紬路に突然下された東宮妃宣下は、たちまち耳目を集め、内裏の内外を問わず囁かれるものとなった。
つつ屋の暖簾の内には、女学校時代の同級が絶え間なく訪れ、帳場に身を寄せては、事の次第を聞き出そうとする。
志乃は噂を楽しむ気質ではあったが、友人のそれを外へ流すほど不用意ではない。
文子は連日のように参内しては内裏に留め置かれるらしく、ついに姿を見せなかった。
異能を持たぬ身ゆえ、いずれは嫁かず後家か、誰かの側室。
その程度の行く末だと思っていた。
けれど入侍からは最早逃れようもなく、側室になることは決まったようなものだ。
陰陽寮の卜占により定められた吉日が近付くにつれ、紬路の言葉は次第に細っていった。
気付けば、東風のことばかり考えている。
あの夜を境に、東風は六条別邸の晩餐から消えた。
佐伯翁も、行方について何も語ろうとしない。
稽古も舞踏会も過ぎたことだ。
名を知らぬ青年を呼び止める術などない。
残された記憶ばかりが、よすがのように立ち上がる。
手を取られた時の熱。
まだ離れたくない、と告げた眼差し。
月の下で、攫っていけたらと囁かれた声。
あれが真実何でもなかったのなら、東風が去ったことにも筋は通る。
けれど、丸きり棄てられたのだと、向けられた想いまで疑うことはできなかった。
その直後に、宣下は下った。
誰もが知る騒ぎとなりながら、本当に事情を知る者だけが口を閉ざしている。
東風の沈黙は、別れの形をしていなかった。
むしろ何かを伏せたまま、張りつめながら待ち望んでいるようにさえ思えた。
あるいは、声を上げることの許されぬ場所に、今、東風の身があるのではないか。
紬路には、もう判じきれなかった。
「妾も、付いて行けるものなら……」
瑠衣は、そこまで言って幾度も唇を噛んだ。
此度の入侍は、東宮の傍へ召し上げられるということだ。
書司の私的女房を宮中に潜り込ませるのとは、訣が違う。
紬路は、瑠衣の前でだけ強がった。
「他に側室など迎えるお心積もりなら、破談にして帰って参りますわ」
そう繰り返すものの、声には思ったほどの力は乗らない。
更衣として召される自分こそ、正式な東宮妃ではなく、側室に過ぎない。
もし婚儀を結ぶことがあるなら。
他に側室を持たぬ方であってほしい。
密かに願ってきたのは、結局その一つだった。
否、瑠衣だけに吐露していた本心は、もっと正確に言えば東宮殿下に側室など取らないで欲しいというものだった。
しかし既に、これは紬路一人が拒めば済む話でもなかった。
それに――。
逃げたいのかと問われれば、答えは直ぐに出なかった。
東宮の御許へ上がると思うと、確かに怖ろしい。
更衣として召されることも、文子の洞見の通りなら破滅そのものだ。
撫子の笑みも、宮中の渡殿も、目を閉じればすぐそこに浮かぶ。
それでも、輿入れの先にあるのは、ただ冷たい御簾の奥だけではない気がしていた。
というより、――答えを知ることが怖い。
入侍が否応ないものなら、先に他人の口から聞かされたくない。
逃げ道がないのなら、せめて最後の答えだけは、自分の目で見届けたかった。
避け得ぬものが、形を取って迫り来る。
その気配だけが、日ごとに濃くなる。
佐伯の家に迷惑を掛ける訣にもいかない。
けれど胸のどこかには、そうしたこととは全く異なる予感があるのだ。
輿入れの先に何が待つのかは判らない。
それでも、その一寸先に、何かが紬路を待ち受けている気がしてならない。
あの六条別邸の庭で見た月夜へ続く、細い道が――
そう思ってしまうことさえ、紬路には畏れ多く、怖ろしかった。
もし、違っていたら。
もし、あの夜の熱も、言葉も。
紬路だけが抱いた夢だったなら。
それでも、やはり東風の気持ちを疑うことはできなかった。
東風が何も告げぬまま沈黙を選ぶのなら。
紬路もまた、その沈黙の奥にあるものを、独り信じていた。
ただ判らないでいるのは、あの方のご身分だけだ。
拒み切れぬのは、命じられた婚姻だけではない。
