「此方へいらっしゃい。帳の内へ――」
抗いがたく引き寄せるような言い方だ。
紬路は息を呑んだ。
宵闇は既に深い。
灯りの揺らぎが、垂れ布の向こうにある人影を曖昧に映している。
今に始まったことではなく、以前から、薄々、答えは心の底に沈んでいたように思う。
東風の纏っていた気配は――東宮そのものだった。
足の運びが、一つ遅れた。
その刹那、帳の内から手が伸びる。
待ち切れぬように、けれど決して乱暴ではなく。
舞踏会の稽古の時と同じように、打掛越しの背へ、そっと添えられた。
「人に聞かれてはまずいことなのです」
その急かす言葉に紬路は足を踏み出した。
東風の様子は、どうにも尋常ではない。
初夜にしてはあまりに静かで、あまりに張り詰めている。
帳の内へ入ると、外の音がふっと遠のいた。
同じ居室である筈なのに、布一枚を隔てただけで、別の場所へ移ったような隔絶がある。
何かの異能が働いているのかもしれなかった。
横から窺い見る顔には、甘やかな雰囲気も気恥ずかしさもなかった。
あるのは言葉を選び、何かを切り出そうとする者の、重い沈黙だ。
東風は紬路に、褥の方を静かに示した。
促されるまま腰を下ろすと東風もすぐ隣に座した。
「事の次第を、何から話しましょうか」
そう言って、東宮である東風は目を伏せた。
その横顔には、先程までの柔らかな色はない。
政に関わる者の冷えた覚悟が、はっきりと浮かんでいた。
「前の帝に、謀叛を起こした狼藉者が、未だ宮中におります」
紬路は息を詰める。
聞いてはならぬものに触れてしまった気がした。
「その者から目を逸らすために――罪が、別の者に被せられた」
淡々とした言葉だった。
傍にいるのに、これ迄より酷く遠い。
この人は、為政者なのだ。
「……それが、そなたの父君――大納言殿です」
やはり、そうだったのだ。
紬路の中で、長く形にならなかったものが突然名を取り始める。
父が何の理由もなく官位を退く筈はない。
その日を境に、心ない誹謗中傷が紬路へ降りかかるようになった。
こうした政変に、やはり全ては繋がっていたのだ。
「経緯を察した佐伯翁は、一線を退いていながら、孫の霍成殿を動かされた」
紬路は、今朝方の老翁を思い出した。
父に代わって祝福の言葉を述べ、華燭の典へ送り出してくれた人。
あの揺るがぬ落ち着きは、東風の正体を知っていた為なのだと腑に落ちた。
ただの隠居でも、道楽者でもない。
ここ数か月の庇護に、今になって筋が通った思いがする。
「そして、そこで――私と背格好の似た直橘を、名代に借りました」
名代。
誰かの代わりに立つ者。
直橘が言っていた、身代わりの影。
「あの者に禁色の黄丹を着るよう命じたのは、私です」
園遊会で見た直橘の姿が、脳裡に蘇る。
近頃は、帝でさえ儀の外では略式を取っている。
宮中にある時の東風も、殆ど略式和装だ。
それなのに、あの日の直橘は、黄丹どころか冠まで整えていた。
なるほど。
あれは、ただ身を隠すための影ではない。
誰の目にも東宮と見えるよう、わざと古式に寄せた姿だったのだ。
東宮が許すと言えば、許される。
雑袍勅許も、禁色勅許も、その為にある。
「なるべく目立つように、とも」
帳の外から差す灯が、東風の黒い眸を仄かに照らしている。
紬路は、その視線を静かに受け止めた。
「……今年の春の、桜の鑑賞会を覚えていますか」
忘れる筈もない。
あの日、紬路は期待を抱いて宮中へ上がった。
誰もが、紬路の入内を信じて疑っていなかった。
本人でさえ、その道が確かなものだと思っていた。
三大臣のいずれかが太政大臣へ進めば、父が新たに大臣を拝命する。
紬路の身分は女御になる筈だった。
果敢なくも、あと少しの処だったのだ。
けれど、その夜を境に、盤石だと思っていた足場は崩れ始めた。
