見世蔵のつつじ姫 〜異能なし令嬢は、東宮さまに溺愛される〜

 曲が終わっても、回転の余韻は消えなかった。

 他の初披露目(デビュタント)の娘たちも、途中から右回りで舞踏に加わり始めた。
 けれど先陣を切り、正しい作法で舞い切った紬路(つつじ)は、いつしかこの夜会の中心となっていた。

「――申し上げたでしょう」

 最後の曲を踊りながら、東風(こち)(わず)かに口元を(ゆる)める。

「最初と最後と、それに円舞曲(ワルツ)は私と踊ると」

 紬路(つつじ)は、言葉を返せなかった。
 ただ、胸の奥で確かに理解していた。

 ――わたくしは、東風(こち)に惹かれているのかもしれない、と。

 舞踏会が終わり、共に馬車に乗り込む。
 六条へ向かう道は静かで、先程までの音楽も(ざわ)めきも、遠い別の世界の出来事のようだった。

 向かいに座る東風(こち)は、既に白い手袋(グローヴ)を外している。
 その手が、膝の上で静かに組まれていた。

 紬路(つつじ)窓掛(カーテン)を閉め、視線を自分の指先へ落とす。
 まだ、回転の名残が身体に残っている。
 あの腕の中で感じた熱が、完全には引いていなかった。

「……舞踏会は」

 東風(こち)が、静かに口を開いた。

「大成功でした。あなたは、あの場に相応しかった」

 一瞬、沈黙が落ちる。
 評価なのか、賞賛なのか。
 馬車の揺れが、(わず)かに二人の距離を動かした。

「佐伯(おう)に御後見を頂いておりますもの。みっともない真似はできませんわ」

 絞り出した言葉は、どこか他人行儀だった。
 けれど東風(こち)は、ゆるく首を横に振った。

「違う」

 はっきりとした否定だった。

「あなたのお陰です」

 その言い方には、賛辞だけではないものがあった。
 成功の結果を、安堵をもって迎えた者の感謝が(こも)っている。

 まるで、あの夜会の成否が東風(こち)自身にも深く関わっていたように。

 何かを言い返そうとして、言葉が止まる。
 視線を上げると、黒い(ひとみ)がまっすぐにこちらを捉えていた。

紬路(つつじ)姫」

 名を呼ばれる。

「私は」

 一拍、言葉が切れた。
 馬車の車輪の音が、やけに近く聞こえる。

「この先の生涯、あなたとだけ踊りたい」

 それは、あまりにも自然に、静かに告げられた。
 遅れて、その重みが胸へ迫ってくる。

 言葉が出ない。
 ただ、胸が強く律動を打ち始めた。
 東風(こち)と踊る時のように、呼吸が乱れる。

「急なことだと承知しています」

 東風(こち)は揺らがなかった。
 言葉の奥に、動かしようのない決意が据えられている。

「ですが、今でなければならない」

 静かな断定だった。
 その裏に何があるのか、紬路(つつじ)にはまだ測りきれない。

「……わたくしは」

 けれど、その先が続かなかった。

 ――破滅回避覚書。

 志乃の書いた題箋(だいせん)が、目裏(まなうら)に浮かぶ。
 皇統、あるいは公卿(くぎょう)の宮筋に連なる者以外との縁は、破滅へ至る。

 目の前の青年が決して卑しからぬ出自であることは、もはや疑いようもない。
 舞踏の見事さ。
 隙のない食事作法。
 自然に口をついて出る、宮中(きゅうちゅう)の言葉。

 そのどれもが物語っている。

 けれど、それでは足りないのだ。
 紬路(つつじ)には、まだ足りない。

 心はもう、答えを知っているのに。

 東風(こち)の手が、ゆっくりと伸びた。
 手袋のない、素の指先。
 それが紬路(つつじ)の手に触れる。

 ひやりとした感触に、息が止まった。

 指先から、空気を入れるように少しずつ剥がされていく。
 するり、と、手袋が外された。
 誰にも止められぬことを知っている者の手つきだった。

 礼法を越えている。
 判っているのに、拒めない。

 ()き出しになった手を取られる。
 逃がさぬように。
 けれど、(うやうや)しく。

 黒い(ひとみ)と視線が合った。
 逃げ場は、もうない。

 そのまま――
 東風(こち)の唇が、指先に触れた。

 初めて逢ったあの日には、触れなかった接吻(せっぷん)だった。

「あなたを、他の誰にも渡す心算(つもり)はない」

 抑えた言い切りの内に、揺るがぬ意志が据えられている。
 紬路(つつじ)は、目を伏せた。

「あなたはもう、舞踏会で三度も私と踊った。異国の作法では、婚約を了承したのと同義です」

 拒む理由は、幾つもあるはずだった。

 身分。
 立場。
 家。
 そして、破滅へ至る運命。

 頭では、幾らでも並べ立てられる。
 けれど、そのどれもが今は遠い。

 馬車は、六条へと進んでいく。
 車輪の(きし)む音が、やけに大きく耳に残った。

 その揺れの中で、紬路(つつじ)の手はまだ東風(こち)の手の中にあった。
 振り(ほど)こうと思えばできたはずなのに。

 指先に残る熱が、それを許さなかった。