、撫子は止まらない。
内側で、支えていたものが音もなく崩れ落ちていく。
怒りか、嫉妬か、悔しさか。
もはや本人にすら判別できないのだろう。
「どうして……どうして、あなたなの」
唇の端から、独り言のように漏れる。
「わたくしが選ばれる筈だったのに。……だから、わたくしがお兄様に渡すのよ」
周囲の空気が、ひやりと強張った。
「婚儀を結び、皇統を……」
そこまで言って、撫子ははっと口を閉ざした。
もう遅い。
語られる筈のなかった企ては、確かに独白としてその場へ落ちていた。
神器を渡し、婚儀によって血筋を移す。
皇統そのものを奪おうとする言葉だった。
皇位簒奪だ。
文子が、紬路の背後から袖を広げて前へ出た。
皇統を害す算段があるのなら、東宮妃たる親友も危ないと見たのだ。
その背は大きくはない。
けれど、逃げぬ決心をした静かな強さがあった。
撫子は初め、その男装束を纏う者が誰か判らなかったようだ。
目を凝らした瞬間、撫子の目が見開かれる。
「……文子!!」
名を呼ぶ声には、硬い怒りが混じっていた。
紬路へ向ける憎悪以上のものだ。
女学校の中庭。密やかな噂。
すれ違いざまに交わした笑み。
古い空気が、三人の間に一瞬だけ蘇った。
「へぇ。あなたも入内でもしたの」
撫子は、歪んだ笑みを浮かべた。
その視線が、文子の陰陽衣を舐めるように辿る。
「嘘よ、聞いてるわ。大変な評判だそうじゃない。あなたの洞見の異能」
「撫子……」
「うるさいのよッ」
撫子は、剣を持ち上げた。
その拍子に鏡を包んだ布がずれ、丸い光が部屋の壁を走る。
「そうか。お前が先を見て、注進して回っていたのね。道理で」
撫子は、腑に落ちたように目を細めた。
「紬路が入侍する前から、東宮を挿げ替えておけたのも。こちらが標的を変える度、一緒に練った計画が狂っていったのも。……全部、お前が居たからなんだわ」
長く絡まっていた不首尾の糸が、文子の名へ結び直されていく。
その得心は慰めとは程遠く、憎しみだけをありありと形にしていた。
「全部、お前の所為だったんだわ。出会ったときから、わたくしの天敵だった」
「……自業自得の逆恨みよ」
「おのれ文子、絶対に許さないわ。末代まで祟ってやる」
文子の肩が、ひくりと強張った。
けれど、紬路の前から退くことはなかった。
顫えを呑み込むように息を整え、撫子を正面から見据える。
「どうして、神器を……」
その問いは、責めるというより祈りに近かった。
まだ引き返せる場所が、どこかに残っている。
文子は、そう信じるに足る場所を探しているようだった。
撫子は笑った。
笑いながら、泣いているようにも見えた。
剣を握る指は白く、もう解き方を忘れた結び目のように強張っている。
「帝でも東宮でも、どちらだって構わなかったわ。妃になりたかっただけよ!」
「……あさましいわ」
文子の言葉が落ちた。
錆びついているとはいえ、抜き身の剣を前にしているというのに、退く気配はない。
「そんなことのために……翁を……」
六条別邸の門口に立つ、佐伯翁の姿が浮かぶ。
謀叛の罪を着せられた父に代わって、婚儀へ送り出してくれた人。
何もかもを知った上で、最後には必ず笑ってくれた人だった。
「異能も後ろ盾もない娘が、何をどうして東宮妃に立ったというの」
撫子が吐き捨てた。
「何なの、あなた。妃候補から落ちて……見世に立って、商人の真似事までして。……そんな姫が、どうして宮中に」
紬路は、剣の切先ではなく、その目を見た。
歪め、奪い、従わせることしか知らぬ目だった。
「信じてくださった方々の目を、わたくしは裏切りません」
