「あの春陽の射す日――」
東風は目を伏せた。
過ぎた日の面影へ触れるような間を置き、紬路を見据える。
「私は、あなたを見初めてしまったのです」
淡々とした告白だった。
「……否、あの時はまだ、何かの形で呼べるものではなかったかもしれない。けれどすぐさま、あなたに強い印象を覚えました」
その響きには確かに形容しようのない熱がある。
黒い双眸は、掌中の珠を瞶めるように甘く、深かった。
「誰もが、あなたこそ私の妃に相応しいと決め込んでいた。――私は鑑賞会迄、それを信じてはいなかった。……けれど、あの時」
桜は盛りを少し過ぎ、春の光に満ちた紫宸殿の中庭でのことだった。
枝先から零れる花びらが、御簾の端にも人々の袖にも、降りかかっていた。
若い娘たちは皆、晴れやかな装いで集められている。
その衣の華やぎの下で、誰もが、此れから選ばれることを意識していた。
その中で、紬路だけが少し違って見えた。
選ばれるために咲かされた花ではなく、ただそこに、風を受けて立っている花のようで。
「気付けば、笑いかけてしまっていた。あなたも、笑い返してくれたように思う。……天真爛漫で、憂いなどを知らぬ娘に見えた」
桜の下の、ほんの一瞬。
淡く伏せられた目許と、濃紫の衣に映えた微笑み。
紬路も、それを思い返していた。
誰へ向けたとも知れぬほど淡い礼の笑みを、確かに自分も返していたのだと。
それは、恋と呼ぶにはあまりに遠い。
けれど、忘れるには少しだけ鮮やかな一瞬だった。
「六条の稽古で初めて直にお会いした時、実を言うと、気付かれても構わぬ覚悟でした」
東風は、僅かに後ろめたそうに目を伏せた。
手を取り、歩幅を合わせ、左回りの円舞曲を共に踊った時間。
それらが、ふいに御帳台の内へ戻って来る。
「けれど、あなたは私を東宮とは思わなかった。ならば、このままでよいのではないかと……愚かにも、そう自分に赦してしまった」
紬路は、直ぐには言葉を返せなかった。
東風は最初から何もかも知っていた。
それでいて名を変え、立場を隠し、紬路の手を取っていたのだ。
「結果的に長く欺くことになりました。けれど、共に過ごす時間が、あまりに楽しかった」
その目が、苦しげに揺らいでいる。
「東宮としてではなく、ただ一人の男として。あなたの隣に居られることが」
真実そう望まれていたのだ。
理解した途端、欺かれた痛みの中に、拒みきれぬ甘さが混じり込む。
「それ以降はあまり隠し立てする気はなかったとはいえ、申し訳ありませんでした」
紬路は、直ぐには言葉を返せなかった。
この人は、あとどれほどの秘密を抱えているのだろう。
そう思いながらも、あの時間まで偽りだったとは、どうしても思えない。
手を取られた熱も。
名を呼ばれた時の声も。
月の下で向けられた眼差しも。
思い返すほど、腹を立てるより先に、胸が甘く痛んだ。
「あなたはそれほどまでに一際光り輝いていた。初々しく頬を染め、僅かに勝ち気で……鑑賞会以降、それを曇らせたのは」
東風は言葉を切って、辛そうに顔を歪ませた。
「他ならぬ、私なのかもしれない」
「そんなこと……っ」
紬路は弾かれたように、思わず東風の手を取った。
手袋越しか素手かも問わず、幾度も触れてきた、その手を。
夢の中でも、幾度となく。
「この曇らせも、あなた様のためなら――」
触れられた拍子に、東風の指先へ力が籠る。
「父君という寄る辺を喪った、あなたの評判を守り切ることができなかった。東宮に立った私があなたを望んだばかりに。……どれ程お辛い思いをされたことだろうか」
そう言って、東風はもう片方の手を重ねた。
紬路の掌を上から包み込むように。
ただ、其処に在るよう、押し戴く触れ方だった。
「宮中に、魅了で人を惑わす姫がいる。……その者、あるいは連なる者が、全てを仕組みました」
推測ではない。
すでに筋を掴んでいる者の口ぶりだった。
おそらく霍成の調べにより、全容は見え始めているのだろう。
「急ぎ入侍させたのは、あなたを守るためです。それと……」
言葉が、僅かに途切れる。
告げるべきか否かを、最後に量る沈黙だった。
「私は、嫉妬したのです。治部省の外交の任にある者が、あなたに求婚したと聞いて」
その告白は、意外なほど率直だった。
隠そうと思えばいくらでも隠せる人が、あえて言葉にしている。
「それまでは、全てが明らかになるまでは、あなたを宮中から遠ざけておくつもりでした」