抗いがたく引き寄せるような言い方だ。
紬路は息を呑んだ。
宵闇は既に深い。
灯りの揺らぎが、垂れ布の向こうにある人影を曖昧に映している。
今に始まったことではなく、以前から、薄々、答えは心の底に沈んでいたように思う。
東風の纏っていた気配は――東宮そのものだった。
足の運びが、一つ遅れた。
その刹那、帳の内から手が伸びる。
待ち切れぬように、けれど決して乱暴ではなく。
舞踏会の稽古の時と同じように、打掛越しの背へ、そっと添えられた。
「人に聞かれてはまずいことなのです」
その急かす言葉に紬路は足を踏み出した。
東風の様子は、どうにも尋常ではない。
初夜にしてはあまりに静かで、あまりに張り詰めている。
帳の内へ入ると、外の音がふっと遠のいた。
同じ居室である筈なのに、布一枚を隔てただけで、別の場所へ移ったような隔絶がある。
何かの異能が働いているのかもしれなかった。
横から窺い見る顔には、甘やかな雰囲気も気恥ずかしさもなかった。
あるのは言葉を選び、何かを切り出そうとする者の、重い沈黙だ。
東風は紬路に、褥の方を静かに示した。
促されるまま腰を下ろすと東風もすぐ隣に座した。
「事の次第を、何から話しましょうか」
そう言って、東宮である東風は目を伏せた。
その横顔には、先程までの柔らかな色はない。
政に関わる者の冷えた覚悟が、はっきりと浮かんでいた。
「前の帝に、謀叛を起こした狼藉者が、未だ宮中におります」
紬路は息を詰める。
聞いてはならぬものに触れてしまった気がした。
「その者から目を逸らすために――罪が、別の者に被せられた」
淡々とした言葉だった。
傍にいるのに、これ迄より酷く遠い。
この人は、為政者なのだ。
「……それが、そなたの父君――大納言殿です」
やはり、そうだったのだ。
紬路の中で、長く形にならなかったものが突然名を取り始める。
父が何の理由もなく官位を退く筈はない。
その日を境に、心ない誹謗中傷が紬路へ降りかかるようになった。
こうした政変に、やはり全ては繋がっていたのだ。
「経緯を察した佐伯翁は、一線を退いていながら、孫の霍成殿を動かされた」
紬路は、今朝方の老翁を思い出した。
父に代わって祝福の言葉を述べ、華燭の典へ送り出してくれた人。
あの揺るがぬ落ち着きは、東風の正体を知っていた為なのだと腑に落ちた。
ただの隠居でも、道楽者でもない。
ここ数か月の庇護に、今になって筋が通った思いがする。
「そして、そこで――私と背格好の似た直橘を、名代に借りました」
名代。
誰かの代わりに立つ者。
直橘が言っていた、身代わりの影。
「あの者に禁色の黄丹を着るよう命じたのは、私です」
園遊会で見た直橘の姿が、脳裡に蘇る。
近頃は、帝でさえ儀の外では略式を取っている。
宮中にある時の東風も、殆ど略式和装だ。
それなのに、あの日の直橘は、黄丹どころか冠まで整えていた。
なるほど。
あれは、ただ身を隠すための影ではない。
誰の目にも東宮と見えるよう、わざと古式に寄せた姿だったのだ。
東宮が許すと言えば、許される。
雑袍勅許も、禁色勅許も、その為にある。
「なるべく目立つように、とも」
帳の外から差す灯が、東風の黒い眸を仄かに照らしている。
紬路は、その視線を静かに受け止めた。
「……今年の春の、桜の鑑賞会を覚えていますか」
忘れる筈もない。
あの日、紬路は期待を抱いて宮中へ上がった。
誰もが、紬路の入内を信じて疑っていなかった。
本人でさえ、その道が確かなものだと思っていた。
三大臣のいずれかが太政大臣へ進めば、父が新たに大臣を拝命する。
紬路の身分は女御になる筈だった。
果敢なくも、あと少しの処だったのだ。
けれど、その夜を境に、盤石だと思っていた足場は崩れ始めた。



