「……華族令嬢が雑色の者と契られるなど、さぞや不本意でございましょうね」
撫子の心を抉るには十分な言葉だろう。
「けれど、自業自得でございます」
紬路は、冷たい言葉で断じた。
ここで曖昧にすれば、人の心を踏みにじった者に勝機を与えてしまう。
奪われた者たちの痛みまで、また書き換えられてしまう。
「あなたは人の心を奪いました。だから直橘も、あなたを憐れむことさえできなかったのです」
撫子の睫毛が屈辱に顫えている。
「自分は東宮ではない、そこまで騙す気はない、と」
直橘の献身を思いながら、紬路は続けた。
「たとえ身分は雑色であろうとも一人の人間として、本来なら、あなたに言えた筈です」
その自由を奪ったのは撫子自身なのだった。
魅了によって相手の心を縛った瞬間。
憐れみも、躊躇も、拒絶も告白も、全て封じ込めてしまったのだ。
「あなたが縛ったから、彼は黙った。あなたが奪ったから、彼は選べなかった」
紬路は、畳みかけた。
「それでいて、今更、騙されたとお嘆きになるのですか」
「止めて……止めなさいッ!」
「……わたくしは、ただ事実を申し上げているだけでございます」
紬路の目に、ほんの僅か、憐憫が滲んだ。
「だって、あの夜、わたくしは東宮殿下とご一緒していたのですもの」
たとえ白の華燭であることは知られているとしても。
東風が紬路を寵愛していることに、何も変わりはない。
撫子の膝が揺れた。
支えている女房の手に力が籠る。
「……そんな筈はないわッ」
撫子は、とうとう悲鳴に近い声を上げた。
「……そんなに、お悔やみになることかしら」
「何ですって……?」
「あなたが本当にその方をお慕いしていたのなら、その決心を悔いる筈がございません」
撫子の唇が、ひくりと痙攣した。
「たとえ、どんな身分の方であろうと」
何故なら――わたくしは。
東風のために、その道すら考えたことがあるのだ。
最初は、ただの練習相手だった。
手を取られ、導かれるままに歩幅を合わせるだけの、名も知らぬ相手。
けれど、その言葉に、ふと耳を留めた。
その手の確かさに、思いがけず安堵した。
気づけば、園遊会の人波の中でも、知らず知らずのうちにその姿を追っていた。
――それが、恋だとは知らぬままに。
やがて名を知り、立場を知り。
尊い方だと知っても、気持ちは変わらなかった。
たとえ、始めから破滅だと予言されていようとも。
「真に好いていた方がお相手であれば、顔色を失うことはないでしょう」
「黙りなさい……ッ!」
「あなたが欲しかったのは、その方ではない」
撫子の白い指先は血の気が失せ、今にも骨が折れそうな程だった。
「黙れッ!! 最初から東宮妃候補だったあなたに、何が判るの!」
紬路の睫毛が、微かに伏せられた。
候補として名を置かれることと、選ばれ続けることとは違う。
一度落ちた名が、どれほど容易く踏まれるかなら、紬路自身、よく知っていた。
「あなたが欲しかったのは、宮中で誰より高く立つ場所だったのですね」
「そうよ! それで何が悪いの! 顔も知らない相手に嫁がされるのよ。どうせなら」
「そのような縁談はお断りすることもできるのよ。何も死ぬ訣じゃないわ。商いでもして、自立だってできる」
紬路の言葉は、驚くほど冷えていた。
望まぬ縁談への恨みと、人を操る罪とは、同じ秤に載せてよいものではない。
「人を魅了で縛っても、恋にはなりません。名を取り違えたまま契っても、愛にはなりません。あなたは、人と人の心を繋げなかった」
言いながら、紬路は自分の内にあるものをはっきりと知った。
怒りではない。
憎しみでもない。
これは、軽蔑だ。
高い御位に目が眩みながら、愛された心算でいる女への、底冷えのする軽蔑だった。
「ただ奪って、勝ちたかっただけ。縁は奪うものではなく、二人の過ごした何気ない日々のうちに芽生えるものよ」
渡殿の向こうから、誰かの足音が近づいてきた。
それに気づいた撫子は、漸く一歩退く。
退いたところで、もう遅い。
たとえこの場を取り繕ったところで、控えていた女官たちは、今朝のことを話の種にするだろう。
「……紬路」
撫子は去り際に、紬路に凄んでみせた。
その美しい眼の奥には、強い憎しみがあった。
「覚えておいでなさい」
やがて、一団は渡殿の向こうへ消えてゆく。
その足並みは、来た時よりも乱れていた。
残された紬路は、暫く廊に立ち尽くしていた。
