見世蔵を任されるとは、ただ店を預かることではない。
居場所を世に知らしめ、いつ訪れても構わぬ者として置かれるということらしい。
舞踏会から明けて数日。
紬路が瑠衣とつつ屋に詰めていると、店先に人力俥が止まった。
使い古された幌に、馴染みのある和泉家の家紋が小さく染め抜かれている。
その幌が退けられ、母がゆっくりと降り立った。
帳場で計算していた瑠衣も気付いたらしい。
面倒事になる、見られたくない――そう言わんばかりに奥へ身を引いて行く。
見世に入って来た母は、その後ろ姿をちらりと見やった。
だが、別段気に留める様子もなく、紬路のいる帳場へ歩み寄って来る。
紬路は、反射的に絵羽見本を閉じた。
――この人に、誂えてやりたい着物など一つもない。
「……お久しゅうございます、お母さま」
母は挨拶もそこそこに、店内を一巡り見渡した。
棚や箪笥の抽斗を、値踏みするように目で追ってゆく。
「随分と、賑やかにしているようね」
「商いでございますから」
「商い」
母は、その言葉をゆっくりと繰り返した。
唇の端が、ほんの僅かに持ち上がる。
嘲りとも、呆れともつかぬ薄い笑みだった。
「和泉の娘が、見世で客を迎えるとは。……よくもまあ此処まで」
その一語一語が、薄く研がれた刃のように肌をなぞる。
「御用向きは、それだけではございませんのでしょう」
「ええ、話があるのよ」
母は袖の内へ手を差し入れた。
「お前のような立場になって、これ以上望めるものでもない。先方も、多少のことは目を瞑ると仰っている」
先方――。
その言葉だけで、紬路には判った。
縁談だ。
「これ以上、妙な振る舞いを続ける前に決めなさい。これが最後の機会よ」
父が大納言を退いた今、和泉家に先々の頼みはない。
縁談を選べる時期は過ぎている。
母は、そう言っているのだろう。
「舞踏会での振る舞いは聞いているわ。――人の目の集まる場所で目立ち過ぎよ。……でも、渡りに船だわ。お前を貰ってくださるという方があるの」
紬路は、差し出された書付に目を落とした。
先に母の手によって封を切られていたことは、今更驚くにも当たらない。
差出人には、治部省の任にある宮家の御方の名があった。
舞踏帳に記された手跡と同じ癖がある。
舞踏会で一度、申し込んでくださった方である。
実直なお人柄なのだろう。
別段、厭な印象を持ってはいない。
二等以下の宮筋であれば、紬路に異能がないことも重くは見られまい。
血筋が整い、継承を滞りなく果たし、正式な皇統を脅かす程の異能は持たぬ娘。
そう考えれば、紬路は恰度よい相手なのだろう。
母が目の色を変えるだけの理屈はある、良い縁談だった。
「ありがたきお話にございます。……ですが」
母の眼が、すっと細まる。
「何?」
逃げれば、此処で終わる。
破滅しない道かもしれない。
だが、そこに紬路の望むものは一つもない。
紬路は、息を吸った。
「……既に心に決めた方が、有ります」
沈黙が落ちた。
ほんの一瞬。
だが、永く引き延ばされたような間。
「何ですって。……どんな地下人を」
問い詰める響き。
それでも紬路は視線を逸らさなかった。
「申し上げる必要はございません」
「紬路ッ!!」
ぱん、と乾いた音が店内に響いた。
視界が揺れ、遅れて頬に熱が走る。
見世蔵の奥で、瑠衣が腰を浮かしたような物音がした。
打たれたのだと理解するより先に、身体が一歩だけよろめく。
涙が滲みそうになる。
それでも、紬路はゆっくりと顔を戻し、まっすぐに母を見返した。
「自分が何を言っているのか、解っているの」
「はい」
間髪入れず、答える。
「分かっております」
母の顔から、表情が消えた。
