六条別邸の車宿に、馬車が緩やかに着いた。
窓の外では、門前の灯りが既に落とされ、夜の闇だけが静かに広がっている。
「……遅くなりましたね。翁はもう、お休みでしょう」
東風が言い添えた。
東風はいつも、晩餐を終えると庭先から宵闇へ消えていく。
行き先は判らない。
けれど従者の控え方も、馬の整えも、ただの客人のそれではなかった。
「もう少し、あなたと居たい」
手を引かれるまま、紬路は馬車を降りた。
降り立っても、その手は離されない。
二人は手を繋いだまま、六条別邸の庭へ足を踏み入れた。
冠木門を潜ると、灯りの尽きた道が奥へ続いている。
庭木戸は使わず、枝折戸も避ける。
張り出した枝をくぐり、置き石を迂回し、植え込みの脇へ回った。
砂利を踏む音ばかりが、冴え冴えと耳に残る。
やがて木立の切れ間に、池の水面が見え始めた。
夜目にも黒い水が、月を抱いて仄かに揺れている。
縁にはぼんやりと灯りが残され、庭は昼とはまるで別の顔をしていた。
端正に剪定された松の影。
白く浮かぶ飛び石。
雲間から差す月の光。
その淡い明かりの中で、繋がれた手だけがはっきりと熱を持っていた。
「このまま、あなたを攫っていけたらいいのに」
東風は、小さな池のほとりで足を止めた。
水面は暗く、底知れぬ色を湛えている。
月だけが、揺れるたびに細く砕けた。
「何のしがらみもなく、ただこのまま」
華族令嬢に生まれた。
けれど今の紬路は、もう何も持たぬ身のようでもあった。
名も。
立場も。
これまで積み重ねてきたものも。
全て置いて、この人に身一つで連れ去られたなら、どれほど楽だろう。
東風は、どこへ帰るのかも、何者なのかも明かさない。
ただこうして隣に立つ。
手を引く。
視線を絡める。
それだけで、在ってはならないものが紬路の内で動いてしまう。
この腕に引き寄せられれば、きっと抗う術を失う。
何も知らぬまま、すべてを委ねてしまいそうになる。
「……いけません」
漸く、言葉を返した。
けれど、何がいけないのか。
それを形にするより早く、東風の腕が伸びる。
次の瞬間には、引き寄せられていた。
息が止まるほど近い。
薄物の夜会用洋礼装越しに、体温まで重なる。
胸許へ手を添えて押し返してみるが、東風の身体は少しも退かなかった。
舞踏の時とは違う。
導くためではなく、ただ離したくないという抱き方だった。
「踊りでもございませんし……」
それ以上は続かなかった。
理由になっていない。
紬路自身にも判っている。
舞踏なら許されるのか。
夜の庭でなければよいのか。
名を告げられれば、立場を明かされれば、この腕の中にいてよいのか。
どれも違う。
違うのに、離れようとする腕の力がもう入らない。
「……ああ」
東風の吐いた息が、耳元を掠めた。
腕は緩まない。
「理由など要らないでしょう。唯、あなたを好いているのです」
拒みきれぬことを、すでに見抜いているかのように。
諭すでもなく、覆す余地も与えぬ言い切りだった。
「月は美しく、私たちは惹かれ合っている。何がいけませんか」
正しかった筈の境が曖昧になっていく。
どこまでが許されず、どこからが許されるのか。
その線を、もう見出せない。
女学校の同級から言われるような言葉が、ふいに浮かんで来る。
くすくすと笑う気配。
わざと聞こえるように交わされる囁き。
何も持たぬ娘と、掌を返された。
値踏みする視線に、幾度晒されてきただろう。
選ばれることのない身。
並べられることすらない存在。
人から、そう決めつけられてきた。
――破滅。
――そのままだと、紬路、あなた破滅するわよ。
既に社会的に抹殺されているも同然の身だ。
破滅という言葉が、もしも異国での意味を指すのならば――
更に奥へと踏み込むこと。
もう引き返せぬところまで、深く……
触れられ、奪われ、守られてきた最後の一線さえも、東風と超えるという意味であるなら――
失うものなど、疾うにない。
もう、心が奪われているのだ。