声は、不思議なほど顫えなかった。
「見世に立てば、最早誰もわたくしを姫とは呼ばなかった。――それでも、あなたのように人の心を奪って、高い場所へ上がろうとは思わなかった」
一歩、畳を踏む。
「反物を選ぶことは、人の暮らしを預かることです。袖を通す日を思い、その人の行く先を思う。わたくしはそうして信頼を積み重ねただけ。――異能などなくとも、人と人は結ばれてゆくのです」
紬路が自分の足で立つために、渡された細い糸。
その糸を垂らして紬路を救ってくれたのは、佐伯翁だった。
その笑みが、不意に遠ざかる。
手を伸ばしても届かぬ場所へ、連れ去られていくように。
否。
遠ざかったのではない。
――紬路の内側へ、沈み込んだ。
身体の奥で、何かが開き始める。
言葉にならぬものが、深い水底から浮かび上がった。
自分のものではない記憶が、指先を伝い、血の奥へ流れ込んで来る。
古い香の匂い、冷えた畳。
閉じた瞼の裏に残る、赤く歪んだ咒いの人形。
そして、穏やかな老いの気配を帯びた言葉が、喉の奥から迫り上がる。
それは確かに、佐伯翁のものだった。
続いて、荒い息遣い。
衣を引きずる音。
閉ざしていた遣戸が、外から乱暴に引かれる。
木の軋みが走った直後、制止する女房の悲鳴が途中で断ち切られた。
次の瞬間、撫子が飛び込んで来た。
結い上げた筈の黒髪が幾筋も頬に張りついている。
それでも猶、撫子は美しかった。
美しいからこそ、その崩れ方が、見る者の息を詰まらせるほど痛々しい。
その腕には、錦に包まれた重みが抱えられていた。
濃い紫の御袱紗の間から、鏡の縁らしき冷たい光が僅かに覗く。
足元には、空になった長い箱が転がっている。
剣を納めるものだと、ひと目で知れた。
小さな唐櫃の紐も解けかけていた。
割れた蓋の隙間から、勾玉を連ねたような翡翠が、青く覗いている。
乳姉妹と思しき女房が、その後ろから縋るように現れた。
その面は青ざめている。
二人がかりでなければ、神器を持ち出すことは到底適わなかったのだろう。
「紬路――ッ」
撫子は、名を裂くように呼んだ。
掠れた響きの底に、燃え尽きぬ憎しみだけが残っている。
「あなただけは許さない」
「……わたくしが、何をしたと?」
「うるさいわッ!」
撫子の唇が顫える。
次の瞬間、その言葉は、もう形を保たなかった。
「うるさい! うるさい!」
「撫子ッ」
名を呼ばれても、撫子は止まらない。
内側で、支えていたものが音もなく崩れ落ちていく。
怒りか、嫉妬か、悔しさか。
もはや本人にすら判別できないのだろう。
「どうして……どうして、あなたなの」
唇の端から、独り言のように漏れる。
「わたくしが選ばれる筈だったのに。……だから、わたくしがお兄様に渡すのよ」
周囲の空気が、ひやりと強張った。
「婚儀を結び、皇統を……」
そこまで言って、撫子ははっと口を閉ざした。
もう遅い。
語られる筈のなかった企ては、確かに独白としてその場へ落ちていた。
神器を渡し、婚儀によって血筋を移す。
皇統そのものを奪おうとする言葉だった。
皇位簒奪だ。
文子が、紬路の背後から袖を広げて前へ出た。
皇統を害す算段があるのなら、東宮妃たる親友も危ないと見たのだ。
その背は大きくはない。
けれど、逃げぬ決心をした静かな強さがあった。
撫子は初め、その男装束を纏う者が誰か判らなかったようだ。
目を凝らした瞬間、撫子の目が見開かれる。
「……文子!!」
名を呼ぶ声には、硬い怒りが混じっていた。
紬路へ向ける憎悪以上のものだ。
女学校の中庭。密やかな噂。
