その晩も、いつものように佐伯翁と東風との晩餐だった。
気付けば、こうして三人で顔を揃える夜が続いている。
当初の約束は、舞踏会までの逗留だった。
いつしか紬路の心は、六条に留まる理由許りを探すようになっていた。
東風と顔を合わせられること。
直橘から、身が狙われていると告げられたこと。
そのどちらにも引き留められるように、六条を去る日は、先へ先へと延びればよいと思って来たのだ。
背の高い卓子には、洋の献立が整えられ、銀食器が灯りを映している。
佐伯翁の前には、別に誂えられた煮物などが並んでいた。
見慣れた、いつもの光景だ。
それなのに、今夜の紬路はどうにも落ち着かなかった。
「今日の姫は、少しお疲れのようですな」
翁が、その煮物に箸をつけながら言った。
「いえ……その」
口を開きかけて、躊躇う。
言うまいとした迷いが、却って言葉を押し出した。
母に店まで乗り込まれ、胸の底からせり上がって来たものを、もう押し留めておけなかったのだ。
「本日、母が参りましたの……縁談を携えて」
告げた途端、東風の手許で銀食器の動きが止まった。
肉を切り分けていた刃先が、皿の上で静かに留まる。
「ほう」
翁は顔を上げた。
箸先はそのまま、器の上に置かれている。
次の言葉を待つ顔だった。
東風は何も言わない。
ただ杯に手を伸ばし、指を添え、ゆっくりと持ち上げた。
水面が僅かに揺れる。
それを見つめる間もなく、一息に呷った。
「お相手は……宮筋に連なる御方」
言う心算ではなかったのに、言葉はするりと零れた。
口にしてしまえば、母の持ち込んだ縁談がどれほど整った話であったのか、否応なく形を取る。
「治部省にお勤めの方からの、申し分のないお話でございました。……わたくしには、異能がないのですもの」
言ってしまってから、紬路は唇を引き結んだ。
治部省という名が、知らず東風の影へ触れてしまう。
その上、異能のことまで口にしていた。
滅多に明かして良いことではないというのに。
それでも、東風には知っておいて欲しい気もしていた。
「それはまた、随分と……」
翁の箸が、器の縁で止まった。
声には驚きよりも、事情を量るような間があった。
「お断りいたしました。母とは、少し口論になりましたけれど」
紬路は、自嘲するように微笑った。
断った事実だけを取り出せば、迷いはない筈だった。
「ですが――少し、考えてしまいまして」
口にすべきではない。
とりわけ、求婚にも似た言葉をくれた東風の前では。
まして、その言葉を忘れたわけでもない。
そう判っていながら、気付けば言葉は零れていた。
何でもないことのように。
少し考えただけだと、自分に言い訳するように。
「……破滅回避覚書、というものがございますの」
その名を出した瞬間、東風の指が止まる。
「友人の異能で記されたものです。……わたくしの行く末が、示されております」
「ほう」
翁は何かを測るように、目を細めた。
紬路がどこまで知っているのか、見極めているかのように。
「そこには――皇統、あるいは公卿に連なる方と縁を結ばねば、破滅に至ると」
口にしてから、遅れて重みが落ちて来た。
文子に責めが及ばなければよいのだが。
「しかも、更衣ではなく女御に至らねばならぬ。さもなくば破滅を避けられない、と」
銀食器に映る灯りが、僅かに揺れた。
ふと、翁と東風の視線が交わる。
瞬きほどの、短い目配せだった。
紬路は、それに気付かないまま続けた。
「異能のない娘が入内など、夢のまた夢ですのに」
自らを貶めるような物言いは、華族令嬢なら慎むべきことだ。
判っていても、もう止められなかった。
「その友人によると、わたくしは何者かの呪詞を受けているようです」
軽く述べている心算でも、その奥には、積み重ねてきた否定が滲んでいた。
「ですから……今日のお話は、理にかなっているのかもしれぬと、一瞬だけ」
そこで言葉が途切れた。
けれど、その一瞬に揺らいだことだけは、確かに残ってしまう。
「……それでも、断りました」
紬路は視線を外さず、東風をまっすぐに捉えた。
逃げぬことを、自らに課すように。
「意に、添わないことでしたので」
縁談は、正しい道だったのかもしれない。
破滅を遠ざけるという意味でも、家を繋ぐという意味でも。
母の言う通り、これ以上望めぬ話だった。
けれど、書付の名を見た時――。
紬路の奥に浮かんだのは安堵ではなかった。
月の下で、攫っていけたらと囁いた声。
白い手袋の端で触れた、ほんの一瞬の熱。