「公卿からのご縁談を断るというのよ」
「承知しております」
「見世物になって、どんな地下人と情を交わしたというの。この尻軽娘が!」
打ち据えた手が、そのまま宙で止まっている。
次の言葉次第では、もう一度振り抜く。
そう言わんばかりの気配だった。
「……わたくしは、その方と共に在りたいのです」
「愚かね。何者か判らない男に騙されて、全てを失う」
嘲笑るための言葉だったのだろう。
否、もう評判も何も、紬路には残されてはいない。
けれど、一つだけある。
東風と過ごす時間だ。
手を取られる時の熱。
反物越しに交わす言葉。
月の下で、攫っていけたらと囁かれた夜。
それだけは、誰にも奪えない。
「どこの馬の骨とも知れぬ男が、お前に釣り合うとでも?」
――試されている。
立場でも、家でもない。
紬路自身の中にあるものを。
痛む頬を意識しながら、紬路は微笑んでみせた。
「釣り合うかどうかではございません」
「お前にはもう、和泉の娘だった名しか残っていないのに」
「わたくしが、選ぶのです」
母の目が、見開かれた。
支配の外へ出た娘を見る目だった。
その奥に、はじめて動揺が見える。
偏愛と言えるほどに守り、決して傷付けぬよう囲いながら、紬路の取り柄は顔だけだと言い続けてきた人。
その顔を、母は躊躇いもなく打ったのだ。
「……帰ってくださいませ、お母さま」
書付には一度も触れないまま、頬を庇い、静かに告げる。
「このお話は、お受けいたしません」
母は暫く動かなかった。
やがて、ゆっくりと書付を袂に押し込む。
何かを言いかけて――止め、踵を返して去って行った。
暖簾の向こうへ母の姿が消えても、紬路はすぐには動けなかった。
頬に触れる。
打たれた熱は、まだ残っている。
あの一打ちで判った。
もう母の望む娘には戻れない。
否、戻りたくないのだと。
居場所を世に知らしめ、いつ訪れても構わぬ者として置かれるということらしい。
舞踏会から明けて数日。
紬路が瑠衣とつつ屋に詰めていると、店先に人力俥が止まった。
使い古された幌に、馴染みのある和泉家の家紋が小さく染め抜かれている。
その幌が退けられ、母がゆっくりと降り立った。
帳場で計算していた瑠衣も気付いたらしい。
面倒事になる、見られたくない――そう言わんばかりに奥へ身を引いて行く。
見世に入って来た母は、その後ろ姿をちらりと見やった。
だが、別段気に留める様子もなく、紬路のいる帳場へ歩み寄って来る。
紬路は、反射的に絵羽見本を閉じた。
――この人に、誂えてやりたい着物など一つもない。
「……お久しゅうございます、お母さま」
母は挨拶もそこそこに、店内を一巡り見渡した。
棚や箪笥の抽斗を、値踏みするように目で追ってゆく。
「随分と、賑やかにしているようね」
「商いでございますから」
「商い」
母は、その言葉をゆっくりと繰り返した。
唇の端が、ほんの僅かに持ち上がる。
嘲りとも、呆れともつかぬ薄い笑みだった。
「和泉の娘が、見世で客を迎えるとは。……よくもまあ此処まで」
その一語一語が、薄く研がれた刃のように肌をなぞる。
「御用向きは、それだけではございませんのでしょう」
「ええ、話があるのよ」
母は袖の内へ手を差し入れた。
「お前のような立場になって、これ以上望めるものでもない。先方も、多少のことは目を瞑ると仰っている」
先方――。
その言葉だけで、紬路には判った。
縁談だ。
「これ以上、妙な振る舞いを続ける前に決めなさい。これが最後の機会よ」
父が大納言を退いた今、和泉家に先々の頼みはない。
縁談を選べる時期は過ぎている。
母は、そう言っているのだろう。
