見世蔵のつつじ姫 〜異能なし令嬢は、東宮さまに溺愛される〜

 その一言で撫子(なでしこ)の呼吸が乱れた。

 指先が、明らかに(ふる)えている。
 隠そうとして(こぶし)を作っているが、力が入りすぎたのか、骨ばった白さが余計に際立っていた。

 後ろの女官たちもまた、揃わぬ動きで(ざわ)めいた。

 遅れて呆然と頷く者。
 笑おうとして笑えない者。
 ただ撫子(なでしこ)の横顔を見つめる者。

「でも、それは、東宮(とうぐう)さまではございません」

 風が、渡殿(わたどの)を抜けた。
 ただ、その場に立つ者全ての耳に、その言葉が残る。

 その者は東宮(とうぐう)ではない、と。

「ち、違うわ」

 撫子(なでしこ)が、(ようや)く言葉を絞り出した。
 その否定はあまりに弱く、自分自身へ言い聞かせているようだった。

「違う、そんな(はず)は……」
「それは、直橘(なおきつ)と申す者です」

 紬路(つつじ)は、あくまで穏やかに告げた。
 責めるのではなく、隠されたものへ正しい名を与えるように。

東宮(とうぐう)殿下とよく似た背格好の、雑色(ぞうしき)の男」

 その瞬間、撫子(なでしこ)の顔から血の気が引いた。

 (ひざ)が折れ、身体が後ろへ(かし)ぐ。
 背後に控えていた乳姉妹(ちきょうだい)と思しき女房が、慌ててその身を支えた。

 それでも、撫子(なでしこ)はまだ紬路(つつじ)を見ている。
 否定したくとも、否定するための言葉がもう見つからないのだ。

「あなたは――」

 紬路(つつじ)は、ほんの(わず)かに息を置いた。

「その雑色(ぞうしき)と、(ちぎ)られたのでしょう」
「……そんなッ」

 控えていた女官の一人が、思わず驚きの声を漏らした。

 その一言には(おそ)れさえも混じっている。
 魅了の効力が完全に解けかけているようだった。

 ()れから撫子(なでしこ)が懐妊したとしても、その御子(みこ)東宮(とうぐう)のお血筋とは言えない。
 それでも魅了の支配下にある限りにおいて、女官たちは皇統簒奪(さんだつ)の証人に仕立てられ兼ねなかった。

 ただの不義密通では済まされず、大罪への加担となる。
 その事実の重大さを悟ったのだろう。

 今や、背後の女官たちは一様に青ざめていた。

 撫子(なでしこ)は、何かを振り払うように首を振る。

「違うわ……違う、あれは……あれは東宮(とうぐう)さま……。黄丹(おうに)の衣が……」

 言葉が崩れていく。

 完璧に整えられていた場が、端から(ほど)け始めた。
 操糸(そうし)者の指が力を失い、吊られていた者たちが一人、また一人と己を取り戻していく。

 後には、頼みとしてきた魅了を失った撫子(なでしこ)の錯乱だけが残った。