「でも、わたくしには異能がないのです」
「……それも宣下が遅れた理由の一つです。けれど私は、異能の有無などどうでもよかった」
東風の眸が、まっすぐ紬路を捉える。
「あなたが良かった」
息が、止まりそうになった。
「舞踏会でも、あなたは自然に人々の目を奪っていた。ご自身の魅力を、惜しげもなく場へ振り撒いて」
そこで、東風は苦く息を落とした。
「男たちが皆、見惚れるのを見ているのが、本当に我慢ならなかった」
東風の手が、紬路の肩へそっと回る。
引き寄せられた距離は、もう驚くほども残っていなかった。
舞踏の折に幾度も触れた、同じ腕の筈だった。
なのに今はもう、礼法の内に収まる距離ではない。
硬い身体に押し抱かれ、心の臓が、とくとくと音を立てていた。
驚いて跳ね上がった指は、やがて抗うことを忘れたように力を失った。
「いずれあなたは、私の后妃になる。これだけは先に明かしておきます」
后妃。
願いでも、約束でもない。
既に定めたことを、ただ告げているのだと知れる言い方だった。
「皇統には、絶対無効の異能がある」
そこで東風は一度、言葉を切り、紬路を離した。
何かの惨事を思い出したように、視線が強く揺らいでいるようだ。
「直接の武力行使そのもの以外は、だけれども。……たとえどんな者が異能を揮おうとも、傷一つ、付けることはできない。他にも異能はあるが……」
灯りが、その横顔に影を落とす。
語られぬ過去がそこに一瞬だけ差していた。
そして、少しだけ顔を寄せる。
「半ば強引に内裏へ召し入れる形になったのも……早く手元に置きたかったのです」
言い訳の形をしているが、そうではない。
ただ、長く抑えてきた本心が、ここで零れただけだった。
指先が、紬路の頬へ触れかける。
だが、触れる寸前で止まった。
触れぬことで、却って触れたがっていることが知れた。
その一線を、東風は辛うじて守っている。
「私の褥にいる限り、何人たりとも、あなたを傷つけることはできない――」
その一言は、余りに静かで、余りに重かった。
甘さと権威と執着とが、そのまま形を持ったような響きだった。
「だが、ずっと恋焦がれて来た――、まして私のせいで傷付けたあなたとは、こんな形で結ばれたくないのです」
東風は目を伏せた。
過ぎた日の面影へ触れるような間を置き、紬路を見据える。
「私は、あなたを見初めてしまったのです」
淡々とした告白だった。
「……否、あの時はまだ、何かの形で呼べるものではなかったかもしれない。けれどすぐさま、あなたに強い印象を覚えました」
その響きには確かに形容しようのない熱がある。
黒い双眸は、掌中の珠を瞶めるように甘く、深かった。
「誰もが、あなたこそ私の妃に相応しいと決め込んでいた。――私は鑑賞会迄、それを信じてはいなかった。……けれど、あの時」
桜は盛りを少し過ぎ、春の光に満ちた紫宸殿の中庭でのことだった。
枝先から零れる花びらが、御簾の端にも人々の袖にも、降りかかっていた。
若い娘たちは皆、晴れやかな装いで集められている。
その衣の華やぎの下で、誰もが、此れから選ばれることを意識していた。
その中で、紬路だけが少し違って見えた。
選ばれるために咲かされた花ではなく、ただそこに、風を受けて立っている花のようで。
「気付けば、笑いかけてしまっていた。あなたも、笑い返してくれたように思う。……天真爛漫で、憂いなどを知らぬ娘に見えた」
桜の下の、ほんの一瞬。
淡く伏せられた目許と、濃紫の衣に映えた微笑み。
紬路も、それを思い返していた。
誰へ向けたとも知れぬほど淡い礼の笑みを、確かに自分も返していたのだと。
それは、恋と呼ぶにはあまりに遠い。
けれど、忘れるには少しだけ鮮やかな一瞬だった。
「六条の稽古で初めて直にお会いした時、実を言うと、気付かれても構わぬ覚悟でした」
東風は、僅かに後ろめたそうに目を伏せた。
手を取り、歩幅を合わせ、左回りの円舞曲を共に踊った時間。
それらが、ふいに御帳台の内へ戻って来る。
「けれど、あなたは私を東宮とは思わなかった。ならば、このままでよいのではないかと……愚かにも、そう自分に赦してしまった」
紬路は、直ぐには言葉を返せなかった。
東風は最初から何もかも知っていた。
それでいて名を変え、立場を隠し、紬路の手を取っていたのだ。
「結果的に長く欺くことになりました。けれど、共に過ごす時間が、あまりに楽しかった」
その目が、苦しげに揺らいでいる。
