その翌々日の昼下がり、紬路と瑠衣は、つつ屋の帳場で並んで帳面を広げていた。
客足は一段落し、店内には紙を繰る音と、算盤の珠を弾く乾いた音ばかりが響いている。
ふいに、店先がざわりと揺れた。
顔を上げた紬路の前に、息を切らした男が現れる。
「お義兄さま……?」
佐伯翁の孫にして、姉の許嫁。
佐伯霍成だった。
普段の落ち着きが嘘のように、肩で息をしている。
袖口には土が跳ね、裾も乱れていた。
早馬を駆って来たものらしい。
「どうされまして?」
紬路が立ち上がる。
その一歩を詰めるより早く、霍成が口を開いた。
「――紬路」
その声には、急を告げるものがあった。
「落ち着いて聞け」
「……何が、ございましたの」
霍成は、一瞬だけ言葉を選ぶように眼差しを伏せた。
やがて顔を上げる。
「東宮妃として入侍とのこと、宣下が下った」
時間が、止まったように感じられた。
「……えっ」
思わず漏れた声は、ひどく間の抜けたものだった。
どうして、今更。
あれほど、唯一つの縁を欲しがっていた頃には、何の沙汰もなかった。
待って、待って、身を落とし、もう待つことを諦めた時になって。
なぜ今、手を差し伸べるような沙汰が下るのだろう。
「異例だが、更衣として」
続けられた言葉は、すぐには意味を結ばなかった。
東宮妃。
更衣入侍。
二つの言葉が、互いに押し合うように並んでいる。
どうにも噛み合わない。
けれど、離れもしない。
あり得ない筈のものを、一つの名で縛りつけたような、奇妙な歪みがあった。
――そして、破滅。
文子の洞見によれば、更衣入侍では破滅を避けられない。
紬路は、二の句を継げなくなった。
思わず額に手を当てる。
指先が冷たかった。
「……一寸、お待ちになって」
沈黙が落ちるより早く、瑠衣が言葉を引き取った。
奥から持って来た湯呑を、霍成の手へ押しつける。
「先ず、一口お飲みなさいませ。顔色が悪うございます」
霍成が茶を含むのを見届ける。
それから瑠衣は、眼差しに問いの色を戻した。
「それは、どういうことですの? 東宮妃は摂家からの女御入侍しかできない筈です」
「御代替わりがあまりにも急でな。左右大臣に、内大臣。どの家にも適う姫が居らぬ」
「ということは……」
「左様。太政大臣の新たな任命として摂家からの加階が検討されてはいる。だが、それを待たず、先ず東宮妃については、前の大納言家より繰り上げとなった」
霍成はそこで、僅かに言い淀んだ。
口にするには畏れ多い筋へ触れるための、慎重な間だった。
「皇統継嗣のご誕生に関わる御事は、……ゆめゆめ後手に回すべきものではない、というご判断だろう」
言ってから、霍成は一度目を伏せた。
己の言葉が踏み込んだ場所を、改めて慎むようだった。
「また、紬路には我が祖父の後見もある」
宮筋からの縁談を断った時とは違う。
佐伯の家にも、霍成にも、累が及ぶ。
そう悟った瞬間、視界がすっと白く引いた。
足元の感覚が消える。
「……紬路さまッ」
身体が前へ崩れかけたところを、後ろから強く支えられた。
瑠衣だ。
「――しっかりなさいませ!」
理解が追いつくより先に、別の像が浮かび上がる。
磨き上げられた宮中の渡殿。
その板敷の中央で、こちらを見返って微笑む顔。
――撫子。
崩れぬ笑みの裏にあるものが、はっきりと形を持って迫って来た。
入侍したら、破滅させられる。
「……撫子」
ぽつりと名が落ちた。
「きっと宮中に上がったら――」
声の端が、頼りなく揺れる。
東風に会う前の自分なら、きっと喜んだ沙汰の筈なのに。
「撫子に、縊り殺されるわ」
「そのようなことがありまして――!?」
「……否、可能性として高い。残念ながら」
霍成は、何かに気付いたように目を細めた。
瑠衣を遮る声は、感情を挟まぬほど静まっている。
「今現在、宮中において異能が行使された形跡がある」
「どういうことですの?」
「傀糸か、女であれば魅了の異能――」
その異能系統の名を聞いた瞬間、紬路は弾かれたように顔を上げた。
長台の上の帳面が、ばさりと床へ落ちる。
「――っ、それは……!」
声が、抑えきれずに跳ねた。
「以前から魅了について囁かれていた件、わたくし手がかりを知っているかもしれません。新帝の典侍に上がった、須賀家の撫子姫が……」
堰を切ったように、記憶が溢れた。
撫子の取り巻きたちの目。
同じ拍子で揃う笑み。
あの時、此方を探るように向けられた視線。
考えが追いつくより早く、言葉だけが零れていく。