それを破滅と呼ぶのならば。
わたくしはもう、破滅しているのだ。
暫くあって、東風は名残惜しそうに身体を離した。
触れていた温もりがほどけ、夜気がひやりと差し込む。
池の面は鏡のように月を抱いている。
風が渡るたび、砕けた光が揺れてはまた寄り集まっていた。
見上げれば、雲の切れ間から現れている月が、六条別邸の庭を一息に照らしている。
「あなたは、欲しいものが何かありますか」
置かれた問いには、請うような切実さがあった。
距離は戻った筈なのに、視線だけは離れない。
逃げ場を与えぬまま、選ばせようとしている。
力尽くで奪うこともできる身でありながら、ただ紬路の答えを待っている。
「……わたくしに、選べと仰言るのですか」
此処で求められているのは、答えではなく覚悟だと知る。
たった一つ口にした望みが、幾人もの運命、千年も続く流れを、傾けてしまうというような。
それほどの重みが、この問いにはあった。
「私の手に入らないものは、何もありません」
東風は悲しく微笑みながら、言い切った。
誇示ではない、ただの事実のように。
その言葉が、夜の静けさに深く沈む。
「私は、……それを許される身だから」
声は更に低く、揺るぎなく続いた。
誰にも覆せぬ立場からの宣言だった。
それでも猶、押し付ける気配はない。
望めば全てを動かせる人が、ただ紬路の答えだけを待っている。
紬路は、ゆっくりと目を上げた。
本当に好いてくれているのだと、その確かさが深く残った。
「わたくしの欲しいもの、それは……美しい絹……」
破滅と後ろ指を指されることなく、この恋を全うすること。
誰に恥じることもなく、東風の隣に並び立てること。
けれどその名を、まだ唇へ載せることはできなかった。
望みはあまりに近く、あまりに眩しく、口にした途端、戻れぬものになってしまいそうだった。
紬路は息を整え、水面へ落ちた月影を瞶めた。
「美しい絹を、外つ国へ渡したいのです。あなたの見る、その道をわたくしも見てみたい」
窓の外では、門前の灯りが既に落とされ、夜の闇だけが静かに広がっている。
「……遅くなりましたね。翁はもう、お休みでしょう」
東風が言い添えた。
東風はいつも、晩餐を終えると庭先から宵闇へ消えていく。
行き先は判らない。
けれど従者の控え方も、馬の整えも、ただの客人のそれではなかった。
「もう少し、あなたと居たい」
手を引かれるまま、紬路は馬車を降りた。
降り立っても、その手は離されない。
二人は手を繋いだまま、六条別邸の庭へ足を踏み入れた。
冠木門を潜ると、灯りの尽きた道が奥へ続いている。
庭木戸は使わず、枝折戸も避ける。
張り出した枝をくぐり、置き石を迂回し、植え込みの脇へ回った。
砂利を踏む音ばかりが、冴え冴えと耳に残る。
やがて木立の切れ間に、池の水面が見え始めた。
夜目にも黒い水が、月を抱いて仄かに揺れている。
縁にはぼんやりと灯りが残され、庭は昼とはまるで別の顔をしていた。
端正に剪定された松の影。
白く浮かぶ飛び石。
雲間から差す月の光。
その淡い明かりの中で、繋がれた手だけがはっきりと熱を持っていた。
「このまま、あなたを攫っていけたらいいのに」
東風は、小さな池のほとりで足を止めた。
水面は暗く、底知れぬ色を湛えている。
月だけが、揺れるたびに細く砕けた。
「何のしがらみもなく、ただこのまま」
華族令嬢に生まれた。
けれど今の紬路は、もう何も持たぬ身のようでもあった。
名も。
立場も。
これまで積み重ねてきたものも。
全て置いて、この人に身一つで連れ去られたなら、どれほど楽だろう。
東風は、どこへ帰るのかも、何者なのかも明かさない。
ただこうして隣に立つ。
手を引く。
視線を絡める。
それだけで、在ってはならないものが紬路の内で動いてしまう。
この腕に引き寄せられれば、きっと抗う術を失う。
何も知らぬまま、すべてを委ねてしまいそうになる。
「……いけません」
漸く、言葉を返した。