冬の風が、御簾の端を微かに揺らす。
撫子の心を抉るには十分な言葉だろう。
「けれど、自業自得でございます」
紬路は、冷たい言葉で断じた。
ここで曖昧にすれば、人の心を踏みにじった者に勝機を与えてしまう。
奪われた者たちの痛みまで、また書き換えられてしまう。
「あなたは人の心を奪いました。だから直橘も、あなたを憐れむことさえできなかったのです」
撫子の睫毛が屈辱に顫えている。
「自分は東宮ではない、そこまで騙す気はない、と」
直橘の献身を思いながら、紬路は続けた。
「たとえ身分は雑色であろうとも一人の人間として、本来なら、あなたに言えた筈です」
その自由を奪ったのは撫子自身なのだった。
魅了によって相手の心を縛った瞬間。
憐れみも、躊躇も、拒絶も告白も、全て封じ込めてしまったのだ。
「あなたが縛ったから、彼は黙った。あなたが奪ったから、彼は選べなかった」
紬路は、畳みかけた。
「それでいて、今更、騙されたとお嘆きになるのですか」
「止めて……止めなさいッ!」
「……わたくしは、ただ事実を申し上げているだけでございます」
紬路の目に、ほんの僅か、憐憫が滲んだ。
「だって、あの夜、わたくしは東宮殿下とご一緒していたのですもの」
たとえ白の華燭であることは知られているとしても。
東風が紬路を寵愛していることに、何も変わりはない。
撫子の膝が揺れた。
支えている女房の手に力が籠る。
「……そんな筈はないわッ」
撫子は、とうとう悲鳴に近い声を上げた。
「……そんなに、お悔やみになることかしら」
「何ですって……?」
「あなたが本当にその方をお慕いしていたのなら、その決心を悔いる筈がございません」
撫子の唇が、ひくりと痙攣した。
「たとえ、どんな身分の方であろうと」
何故なら――わたくしは。
東風のために、その道すら考えたことがあるのだ。
最初は、ただの練習相手だった。
手を取られ、導かれるままに歩幅を合わせるだけの、名も知らぬ相手。
けれど、その言葉に、ふと耳を留めた。
その手の確かさに、思いがけず安堵した。
気づけば、園遊会の人波の中でも、知らず知らずのうちにその姿を追っていた。
――それが、恋だとは知らぬままに。
やがて名を知り、立場を知り。
尊い方だと知っても、気持ちは変わらなかった。
たとえ、始めから破滅だと予言されていようとも。
「真に好いていた方がお相手であれば、顔色を失うことはないでしょう」
「黙りなさい……ッ!」
「あなたが欲しかったのは、その方ではない」
撫子の白い指先は血の気が失せ、今にも骨が折れそうな程だった。
「黙れッ!! 最初から東宮妃候補だったあなたに、何が判るの!」
紬路の睫毛が、微かに伏せられた。
候補として名を置かれることと、選ばれ続けることとは違う。
一度落ちた名が、どれほど容易く踏まれるかなら、紬路自身、よく知っていた。
「あなたが欲しかったのは、宮中で誰より高く立つ場所だったのですね」
「そうよ! それで何が悪いの! 顔も知らない相手に嫁がされるのよ。どうせなら」
「そのような縁談はお断りすることもできるのよ。何も死ぬ訣じゃないわ。商いでもして、自立だってできる」
紬路の言葉は、驚くほど冷えていた。
望まぬ縁談への恨みと、人を操る罪とは、同じ秤に載せてよいものではない。
「人を魅了で縛っても、恋にはなりません。名を取り違えたまま契っても、愛にはなりません。あなたは、人と人の心を繋げなかった」
言いながら、紬路は自分の内にあるものをはっきりと知った。
怒りではない。
憎しみでもない。
これは、軽蔑だ。
高い御位に目が眩みながら、愛された心算でいる女への、底冷えのする軽蔑だった。
「ただ奪って、勝ちたかっただけ。縁は奪うものではなく、二人の過ごした何気ない日々のうちに芽生えるものよ」
渡殿の向こうから、誰かの足音が近づいてきた。
それに気づいた撫子は、漸く一歩退く。
退いたところで、もう遅い。
たとえこの場を取り繕ったところで、控えていた女官たちは、今朝のことを話の種にするだろう。
「……紬路」
撫子は去り際に、紬路に凄んでみせた。
その美しい眼の奥には、強い憎しみがあった。
「覚えておいでなさい」
やがて、一団は渡殿の向こうへ消えてゆく。
その足並みは、来た時よりも乱れていた。
残された紬路は、暫く廊に立ち尽くしていた。
冬の風が、御簾の端を微かに揺らす。