すれ違いざまに交わした笑み。
古い空気が、三人の間に一瞬だけ蘇った。
「へぇ。あなたも入内でもしたの」
撫子は、歪んだ笑みを浮かべた。
その視線が、文子の陰陽衣を舐めるように辿る。
「嘘よ、聞いてるわ。大変な評判だそうじゃない。あなたの洞見の異能」
「撫子……」
「うるさいのよッ」
撫子は、剣を持ち上げた。
その拍子に鏡を包んだ布がずれ、丸い光が部屋の壁を走る。
「そうか。お前が先を見て、注進して回っていたのね。道理で」
撫子は、腑に落ちたように目を細めた。
「紬路が入侍する前から、東宮を挿げ替えておけたのも。こちらが標的を変える度、一緒に練った計画が狂っていったのも。……全部、お前が居たからなんだわ」
長く絡まっていた不首尾の糸が、文子の名へ結び直されていく。
その得心は慰めとは程遠く、憎しみだけをありありと形にしていた。
「全部、お前の所為だったんだわ。出会ったときから、わたくしの天敵だった」
「……自業自得の逆恨みよ」
「おのれ文子、絶対に許さないわ。末代まで祟ってやる」
文子の肩が、ひくりと強張った。
けれど、紬路の前から退くことはなかった。
顫えを呑み込むように息を整え、撫子を正面から見据える。
「どうして、神器を……」
その問いは、責めるというより祈りに近かった。
まだ引き返せる場所が、どこかに残っている。
文子は、そう信じるに足る場所を探しているようだった。
撫子は笑った。
笑いながら、泣いているようにも見えた。
剣を握る指は白く、もう解き方を忘れた結び目のように強張っている。
「帝でも東宮でも、どちらだって構わなかったわ。妃になりたかっただけよ!」
「……あさましいわ」
文子の言葉が落ちた。
錆びついているとはいえ、抜き身の剣を前にしているというのに、退く気配はない。
「そんなことのために……翁を……」
六条別邸の門口に立つ、佐伯翁の姿が浮かぶ。
謀叛の罪を着せられた父に代わって、婚儀へ送り出してくれた人。
何もかもを知った上で、最後には必ず笑ってくれた人だった。
「異能も後ろ盾もない娘が、何をどうして東宮妃に立ったというの」
撫子が吐き捨てた。
「何なの、あなた。妃候補から落ちて……見世に立って、商人の真似事までして。……そんな姫が、どうして宮中に」
紬路は、剣の切先ではなく、その目を見た。
歪め、奪い、従わせることしか知らぬ目だった。
「信じてくださった方々の目を、わたくしは裏切りません」
声は、不思議なほど顫えなかった。
「見世に立てば、最早誰もわたくしを姫とは呼ばなかった。――それでも、あなたのように人の心を奪って、高い場所へ上がろうとは思わなかった」
一歩、畳を踏む。
「反物を選ぶことは、人の暮らしを預かることです。袖を通す日を思い、その人の行く先を思う。わたくしはそうして信頼を積み重ねただけ。――異能などなくとも、人と人は結ばれてゆくのです」
紬路が自分の足で立つために、渡された細い糸。
その糸を垂らして紬路を救ってくれたのは、佐伯翁だった。
その笑みが、不意に遠ざかる。
手を伸ばしても届かぬ場所へ、連れ去られていくように。
否。
遠ざかったのではない。
――紬路の内側へ、沈み込んだ。
身体の奥で、何かが開き始める。
言葉にならぬものが、深い水底から浮かび上がった。
自分のものではない記憶が、指先を伝い、血の奥へ流れ込んで来る。
古い香の匂い、冷えた畳。
閉じた瞼の裏に残る、赤く歪んだ咒いの人形。
そして、穏やかな老いの気配を帯びた言葉が、喉の奥から迫り上がる。
それは確かに、佐伯翁のものだった。