名も知らぬあの人へ自然と向かっていく、自らの気持ちでもあった。
つつ屋の暖簾の内には、女学校時代の同級が絶え間なく訪れ、帳場に身を寄せては、事の次第を聞き出そうとする。
志乃は噂を楽しむ気質ではあったが、友人のそれを外へ流すほど不用意ではない。
文子は連日のように参内しては内裏に留め置かれるらしく、ついに姿を見せなかった。
異能を持たぬ身ゆえ、いずれは嫁かず後家か、誰かの側室。
その程度の行く末だと思っていた。
けれど入侍からは最早逃れようもなく、側室になることは決まったようなものだ。
陰陽寮の卜占により定められた吉日が近付くにつれ、紬路の言葉は次第に細っていった。
気付けば、東風のことばかり考えている。
あの夜を境に、東風は六条別邸の晩餐から消えた。
佐伯翁も、行方について何も語ろうとしない。
稽古も舞踏会も過ぎたことだ。
名を知らぬ青年を呼び止める術などない。
残された記憶ばかりが、よすがのように立ち上がる。
手を取られた時の熱。
まだ離れたくない、と告げた眼差し。
月の下で、攫っていけたらと囁かれた声。
あれが真実何でもなかったのなら、東風が去ったことにも筋は通る。
けれど、丸きり棄てられたのだと、向けられた想いまで疑うことはできなかった。
その直後に、宣下は下った。
誰もが知る騒ぎとなりながら、本当に事情を知る者だけが口を閉ざしている。
東風の沈黙は、別れの形をしていなかった。
むしろ何かを伏せたまま、張りつめながら待ち望んでいるようにさえ思えた。
あるいは、声を上げることの許されぬ場所に、今、東風の身があるのではないか。
紬路には、もう判じきれなかった。
「妾も、付いて行けるものなら……」
瑠衣は、そこまで言って幾度も唇を噛んだ。
此度の入侍は、東宮の傍へ召し上げられるということだ。
書司の私的女房を宮中に潜り込ませるのとは、訣が違う。
紬路は、瑠衣の前でだけ強がった。
「他に側室など迎えるお心積もりなら、破談にして帰って参りますわ」
そう繰り返すものの、声には思ったほどの力は乗らない。
更衣として召される自分こそ、正式な東宮妃ではなく、側室に過ぎない。
もし婚儀を結ぶことがあるなら。
他に側室を持たぬ方であってほしい。
密かに願ってきたのは、結局その一つだった。
否、瑠衣だけに吐露していた本心は、もっと正確に言えば東宮殿下に側室など取らないで欲しいというものだった。
しかし既に、これは紬路一人が拒めば済む話でもなかった。
それに――。
逃げたいのかと問われれば、答えは直ぐに出なかった。
東宮の御許へ上がると思うと、確かに怖ろしい。
更衣として召されることも、文子の洞見の通りなら破滅そのものだ。
撫子の笑みも、宮中の渡殿も、目を閉じればすぐそこに浮かぶ。
それでも、輿入れの先にあるのは、ただ冷たい御簾の奥だけではない気がしていた。
というより、――答えを知ることが怖い。
入侍が否応ないものなら、先に他人の口から聞かされたくない。
逃げ道がないのなら、せめて最後の答えだけは、自分の目で見届けたかった。
避け得ぬものが、形を取って迫り来る。
その気配だけが、日ごとに濃くなる。
佐伯の家に迷惑を掛ける訣にもいかない。
けれど胸のどこかには、そうしたこととは全く異なる予感があるのだ。
輿入れの先に何が待つのかは判らない。
それでも、その一寸先に、何かが紬路を待ち受けている気がしてならない。
あの六条別邸の庭で見た月夜へ続く、細い道が――
そう思ってしまうことさえ、紬路には畏れ多く、怖ろしかった。
もし、違っていたら。
もし、あの夜の熱も、言葉も。
紬路だけが抱いた夢だったなら。
それでも、やはり東風の気持ちを疑うことはできなかった。
東風が何も告げぬまま沈黙を選ぶのなら。
紬路もまた、その沈黙の奥にあるものを、独り信じていた。
ただ判らないでいるのは、あの方のご身分だけだ。
拒み切れぬのは、命じられた婚姻だけではない。
名も知らぬあの人へ自然と向かっていく、自らの気持ちでもあった。



