入侍四日目、紬路は昼食を摂りに昭陽北舎へ戻った。
自室には、巻いた料紙に花を括り付けた後朝の文が届いている。
聞けば、紬路が気付かなかっただけで、朝方にはもう届けられていたという。
帰り花 散り残りたる 暁に
帰る袂ぞ 名残惜しけれ
帰り花とは、季節外れに咲いた躑躅の花を指す季語だ。
上には一枝の白の山茶花、別名、姫椿も添えられていた。
姉の名と順序を前後、あるいは椿の大姫の、年若の妹の方を意味するようだ。
椿と違い、山茶花は首を落とさない。
花びらは一枚ずつ、崩れるように散り、また静かに咲き継ぐ。
私の愛は、途切れない。
そう言いたいのだろう。
艶を抑えた白は、紙の長さへ寄り添うように結ばれていた。
その慎ましさが、却って意味を持つ。
暗喩として、白の山茶花は何も言わぬ体で枝ごと添えられている。
紬路の袂には、己も含めてまだ誰の手も触れていないことが名残惜しい。
清らかで、少しだけ艶めかしかった。
夜のことを形にせずとも忘れぬように。
そう言われた気がして、紬路は思わず指先で花びらに触れた。
柔らかな筈のそれは、どこか確かな重みを持っている。
添えられた文の方は、短い。
――今朝も冷えました。どうか温かく。
東風の夜離れの気持ちが表れていた。
けれど、可怪しなことだった。
ここ二夜、撫子は確かに手を回していた。
魅了に操られて、文は遅くに届いていた。
後朝の文は、届く早さにこそ価値が置かれるという。
共寝して別れた、その後。
夜が明けて猶、皇子が余韻から離れがたく浸っていること。
その名残のまま和歌を詠み、いち早く相手の許へ届けること。
それが、想いの深さを示すのだと。
だからこそ撫子は、二朝続けて確実に遅れるよう、細工してきたのである。
それでも、この文は届いた。何かが可怪しい。
紬路はもう一度、白の山茶花を見やった。
その夜も、東風は続けて紬路を夜の御殿へと召した。
灯りは低く、几帳の内は静かに整えられている。
「一つ、吉報が入りました」
向かい合うや否や、東風は言った。
「新帝の典侍が異能を失ったそうです」
「……それでは、撫子は」
「ああ。これ以上、露骨な妨害はできまい」
穏やかな物言いだった。
だが、言葉と言葉の間に、何かを測るような間が挟まる。
どこまで話してよいかを、慎重に選んでいるような。
ただ異能を失っただけではない。
撫子の身に、何か取り返しのつかぬことが起きたのだ。
「どのように――」
だが、紬路の疑問は遮られた。
紬路を見やりながら、切なげにため息を漏らす。
「まだ何があるか判らぬ。そなたを抱くことは控える」
紬路は、頬に熱が上り、顔が紅潮するのを覚えた。
あまりに直截な言い様に、返す言葉が見つからない。
「更衣である以上、軽々しく子をなすわけにはいかぬ」
東風は静かに続ける。
「だが――、一度抱けば、留めが利かなくなりそうでな」
いつもの東風なら、もう少し言葉を選んだ筈だった。
穏やかに、遠回しに、紬路が逃げられる余地を残してくれる。
けれど今夜は、その余地が狭い。
抑えようとしているからこそ、常は丁寧だった言葉の端が少し乱れている。
低く落とされた言葉が、すぐ傍で肌をなぞるように残る。
身じろぎ一つで触れ合ってしまいそうで、息は熱を孕んだまま行き場を失った。
息一つするのすら、自ずから意識されてきてしまう。
「のちに位が改まれば、その子は皇子として扱われぬ」
「……」
「臣として外へ出される運命となる」
それが宮中の理だ。
どの御位の母から生まれたかで、全てが決まる。
母が更衣であれば、数ならぬ身として扱われるのだ。
東風は、そのように生まれ落ちた宮たちを、幾人も見てきたのだろう。
育ち、期待され、やがて計略によって堕とされていった宮たちを。
表向きは、病とされた。
不運と片付けられた。
嫌疑を被せられ、名を奪われた。
そうして、宮中の奥深くで息を絶やした者もいた。
東風の眼差しには、救えなかった顛末を数えてきた者の苦さが滲んでいた。
「望まぬ形で、そなたに没義道を働く心算はないのです」
東風はそう言って、手を伸べた。
触れるか触れぬかの距離で、その手はいつも止まる。
この帳の内で結ばれれば、それは甘い幸福の形を取るだろう。
けれど同時に、敵に狙うべきものを与えてしまう。
もし御子を宿し、その御子を奪われるようなことがあれば――。
紬路の心は、きっと砕ける。
守る腕が破滅へ誘うものに変わらぬよう、境の手前で耐えているのだ。