自分がどれほど早口になっているかも、もう判らなかった。
その剣幕に、霍成が返したのは、ただ一言だった。
「――やはり」
すでに何かを追っていた者の響きだった。
「やはり……?」
「女学校の四年、五年を共にした者同士は、縁が強い。卒業して関係が散れば、詮議の目も届きにくくなる。そうと狙い定めて、一層大胆に操り始めたのだろう」
紬路は、撫子の人形のようになっていた同級たちの顔を思い返した。
「ただし、紬路本人に魅了を揮うことはできぬ。お前に術に掛けるには、互いに半目の感情が強過ぎるだろう。むしろ、物理的な実力行使に気を付けてくれ」
見世を探し当てて現れたのも、誰かに魅了を使って聞き出した結果なのだろう。
「異能は、現行の場でなければ追捕できん」
淡々と告げられた言葉に、紬路は唇を結んだ。
見れば判るはずの歪みが、法の上では形を持たないのだと思い知らされる。
「安心しろ。策は先んじて打ってある」
慰めではなかった。
もう事を動かしている者の、揺るがぬ手応えがあった。
「……操られている娘たちを見たことがあります。目撃証言でも足りないのかしら?」
どうにか食い下がろうとする切迫が、声に滲んでしまう。
霍成は目を伏せ、短く頷いた。
「余程の人数が、同じ場で目撃でもせねば難しい」
霍成の答えは冷静だった。
その口許に、ふと苦い笑みが過った。
人を裁く仕組みが、人を逃がす穴にもなる。
そのことを、誰より知っている顔だった。
「証拠立てがなければ、如何ようにも言い逃れができる。――異能など、本人が最大限の力を顕さねば、判じ難い」
沈黙が落ちた。
裁きで通る線は、厳粛に切り分けられるものでなければならない。
翻せば、何事かが起こり、誰かが傷付いても、因果が立たぬ限り、罪にはならない。
「……つまり」
紬路は、唇を湿して続けた。
「わたくしが殺されても、証立てはならず……罪には問えぬ、と」
その言葉こそが、相手の狙う穴だった。
「しかし、そうはさせん」
霍成は短く答えた。
慰めではなく、既に敷かれた策を知る声だ。
そこで、言葉を切る。
何を伏せ、何を明かすべきか。
その境を、慎重に選んでいるようだった。
「お前の疑義も考慮に入れ、詮議を進める。打ち出した策の方は、今はまだ仔細を明かすことができない」
客足は一段落し、店内には紙を繰る音と、算盤の珠を弾く乾いた音ばかりが響いている。
ふいに、店先がざわりと揺れた。
顔を上げた紬路の前に、息を切らした男が現れる。
「お義兄さま……?」
佐伯翁の孫にして、姉の許嫁。
佐伯霍成だった。
普段の落ち着きが嘘のように、肩で息をしている。
袖口には土が跳ね、裾も乱れていた。
早馬を駆って来たものらしい。
「どうされまして?」
紬路が立ち上がる。
その一歩を詰めるより早く、霍成が口を開いた。
「――紬路」
その声には、急を告げるものがあった。
「落ち着いて聞け」
「……何が、ございましたの」
霍成は、一瞬だけ言葉を選ぶように眼差しを伏せた。
やがて顔を上げる。
「東宮妃として入侍とのこと、宣下が下った」
時間が、止まったように感じられた。
「……えっ」
思わず漏れた声は、ひどく間の抜けたものだった。
どうして、今更。
あれほど、唯一つの縁を欲しがっていた頃には、何の沙汰もなかった。
待って、待って、身を落とし、もう待つことを諦めた時になって。
なぜ今、手を差し伸べるような沙汰が下るのだろう。
「異例だが、更衣として」
続けられた言葉は、すぐには意味を結ばなかった。
東宮妃。
更衣入侍。
二つの言葉が、互いに押し合うように並んでいる。
どうにも噛み合わない。
けれど、離れもしない。
あり得ない筈のものを、一つの名で縛りつけたような、奇妙な歪みがあった。
――そして、破滅。
文子の洞見によれば、更衣入侍では破滅を避けられない。
紬路は、二の句を継げなくなった。
思わず額に手を当てる。
指先が冷たかった。
「……一寸、お待ちになって」
沈黙が落ちるより早く、瑠衣が言葉を引き取った。
奥から持って来た湯呑を、霍成の手へ押しつける。
「先ず、一口お飲みなさいませ。顔色が悪うございます」
霍成が茶を含むのを見届ける。
それから瑠衣は、眼差しに問いの色を戻した。
「それは、どういうことですの? 東宮妃は摂家からの女御入侍しかできない筈です」
「御代替わりがあまりにも急でな。左右大臣に、内大臣。どの家にも適う姫が居らぬ」
「ということは……」