まだ離れたくない、と告げた東風の眼差し。
理で測れば、あの縁談を選ぶべきだった。
けれど心はもう、別の名へ傾いていた。
たとえ、その先に破滅の影が差しているのだとしても。
もう、何も知らず何も持たなかった頃の娘には戻れなかった。
沈黙が落ちた。
東風は、ゆっくりと杯を卓子へ戻した。
「……どうかなさいました?」
問いかけても、東風はすぐには答えなかった。
落とされた視線の先で、杯の水面だけが微かに揺れている。
「――少し、食欲が失せました」
口調は変わらない。
けれど、置かれた言葉だけが硬かった。
「失礼いたします」
椅子を引く音が、やけに大きく響いた。
翁が何かを言いかけたが、東風は振り返らず、そのまま食堂を出て行った。
紬路は、ただ呆然とその背を見送った。
「……さて」
やがて、翁が小さく息を吐いた。
「少々、話が早過ぎたかもしれんな」
「え……?」
問い返すが、それ以上は何も語られない。
卓上の蝋燭の灯りだけが、変わらず揺れている。
東風が食堂を辞して間もなくのこと。
紬路の義兄、佐伯霍成は六条別邸の廊の端へ召された。
東風は、夜気の冷えた庭先、灯の届かぬ柱陰に立っていた。
晩餐の始めにあった和やぎは、もうどこにもない。
黒曜石のような眸だけが、夜の底で冴え渡っている。
「霍成」
「は」
霍成は間を置かず、膝を折った。
「もう待たぬ。紬路に――」
そこで一度、東風は目を伏せた。
告げようとする言葉を、口の中で最後に確かめるように。
「宣旨を遣わす。外は断て」
「は」
「縁談、流言、悉く」
「委細、承知仕りました」
下命は短かった。
だが霍成は、それが一時の熱から出たものではないと知っている。
長く押し留められていたものを、漸く外へ出した調子であらせられる。
密命を受けてから、もう久しい――、と。
「遅れた報いだ。……よく耐えてくれた」
東風は、誰へともなく零した。
その視線は釣殿の先、月を映す池へ落ちている。
水面の光が、微かに砕けた。
その揺らぎを見届けるように、東風はしばし動かなかった。
やがて庭の闇へ身を返す。
その背には、決意よりもなお深い悔いが沈んでいた。
霍成は、終始ただ深く頭を垂れていた。
その夜を境に、東風の姿は、佐伯翁の六条別邸の晩餐から消えた。
気付けば、こうして三人で顔を揃える夜が続いている。
当初の約束は、舞踏会までの逗留だった。
いつしか紬路の心は、六条に留まる理由許りを探すようになっていた。
東風と顔を合わせられること。
直橘から、身が狙われていると告げられたこと。
そのどちらにも引き留められるように、六条を去る日は、先へ先へと延びればよいと思って来たのだ。
背の高い卓子には、洋の献立が整えられ、銀食器が灯りを映している。
佐伯翁の前には、別に誂えられた煮物などが並んでいた。
見慣れた、いつもの光景だ。
それなのに、今夜の紬路はどうにも落ち着かなかった。
「今日の姫は、少しお疲れのようですな」
翁が、その煮物に箸をつけながら言った。
「いえ……その」
口を開きかけて、躊躇う。
言うまいとした迷いが、却って言葉を押し出した。
母に店まで乗り込まれ、胸の底からせり上がって来たものを、もう押し留めておけなかったのだ。
「本日、母が参りましたの……縁談を携えて」
告げた途端、東風の手許で銀食器の動きが止まった。
肉を切り分けていた刃先が、皿の上で静かに留まる。
「ほう」
翁は顔を上げた。
箸先はそのまま、器の上に置かれている。
次の言葉を待つ顔だった。
東風は何も言わない。
ただ杯に手を伸ばし、指を添え、ゆっくりと持ち上げた。
水面が僅かに揺れる。
それを見つめる間もなく、一息に呷った。
「お相手は……宮筋に連なる御方」
言う心算ではなかったのに、言葉はするりと零れた。
口にしてしまえば、母の持ち込んだ縁談がどれほど整った話であったのか、否応なく形を取る。
「治部省にお勤めの方からの、申し分のないお話でございました。……わたくしには、異能がないのですもの」
言ってしまってから、紬路は唇を引き結んだ。
治部省という名が、知らず東風の影へ触れてしまう。
その上、異能のことまで口にしていた。
滅多に明かして良いことではないというのに。
それでも、東風には知っておいて欲しい気もしていた。
「それはまた、随分と……」
翁の箸が、器の縁で止まった。
声には驚きよりも、事情を量るような間があった。
「お断りいたしました。母とは、少し口論になりましたけれど」
紬路は、自嘲するように微笑った。