けれど、何がいけないのか。
それを形にするより早く、東風の腕が伸びる。
次の瞬間には、引き寄せられていた。
息が止まるほど近い。
薄物の夜会用洋礼装越しに、体温まで重なる。
胸許へ手を添えて押し返してみるが、東風の身体は少しも退かなかった。
舞踏の時とは違う。
導くためではなく、ただ離したくないという抱き方だった。
「踊りでもございませんし……」
それ以上は続かなかった。
理由になっていない。
紬路自身にも判っている。
舞踏なら許されるのか。
夜の庭でなければよいのか。
名を告げられれば、立場を明かされれば、この腕の中にいてよいのか。
どれも違う。
違うのに、離れようとする腕の力がもう入らない。
「……ああ」
東風の吐いた息が、耳元を掠めた。
腕は緩まない。
「理由など要らないでしょう。唯、あなたを好いているのです」
拒みきれぬことを、すでに見抜いているかのように。
諭すでもなく、覆す余地も与えぬ言い切りだった。
「月は美しく、私たちは惹かれ合っている。何がいけませんか」
正しかった筈の境が曖昧になっていく。
どこまでが許されず、どこからが許されるのか。
その線を、もう見出せない。
女学校の同級から言われるような言葉が、ふいに浮かんで来る。
くすくすと笑う気配。
わざと聞こえるように交わされる囁き。
何も持たぬ娘と、掌を返された。
値踏みする視線に、幾度晒されてきただろう。
選ばれることのない身。
並べられることすらない存在。
人から、そう決めつけられてきた。
――破滅。
――そのままだと、紬路、あなた破滅するわよ。
既に社会的に抹殺されているも同然の身だ。
破滅という言葉が、もしも異国での意味を指すのならば――
更に奥へと踏み込むこと。
もう引き返せぬところまで、深く……
触れられ、奪われ、守られてきた最後の一線さえも、東風と超えるという意味であるなら――
失うものなど、疾うにない。
もう、心が奪われているのだ。
それを破滅と呼ぶのならば。
わたくしはもう、破滅しているのだ。
暫くあって、東風は名残惜しそうに身体を離した。
触れていた温もりがほどけ、夜気がひやりと差し込む。
池の面は鏡のように月を抱いている。
風が渡るたび、砕けた光が揺れてはまた寄り集まっていた。
見上げれば、雲の切れ間から現れている月が、六条別邸の庭を一息に照らしている。
「あなたは、欲しいものが何かありますか」
置かれた問いには、請うような切実さがあった。
距離は戻った筈なのに、視線だけは離れない。
逃げ場を与えぬまま、選ばせようとしている。
力尽くで奪うこともできる身でありながら、ただ紬路の答えを待っている。
「……わたくしに、選べと仰言るのですか」
此処で求められているのは、答えではなく覚悟だと知る。
たった一つ口にした望みが、幾人もの運命、千年も続く流れを、傾けてしまうというような。
それほどの重みが、この問いにはあった。
「私の手に入らないものは、何もありません」
東風は悲しく微笑みながら、言い切った。
誇示ではない、ただの事実のように。
その言葉が、夜の静けさに深く沈む。
「私は、……それを許される身だから」
声は更に低く、揺るぎなく続いた。
誰にも覆せぬ立場からの宣言だった。
それでも猶、押し付ける気配はない。
望めば全てを動かせる人が、ただ紬路の答えだけを待っている。
紬路は、ゆっくりと目を上げた。
本当に好いてくれているのだと、その確かさが深く残った。
「わたくしの欲しいもの、それは……美しい絹……」
破滅と後ろ指を指されることなく、この恋を全うすること。
誰に恥じることもなく、東風の隣に並び立てること。
けれどその名を、まだ唇へ載せることはできなかった。
望みはあまりに近く、あまりに眩しく、口にした途端、戻れぬものになってしまいそうだった。
紬路は息を整え、水面へ落ちた月影を瞶めた。
「美しい絹を、外つ国へ渡したいのです。あなたの見る、その道をわたくしも見てみたい」



