見世蔵のつつじ姫 〜異能なし令嬢は、東宮さまに溺愛される〜

紬路(つつじ)姫」

 先程まで吉日を告げていた(はず)なのに。
 昭陽北舎の空気は、もう甘やかなものではなくなっていた。

 火影の縁までもが鋭く尖って見える。
 遠く鳴る呼子(よびこ)(ぶえ)の音が騒がしく跳ねていた。

「私は閉門を命じてくる。左近衛(さこんえ)右近衛(うこんえ)も呼びに遣る。文子(あやこ)姫と離れないでください。この北舎に籠もっていなさい」
東風(こち)……」

 呼び止めた声の先が、細く(ほど)けた。

 今は東風(こち)ではなく、殿下とお呼びすべきなのだろう。
 それでも真っ先に唇へ上る名は、やはり東風(こち)だった。

 東風(こち)は振り返った。
 紬路(つつじ)の顔に浮かんだものを見て取ったのか、すぐに歩み寄る。

 肩先へ伸びかけた手が、触れる寸前で止まった。

 代わりに、ほんの(わず)か身を(かが)める。

 先に、息が触れた。
 言葉よりも先に、距離が失われた。

 唇が、重なる。

 深くはない。
 確かめるように、ほんの一瞬だけ。

 それなのに、紬路(つつじ)の時はそこで止まった。
 逃げる間も、戸惑う間もない。
 ただ、触れられたという事実だけが、薄い火のように残る。

 次の瞬間には、もう離れていた。

 東風(こち)は何事もなかったかのように距離を取り、(わず)かに目を伏せる。
 その表情には、先ほどまでの静けさとは違う、押し留めた熱が(にじ)んでいた。

「必ず戻ります」

 それだけを残して、東風(こち)は出て行った。
 衣()れの音が遠ざかるにつれ、昭陽北舎の内は、外界から切り離されたように沈んでゆく。

 命婦(みょうぶ)遣戸(やりど)を引き、蔀戸(しとみど)を下ろす。
 光が一つずつ細り、外の気配が遠ざかった。

 残されたのは、火鉢の炭が()ぜる音と、料紙の上に広がる(くら)い染みだけだった。

 待つということが、これほど恐ろしいものだとは知らなかった。

「大丈夫よ」

 男装束の文子(あやこ)が言った。
 その手が、膝の上で強く握られた紬路(つつじ)の手に優しく重なる。

 女学校の頃、試験の前夜に震えていたときと、どこか似ていた。

「……本当に?」
「ええ。少なくとも、あなたを一人にはしないわ」

 紬路(つつじ)は小さく(うなず)いた。

 外では荒い足音、門を閉じる声、誰何(すいか)する声が行き交い、切迫したやり取りが夜の底を伝って来た。