「左様。太政大臣の新たな任命として摂家からの加階が検討されてはいる。だが、それを待たず、先ず東宮妃については、前の大納言家より繰り上げとなった」
霍成はそこで、僅かに言い淀んだ。
口にするには畏れ多い筋へ触れるための、慎重な間だった。
「皇統継嗣のご誕生に関わる御事は、……ゆめゆめ後手に回すべきものではない、というご判断だろう」
言ってから、霍成は一度目を伏せた。
己の言葉が踏み込んだ場所を、改めて慎むようだった。
「また、紬路には我が祖父の後見もある」
宮筋からの縁談を断った時とは違う。
佐伯の家にも、霍成にも、累が及ぶ。
そう悟った瞬間、視界がすっと白く引いた。
足元の感覚が消える。
「……紬路さまッ」
身体が前へ崩れかけたところを、後ろから強く支えられた。
瑠衣だ。
「――しっかりなさいませ!」
理解が追いつくより先に、別の像が浮かび上がる。
磨き上げられた宮中の渡殿。
その板敷の中央で、こちらを見返って微笑む顔。
――撫子。
崩れぬ笑みの裏にあるものが、はっきりと形を持って迫って来た。
入侍したら、破滅させられる。
「……撫子」
ぽつりと名が落ちた。
「きっと宮中に上がったら――」
声の端が、頼りなく揺れる。
東風に会う前の自分なら、きっと喜んだ沙汰の筈なのに。
「撫子に、縊り殺されるわ」
「そのようなことがありまして――!?」
「……否、可能性として高い。残念ながら」
霍成は、何かに気付いたように目を細めた。
瑠衣を遮る声は、感情を挟まぬほど静まっている。
「今現在、宮中において異能が行使された形跡がある」
「どういうことですの?」
「傀糸か、女であれば魅了の異能――」
その異能系統の名を聞いた瞬間、紬路は弾かれたように顔を上げた。
長台の上の帳面が、ばさりと床へ落ちる。
「――っ、それは……!」
声が、抑えきれずに跳ねた。
「以前から魅了について囁かれていた件、わたくし手がかりを知っているかもしれません。新帝の典侍に上がった、須賀家の撫子姫が……」
堰を切ったように、記憶が溢れた。
撫子の取り巻きたちの目。
同じ拍子で揃う笑み。
あの時、此方を探るように向けられた視線。
考えが追いつくより早く、言葉だけが零れていく。
自分がどれほど早口になっているかも、もう判らなかった。
その剣幕に、霍成が返したのは、ただ一言だった。
「――やはり」
すでに何かを追っていた者の響きだった。
「やはり……?」
「女学校の四年、五年を共にした者同士は、縁が強い。卒業して関係が散れば、詮議の目も届きにくくなる。そうと狙い定めて、一層大胆に操り始めたのだろう」
紬路は、撫子の人形のようになっていた同級たちの顔を思い返した。
「ただし、紬路本人に魅了を揮うことはできぬ。お前に術に掛けるには、互いに半目の感情が強過ぎるだろう。むしろ、物理的な実力行使に気を付けてくれ」
見世を探し当てて現れたのも、誰かに魅了を使って聞き出した結果なのだろう。
「異能は、現行の場でなければ追捕できん」
淡々と告げられた言葉に、紬路は唇を結んだ。
見れば判るはずの歪みが、法の上では形を持たないのだと思い知らされる。
「安心しろ。策は先んじて打ってある」
慰めではなかった。
もう事を動かしている者の、揺るがぬ手応えがあった。
「……操られている娘たちを見たことがあります。目撃証言でも足りないのかしら?」
どうにか食い下がろうとする切迫が、声に滲んでしまう。
霍成は目を伏せ、短く頷いた。
「余程の人数が、同じ場で目撃でもせねば難しい」
霍成の答えは冷静だった。
その口許に、ふと苦い笑みが過った。
人を裁く仕組みが、人を逃がす穴にもなる。
そのことを、誰より知っている顔だった。
「証拠立てがなければ、如何ようにも言い逃れができる。――異能など、本人が最大限の力を顕さねば、判じ難い」
沈黙が落ちた。
裁きで通る線は、厳粛に切り分けられるものでなければならない。
翻せば、何事かが起こり、誰かが傷付いても、因果が立たぬ限り、罪にはならない。
「……つまり」
紬路は、唇を湿して続けた。
「わたくしが殺されても、証立てはならず……罪には問えぬ、と」
その言葉こそが、相手の狙う穴だった。
「しかし、そうはさせん」
霍成は短く答えた。
慰めではなく、既に敷かれた策を知る声だ。
そこで、言葉を切る。
何を伏せ、何を明かすべきか。
その境を、慎重に選んでいるようだった。
「お前の疑義も考慮に入れ、詮議を進める。打ち出した策の方は、今はまだ仔細を明かすことができない」