自室には、巻いた料紙に花を括り付けた後朝の文が届いている。
聞けば、紬路が気付かなかっただけで、朝方にはもう届けられていたという。
帰り花 散り残りたる 暁に
帰る袂ぞ 名残惜しけれ
帰り花とは、季節外れに咲いた躑躅の花を指す季語だ。
上には一枝の白の山茶花、別名、姫椿も添えられていた。
姉の名と順序を前後、あるいは椿の大姫の、年若の妹の方を意味するようだ。
椿と違い、山茶花は首を落とさない。
花びらは一枚ずつ、崩れるように散り、また静かに咲き継ぐ。
私の愛は、途切れない。
そう言いたいのだろう。
艶を抑えた白は、紙の長さへ寄り添うように結ばれていた。
その慎ましさが、却って意味を持つ。
暗喩として、白の山茶花は何も言わぬ体で枝ごと添えられている。
紬路の袂には、己も含めてまだ誰の手も触れていないことが名残惜しい。
清らかで、少しだけ艶めかしかった。
夜のことを形にせずとも忘れぬように。
そう言われた気がして、紬路は思わず指先で花びらに触れた。
柔らかな筈のそれは、どこか確かな重みを持っている。
添えられた文の方は、短い。
――今朝も冷えました。どうか温かく。
東風の夜離れの気持ちが表れていた。
けれど、可怪しなことだった。
ここ二夜、撫子は確かに手を回していた。
魅了に操られて、文は遅くに届いていた。
後朝の文は、届く早さにこそ価値が置かれるという。
共寝して別れた、その後。
夜が明けて猶、皇子が余韻から離れがたく浸っていること。
その名残のまま和歌を詠み、いち早く相手の許へ届けること。
それが、想いの深さを示すのだと。
だからこそ撫子は、二朝続けて確実に遅れるよう、細工してきたのである。
それでも、この文は届いた。何かが可怪しい。
紬路はもう一度、白の山茶花を見やった。
その夜も、東風は続けて紬路を夜の御殿へと召した。
灯りは低く、几帳の内は静かに整えられている。
「一つ、吉報が入りました」
向かい合うや否や、東風は言った。
「新帝の典侍が異能を失ったそうです」
「……それでは、撫子は」
「ああ。これ以上、露骨な妨害はできまい」
穏やかな物言いだった。
だが、言葉と言葉の間に、何かを測るような間が挟まる。
どこまで話してよいかを、慎重に選んでいるような。
ただ異能を失っただけではない。
撫子の身に、何か取り返しのつかぬことが起きたのだ。
「どのように――」
だが、紬路の疑問は遮られた。
紬路を見やりながら、切なげにため息を漏らす。
「まだ何があるか判らぬ。そなたを抱くことは控える」
紬路は、頬に熱が上り、顔が紅潮するのを覚えた。
あまりに直截な言い様に、返す言葉が見つからない。
「更衣である以上、軽々しく子をなすわけにはいかぬ」
東風は静かに続ける。
「だが――、一度抱けば、留めが利かなくなりそうでな」
いつもの東風なら、もう少し言葉を選んだ筈だった。
穏やかに、遠回しに、紬路が逃げられる余地を残してくれる。
けれど今夜は、その余地が狭い。
抑えようとしているからこそ、常は丁寧だった言葉の端が少し乱れている。
低く落とされた言葉が、すぐ傍で肌をなぞるように残る。
身じろぎ一つで触れ合ってしまいそうで、息は熱を孕んだまま行き場を失った。
息一つするのすら、自ずから意識されてきてしまう。
「のちに位が改まれば、その子は皇子として扱われぬ」
「……」
「臣として外へ出される運命となる」
それが宮中の理だ。
どの御位の母から生まれたかで、全てが決まる。
母が更衣であれば、数ならぬ身として扱われるのだ。
東風は、そのように生まれ落ちた宮たちを、幾人も見てきたのだろう。
育ち、期待され、やがて計略によって堕とされていった宮たちを。
表向きは、病とされた。
不運と片付けられた。
嫌疑を被せられ、名を奪われた。
そうして、宮中の奥深くで息を絶やした者もいた。
東風の眼差しには、救えなかった顛末を数えてきた者の苦さが滲んでいた。
「望まぬ形で、そなたに没義道を働く心算はないのです」
東風はそう言って、手を伸べた。
触れるか触れぬかの距離で、その手はいつも止まる。
この帳の内で結ばれれば、それは甘い幸福の形を取るだろう。
けれど同時に、敵に狙うべきものを与えてしまう。
もし御子を宿し、その御子を奪われるようなことがあれば――。
紬路の心は、きっと砕ける。
守る腕が破滅へ誘うものに変わらぬよう、境の手前で耐えているのだ。



