東宮の住まう昭陽舎に辿り着いたのは、陽も西へ沈みかける頃だった。
空には潤朱色が滲み、庭の影だけが一際長く伸びている。
庭には、梨と榎の木が植わっていた。
冬に向かう枝は葉を減らし、夕空を細く裂くように伸びている。
梨壺の名を負う御殿に相応しい木だと、いつか女学校の授業で聞いた気もする。
けれど今の紬路には、その由緒を懐かしむ余裕などなかった。
梨の枝も、榎の影も、外へ続く道ではなく、内へ内へと囲い込むものに見える。
案内されたのは、北の五間二面だった。
中庭に面した古い蔀戸の内側は、広くもなく、狭くもない。
けれどその一画は、明らかに他と隔てられていた。
御簾が下ろされ、古めかしい几帳が据えられている。
外からの視線も、内からの気配も、意図的に断たれていた。
此処に置かれるということが、何を意味するのか。
答えは、もう言葉を要さなかった。
今宵、すぐ近くの昭陽舎にあらせられる東宮さまの御許へ、身を進めることとなる。
未だ顔も知らぬ御君に召される。
夜の御殿に呼び入れられ、その御腕に抱かれる。
それは、避け得ぬ道として幾重にも整えられていた。
息つく間もなく、女官たちの手が伸びて来る。
婚礼衣装の紐が解かれ、幾重にも重なった衣が順に剥がされていく。
袖が引かれ、帯が解かれ、腰紐が抜かれる。
布の滑り落ちる音だけが、絶え間なく耳に残った。
身体を清められ、髪を乾かすために火鉢の傍へ残された時、紬路は漸く一人になった。
食事の膳も用意されている。
けれど、手を付ける気にはなれなかった。
湿り気を帯びた髪が、首筋に冷たく張りつく。
火鉢の炭だけが、処々赤を宿している。
頃合いを見計らったように、女官たちが戻って来た。
肌襦袢から改められ、胡粉が頬へ置かれる。
目蓋の際に色が差され、唇には淡い紅が引かれた。
やがて髪に手がかかる。
乾いた黒髪は結い上げられることなく、梳き整えられたまま背へ流された。
準備が整ったのだ。
「此方にございます」
女官が先に立ち、女童に囲まれて渡殿を進む。
御座所の御簾の内に入るや、巻き上げて留めてあった平鉤が外された。
此処より先は、孤りにて進めということだ。
帳の内に、人の気配がある。
此方が――東宮さま。
白い小袖に打掛姿の紬路は、一歩、踏み出す。
畳に足を折り、静かに身を沈める。
裾を整え、両の手を膝の上に。
背を正し、息を一つ整える。
「……」
逃げることは許されない。
視線は下げたまま、帳の向こうへ届くように名乗りを上げた。
「前の和泉大納言が小姫、紬路にございます」
帳の内からの応えは、なかった。
ただ、黙して帳が跳ね上げられる。
次の瞬間、男が姿を現した。
紬路の視線が、上がる。
――見知らぬ筈の顔。
そう思ったのに、先に、身体が反応した。
呼吸が、一つ止まる。
此度は、直橘ではない。
目を逸らすことも出来ず、その姿を見据えたまま思考だけが遅れる。
あり得ない。
此処に居る筈がない。
だが、やはり――とも同時に感じていた。
ずっと予感めいたものもあったのだ。
背に置かれる手の重み。
名を呼ばれたときの、抗いようもなく心へ届く気配。
それらが、目の前の人へ寸分違わず重なっていく。
疑う余地など、もう何処にもなかった。
「――東風」
「……紬路姫、漸くあなたをお迎えできました」
「いえ、……東宮殿下、尚彰親王さま……」
空には潤朱色が滲み、庭の影だけが一際長く伸びている。
庭には、梨と榎の木が植わっていた。
冬に向かう枝は葉を減らし、夕空を細く裂くように伸びている。
梨壺の名を負う御殿に相応しい木だと、いつか女学校の授業で聞いた気もする。
けれど今の紬路には、その由緒を懐かしむ余裕などなかった。
梨の枝も、榎の影も、外へ続く道ではなく、内へ内へと囲い込むものに見える。
案内されたのは、北の五間二面だった。
中庭に面した古い蔀戸の内側は、広くもなく、狭くもない。
けれどその一画は、明らかに他と隔てられていた。
御簾が下ろされ、古めかしい几帳が据えられている。
外からの視線も、内からの気配も、意図的に断たれていた。
此処に置かれるということが、何を意味するのか。
答えは、もう言葉を要さなかった。
今宵、すぐ近くの昭陽舎にあらせられる東宮さまの御許へ、身を進めることとなる。
未だ顔も知らぬ御君に召される。
夜の御殿に呼び入れられ、その御腕に抱かれる。
それは、避け得ぬ道として幾重にも整えられていた。
息つく間もなく、女官たちの手が伸びて来る。
婚礼衣装の紐が解かれ、幾重にも重なった衣が順に剥がされていく。
袖が引かれ、帯が解かれ、腰紐が抜かれる。
布の滑り落ちる音だけが、絶え間なく耳に残った。
身体を清められ、髪を乾かすために火鉢の傍へ残された時、紬路は漸く一人になった。
食事の膳も用意されている。
けれど、手を付ける気にはなれなかった。
湿り気を帯びた髪が、首筋に冷たく張りつく。
火鉢の炭だけが、処々赤を宿している。
頃合いを見計らったように、女官たちが戻って来た。
肌襦袢から改められ、胡粉が頬へ置かれる。
目蓋の際に色が差され、唇には淡い紅が引かれた。
やがて髪に手がかかる。
乾いた黒髪は結い上げられることなく、梳き整えられたまま背へ流された。
準備が整ったのだ。
「此方にございます」
女官が先に立ち、女童に囲まれて渡殿を進む。
御座所の御簾の内に入るや、巻き上げて留めてあった平鉤が外された。
此処より先は、孤りにて進めということだ。
帳の内に、人の気配がある。
此方が――東宮さま。
白い小袖に打掛姿の紬路は、一歩、踏み出す。
畳に足を折り、静かに身を沈める。
裾を整え、両の手を膝の上に。
背を正し、息を一つ整える。
「……」
逃げることは許されない。
視線は下げたまま、帳の向こうへ届くように名乗りを上げた。
「前の和泉大納言が小姫、紬路にございます」
帳の内からの応えは、なかった。
ただ、黙して帳が跳ね上げられる。
次の瞬間、男が姿を現した。
紬路の視線が、上がる。
――見知らぬ筈の顔。
そう思ったのに、先に、身体が反応した。
呼吸が、一つ止まる。
此度は、直橘ではない。
目を逸らすことも出来ず、その姿を見据えたまま思考だけが遅れる。
あり得ない。
此処に居る筈がない。
だが、やはり――とも同時に感じていた。
ずっと予感めいたものもあったのだ。
背に置かれる手の重み。
名を呼ばれたときの、抗いようもなく心へ届く気配。
それらが、目の前の人へ寸分違わず重なっていく。
疑う余地など、もう何処にもなかった。
「――東風」
「……紬路姫、漸くあなたをお迎えできました」
「いえ、……東宮殿下、尚彰親王さま……」



