見世蔵のつつじ姫 〜異能なし令嬢は、東宮さまに溺愛される〜

 紬路(つつじ)は、目を伏せた。

 恥じ入ったのではない。
 言葉の置き所を、ほんの少し選んだだけだった。

「ええ。……三日夜(みかよ)餅は、届きませんでした」

 撫子(なでしこ)の笑みが深くなる。
 勝ったと信じたい者の顔だった。

「まあァ。何てこと。見つけ次第、折檻(せっかん)してやりませんとね」
「けれど、昨日の朝は後朝(きぬぎぬ)の御文が届きました」

 その瞬間、渡殿(わたどの)の風が止まったように感じられた。
 撫子(なでしこ)の目元から、色が一つ抜ける。

「……き、後朝(きぬぎぬ)の御文?」
「はい。夜が明けるより早くに」

 紬路(つつじ)は、()えて静かに言った。
 事実だけを穏やかに置く方が、よほど逃げ場を奪う。
 女学校で、嫌というほど学んできたことだ。

 元より、紬路(つつじ)は言い返すことに怯む姫ではない。
 先だって店先で受け流したのは、あの場がつつ屋だったからに過ぎなかった。

「随分と早いお文でした。三日目の明けは、わたくしが起きるより先に、もう届けられていたほどで」
「そ、そんな(はず)はッ」

 思わず(こぼ)れた言葉だった。
 撫子(なでしこ)は慌てて袖で口を覆ったが、もう遅い。

 顔色が悪くなり、記憶を繰るように視線が揺れる。
 後ろの女官たちも、互いに顔を見合わせた。

「そんな(はず)、とは?」

 紬路(つつじ)は小首を傾げた。
 問いながら、冷えたものが静かに形を取ってゆく。

 撫子(なでしこ)は、何かを知っている。
 三日夜(みかよ)餅だけではない。
 後朝(きぬぎぬ)の文が届く(はず)がないと信じるだけの理由があるのだ。

「いえ。ただ、……随分(ずいぶん)とお早いことで」
後朝(きぬぎぬ)の文は、早さにこそ想いが現れ(いず)ると聞きました」

 (わず)かに視線を上げる。

「ええ――わたくし、東宮(とうぐう)さまに溺愛されておりますの」

 言い切って、紬路(つつじ)は目を()らさなかった。

 撫子(なでしこ)の頬に、薄い紅が差す。
 怒りか、焦りか。
 袖に添えた白い指が、また(わず)かに(ふる)えた。

共寝(ともね)し、夜()れの後、なお愛しさに満ち足りて、和歌が自然と口をついて()づる。その早さこそが、夜を越えて残る想いの深さを示すもの、と」
「……ご立派な知識ですこと」
「教えて頂いたのです。東宮(とうぐう)さまに。……夜の御殿(おとど)の御帳台の中で、優しく」

 撫子(なでしこ)の表情が、今度こそ崩れた。
 美しく整えられた仮面に、ひびのようなものが走る。

 自分の知っている事実。
 今ここで聞かされた事実。
 それらが噛み合わず、(きし)んでいるようだった。

東宮(とうぐう)さまは……」

 その名を、舌の上で確かめるように繰り返す。
 辻褄の合わぬものに触れた困惑が、はっきりと(にじ)んでいた。

「えぇ」
「……可怪しいわ」

 独り言を取り落としたような、(かす)かな呟きだった。
 冬の朝の渡殿(わたどの)では、聞き逃すには近すぎる。

「何が、可怪しいのでしょう」

 紬路(つつじ)が問うと、撫子(なでしこ)ははっと顔を上げた。
 その目には、先程までの余裕がない。

「な、何でもありませんわ。ただ、三日夜(みかよ)餅もなく、後朝(きぬぎぬ)の文だけでお喜びになれるなんて、大層な貧乏根性ですのね、と思っただけ……」

 撫子(なでしこ)は笑おうとした。
 けれど笑みは、上手く結ばれなかった。

 その時、背後に控えていた女房の一人が一歩前へ出た。
 止めるような、支えるような動きだった。

 女官にしては、撫子(なでしこ)との距離が近すぎる。
 しかも、魅了にかかっている気配もない。

 撫子(なでしこ)里亭(りてい)から私的な者を連れて来ているのだろう。
 おそらくは、()姉妹(きょうだい)に近い娘を。

「姫さま」
「黙って」

 撫子(なでしこ)は、ひどく気が立っているようだった。