「東宮としてではなく、ただ一人の男として。あなたの隣に居られることが」
真実そう望まれていたのだ。
理解した途端、欺かれた痛みの中に、拒みきれぬ甘さが混じり込む。
「それ以降はあまり隠し立てする気はなかったとはいえ、申し訳ありませんでした」
紬路は、直ぐには言葉を返せなかった。
この人は、あとどれほどの秘密を抱えているのだろう。
そう思いながらも、あの時間まで偽りだったとは、どうしても思えない。
手を取られた熱も。
名を呼ばれた時の声も。
月の下で向けられた眼差しも。
思い返すほど、腹を立てるより先に、胸が甘く痛んだ。
「あなたはそれほどまでに一際光り輝いていた。初々しく頬を染め、僅かに勝ち気で……鑑賞会以降、それを曇らせたのは」
東風は言葉を切って、辛そうに顔を歪ませた。
「他ならぬ、私なのかもしれない」
「そんなこと……っ」
紬路は弾かれたように、思わず東風の手を取った。
手袋越しか素手かも問わず、幾度も触れてきた、その手を。
夢の中でも、幾度となく。
「この曇らせも、あなた様のためなら――」
触れられた拍子に、東風の指先へ力が籠る。
「父君という寄る辺を喪った、あなたの評判を守り切ることができなかった。東宮に立った私があなたを望んだばかりに。……どれ程お辛い思いをされたことだろうか」
そう言って、東風はもう片方の手を重ねた。
紬路の掌を上から包み込むように。
ただ、其処に在るよう、押し戴く触れ方だった。
「宮中に、魅了で人を惑わす姫がいる。……その者、あるいは連なる者が、全てを仕組みました」
推測ではない。
すでに筋を掴んでいる者の口ぶりだった。
おそらく霍成の調べにより、全容は見え始めているのだろう。
「急ぎ入侍させたのは、あなたを守るためです。それと……」
言葉が、僅かに途切れる。
告げるべきか否かを、最後に量る沈黙だった。
「私は、嫉妬したのです。治部省の外交の任にある者が、あなたに求婚したと聞いて」
その告白は、意外なほど率直だった。
隠そうと思えばいくらでも隠せる人が、あえて言葉にしている。
「それまでは、全てが明らかになるまでは、あなたを宮中から遠ざけておくつもりでした」
「でも、わたくしには異能がないのです」
「……それも宣下が遅れた理由の一つです。けれど私は、異能の有無などどうでもよかった」
東風の眸が、まっすぐ紬路を捉える。
「あなたが良かった」
息が、止まりそうになった。
「舞踏会でも、あなたは自然に人々の目を奪っていた。ご自身の魅力を、惜しげもなく場へ振り撒いて」
そこで、東風は苦く息を落とした。
「男たちが皆、見惚れるのを見ているのが、本当に我慢ならなかった」
東風の手が、紬路の肩へそっと回る。
引き寄せられた距離は、もう驚くほども残っていなかった。
舞踏の折に幾度も触れた、同じ腕の筈だった。
なのに今はもう、礼法の内に収まる距離ではない。
硬い身体に押し抱かれ、心の臓が、とくとくと音を立てていた。
驚いて跳ね上がった指は、やがて抗うことを忘れたように力を失った。
「いずれあなたは、私の后妃になる。これだけは先に明かしておきます」
后妃。
願いでも、約束でもない。
既に定めたことを、ただ告げているのだと知れる言い方だった。
「皇統には、絶対無効の異能がある」
そこで東風は一度、言葉を切り、紬路を離した。
何かの惨事を思い出したように、視線が強く揺らいでいるようだ。
「直接の武力行使そのもの以外は、だけれども。……たとえどんな者が異能を揮おうとも、傷一つ、付けることはできない。他にも異能はあるが……」
灯りが、その横顔に影を落とす。
語られぬ過去がそこに一瞬だけ差していた。
そして、少しだけ顔を寄せる。
「半ば強引に内裏へ召し入れる形になったのも……早く手元に置きたかったのです」
言い訳の形をしているが、そうではない。
ただ、長く抑えてきた本心が、ここで零れただけだった。
指先が、紬路の頬へ触れかける。
だが、触れる寸前で止まった。
触れぬことで、却って触れたがっていることが知れた。
その一線を、東風は辛うじて守っている。
「私の褥にいる限り、何人たりとも、あなたを傷つけることはできない――」
その一言は、余りに静かで、余りに重かった。
甘さと権威と執着とが、そのまま形を持ったような響きだった。
「だが、ずっと恋焦がれて来た――、まして私のせいで傷付けたあなたとは、こんな形で結ばれたくないのです」