「舞踏会での振る舞いは聞いているわ。――人の目の集まる場所で目立ち過ぎよ。……でも、渡りに船だわ。お前を貰ってくださるという方があるの」
紬路は、差し出された書付に目を落とした。
先に母の手によって封を切られていたことは、今更驚くにも当たらない。
差出人には、治部省の任にある宮家の御方の名があった。
舞踏帳に記された手跡と同じ癖がある。
舞踏会で一度、申し込んでくださった方である。
実直なお人柄なのだろう。
別段、厭な印象を持ってはいない。
二等以下の宮筋であれば、紬路に異能がないことも重くは見られまい。
血筋が整い、継承を滞りなく果たし、正式な皇統を脅かす程の異能は持たぬ娘。
そう考えれば、紬路は恰度よい相手なのだろう。
母が目の色を変えるだけの理屈はある、良い縁談だった。
「ありがたきお話にございます。……ですが」
母の眼が、すっと細まる。
「何?」
逃げれば、此処で終わる。
破滅しない道かもしれない。
だが、そこに紬路の望むものは一つもない。
紬路は、息を吸った。
「……既に心に決めた方が、有ります」
沈黙が落ちた。
ほんの一瞬。
だが、永く引き延ばされたような間。
「何ですって。……どんな地下人を」
問い詰める響き。
それでも紬路は視線を逸らさなかった。
「申し上げる必要はございません」
「紬路ッ!!」
ぱん、と乾いた音が店内に響いた。
視界が揺れ、遅れて頬に熱が走る。
見世蔵の奥で、瑠衣が腰を浮かしたような物音がした。
打たれたのだと理解するより先に、身体が一歩だけよろめく。
涙が滲みそうになる。
それでも、紬路はゆっくりと顔を戻し、まっすぐに母を見返した。
「自分が何を言っているのか、解っているの」
「はい」
間髪入れず、答える。
「分かっております」
母の顔から、表情が消えた。
「公卿からのご縁談を断るというのよ」
「承知しております」
「見世物になって、どんな地下人と情を交わしたというの。この尻軽娘が!」
打ち据えた手が、そのまま宙で止まっている。
次の言葉次第では、もう一度振り抜く。
そう言わんばかりの気配だった。
「……わたくしは、その方と共に在りたいのです」
「愚かね。何者か判らない男に騙されて、全てを失う」
嘲笑るための言葉だったのだろう。
否、もう評判も何も、紬路には残されてはいない。
けれど、一つだけある。
東風と過ごす時間だ。
手を取られる時の熱。
反物越しに交わす言葉。
月の下で、攫っていけたらと囁かれた夜。
それだけは、誰にも奪えない。
「どこの馬の骨とも知れぬ男が、お前に釣り合うとでも?」
――試されている。
立場でも、家でもない。
紬路自身の中にあるものを。
痛む頬を意識しながら、紬路は微笑んでみせた。
「釣り合うかどうかではございません」
「お前にはもう、和泉の娘だった名しか残っていないのに」
「わたくしが、選ぶのです」
母の目が、見開かれた。
支配の外へ出た娘を見る目だった。
その奥に、はじめて動揺が見える。
偏愛と言えるほどに守り、決して傷付けぬよう囲いながら、紬路の取り柄は顔だけだと言い続けてきた人。
その顔を、母は躊躇いもなく打ったのだ。
「……帰ってくださいませ、お母さま」
書付には一度も触れないまま、頬を庇い、静かに告げる。
「このお話は、お受けいたしません」
母は暫く動かなかった。
やがて、ゆっくりと書付を袂に押し込む。
何かを言いかけて――止め、踵を返して去って行った。
暖簾の向こうへ母の姿が消えても、紬路はすぐには動けなかった。
頬に触れる。
打たれた熱は、まだ残っている。
あの一打ちで判った。
もう母の望む娘には戻れない。
否、戻りたくないのだと。