断った事実だけを取り出せば、迷いはない筈だった。
「ですが――少し、考えてしまいまして」
口にすべきではない。
とりわけ、求婚にも似た言葉をくれた東風の前では。
まして、その言葉を忘れたわけでもない。
そう判っていながら、気付けば言葉は零れていた。
何でもないことのように。
少し考えただけだと、自分に言い訳するように。
「……破滅回避覚書、というものがございますの」
その名を出した瞬間、東風の指が止まる。
「友人の異能で記されたものです。……わたくしの行く末が、示されております」
「ほう」
翁は何かを測るように、目を細めた。
紬路がどこまで知っているのか、見極めているかのように。
「そこには――皇統、あるいは公卿に連なる方と縁を結ばねば、破滅に至ると」
口にしてから、遅れて重みが落ちて来た。
文子に責めが及ばなければよいのだが。
「しかも、更衣ではなく女御に至らねばならぬ。さもなくば破滅を避けられない、と」
銀食器に映る灯りが、僅かに揺れた。
ふと、翁と東風の視線が交わる。
瞬きほどの、短い目配せだった。
紬路は、それに気付かないまま続けた。
「異能のない娘が入内など、夢のまた夢ですのに」
自らを貶めるような物言いは、華族令嬢なら慎むべきことだ。
判っていても、もう止められなかった。
「その友人によると、わたくしは何者かの呪詞を受けているようです」
軽く述べている心算でも、その奥には、積み重ねてきた否定が滲んでいた。
「ですから……今日のお話は、理にかなっているのかもしれぬと、一瞬だけ」
そこで言葉が途切れた。
けれど、その一瞬に揺らいだことだけは、確かに残ってしまう。
「……それでも、断りました」
紬路は視線を外さず、東風をまっすぐに捉えた。
逃げぬことを、自らに課すように。
「意に、添わないことでしたので」
縁談は、正しい道だったのかもしれない。
破滅を遠ざけるという意味でも、家を繋ぐという意味でも。
母の言う通り、これ以上望めぬ話だった。
けれど、書付の名を見た時――。
紬路の奥に浮かんだのは安堵ではなかった。
月の下で、攫っていけたらと囁いた声。
白い手袋の端で触れた、ほんの一瞬の熱。
まだ離れたくない、と告げた東風の眼差し。
理で測れば、あの縁談を選ぶべきだった。
けれど心はもう、別の名へ傾いていた。
たとえ、その先に破滅の影が差しているのだとしても。
もう、何も知らず何も持たなかった頃の娘には戻れなかった。
沈黙が落ちた。
東風は、ゆっくりと杯を卓子へ戻した。
「……どうかなさいました?」
問いかけても、東風はすぐには答えなかった。
落とされた視線の先で、杯の水面だけが微かに揺れている。
「――少し、食欲が失せました」
口調は変わらない。
けれど、置かれた言葉だけが硬かった。
「失礼いたします」
椅子を引く音が、やけに大きく響いた。
翁が何かを言いかけたが、東風は振り返らず、そのまま食堂を出て行った。
紬路は、ただ呆然とその背を見送った。
「……さて」
やがて、翁が小さく息を吐いた。
「少々、話が早過ぎたかもしれんな」
「え……?」
問い返すが、それ以上は何も語られない。
卓上の蝋燭の灯りだけが、変わらず揺れている。
東風が食堂を辞して間もなくのこと。
紬路の義兄、佐伯霍成は六条別邸の廊の端へ召された。
東風は、夜気の冷えた庭先、灯の届かぬ柱陰に立っていた。
晩餐の始めにあった和やぎは、もうどこにもない。
黒曜石のような眸だけが、夜の底で冴え渡っている。
「霍成」
「は」
霍成は間を置かず、膝を折った。
「もう待たぬ。紬路に――」
そこで一度、東風は目を伏せた。
告げようとする言葉を、口の中で最後に確かめるように。
「宣旨を遣わす。外は断て」
「は」
「縁談、流言、悉く」
「委細、承知仕りました」
下命は短かった。
だが霍成は、それが一時の熱から出たものではないと知っている。
長く押し留められていたものを、漸く外へ出した調子であらせられる。
密命を受けてから、もう久しい――、と。
「遅れた報いだ。……よく耐えてくれた」
東風は、誰へともなく零した。
その視線は釣殿の先、月を映す池へ落ちている。
水面の光が、微かに砕けた。
その揺らぎを見届けるように、東風はしばし動かなかった。
やがて庭の闇へ身を返す。
その背には、決意よりもなお深い悔いが沈んでいた。
霍成は、終始ただ深く頭を垂れていた。
その夜を境に、東風の姿は、佐伯翁の六条別邸の晩餐から消えた。



