馬車止めに着くと、鹿鳴館の従僕がすぐさま扉を開いた。
菊の籬に彩られた階段が、明るい玄関口へ続いているのが見える。
東風は白い手袋を嵌めたまま、恭しく手を差し出した。
紬路は片手で洋衣装の裾を軽く絡げ、もう片方の指先を東風の手に預けて馬車を降りる。
触れたのは布越しの温度だけだった。
いつかのような、生身の感触はない。
二階の舞踏室の手前で、また別の従僕から舞踏帳を受け取り、中に進むと、広間は既に人で満ちていた。
燭台の光が揺れ、絹と宝石とが折り重なる。
笑い声が幾重にも重なり、音楽がまだ始まらぬうちから場は熱を帯びていた。
社交界は、互いに顔見知りばかりだ。
見事な洋衣装を纏っていても、談笑の輪は結局、昔から知る家同士で纏まっている。
異人も幾人か立ち混ざってはいたが、その周りだけ、人の流れが僅かに迂回していた。
誰も、あからさまに背を向けるわけではない。
挨拶はする。
微笑みも返す。
けれど、扇を口許へ上げるまでが早い。
象牙の扇の陰で目を逸らし、言葉を短く切り上げ、次の相手を探すふりをして離れていく。
異国の紳士が一歩近付けば、こちらの令嬢たちは半歩、見えぬ線の内側へ退いた。
その線は、床に引かれているわけではない。
それなのに、誰もが知っている。
踏み越えれば噂になる。
近付きすぎれば、誰かに見られる。
そういう臆病な空気が、広間の中に薄く張り巡らされていた。
これでは駄目なのだ、と紬路は思った。
到着してすぐ、初舞踏の方陣舞が演奏されると、約束どおり東風の手を取って踊りながら、紬路は考えを巡らせた。
異人を避け、顔見知りとだけ固まっていては、この舞踏会の意図にも沿わない。
外つ国に対し、我が国の文化が対等に渡り合えるだけの素養を持つと示さねばならない。
終わるや否や、舞踏帳の記名はたちまち埋まってゆく。
休憩を挟みつつ舞を重ね、妙齢の華族男性たちに囲まれながらも、尚も思考を続ける。
どうにかして彼方から、紬路の方へ声を掛けて来るよう仕向けなければならない。
紬路は、わざと舞踏帳が埋まらぬよう途中で伏せた。
それから駐在公使の子息たちが集う一角へ足を向ける。
誘われるのを待つふりをして、淡い色の髪が並ぶ壁際の傍らに立った。
わたくしだけが、羅紗緬の子である瑠衣と共に育った。
華族令嬢でありながら、商いを通して外つ国と繋がる手段を持っている。
ならば、物怖じする理由などない。
失った縁談も、遠ざかった宮中も、わたくしを空っぽにしたわけではない。
この身に残ったものはある。
この手で掴み直したものもある。
紬路は、昂然と顎を上げた。
一人、申し込んでくれる者があった。
「よろしければ、一曲」
洋語は丁寧で、断られた場合の逃げ道まで残す言い方だった。
しかも此方風の会釈まで、ぎこちないながら添えられている。
紬路は承諾の印に、控えめに手を差し出した。
お互いの呼吸を探るような、控えめで誠実な舞だった。
踏み込み過ぎず、逃げ腰にもならない。
その巧みな距離の取り方に、彼が人と国との間で育ってきた者なのだと知れた。
一曲が終わると、二人は軽く礼を交わした。
公使子息の手が離れて温度が消えた瞬間、周囲の気配が戻ってきた。
「――まあァ、ご覧になって?」
「異人と……」
三鞭酒を片手に、ひそひそと嗤う気配が始まる。
「羅紗緬の子と親しいとか。右京の端の見世で、随分人目をお集めになっているそうよ」
「何を販いでいらっしゃるのか判らないのですって」
「やはり、ああいうところが――」
紬路は目を伏せ、聞こえないふりをした。
すると、東風がどこからともなく現れた。
「少し、お話でも」
程よい距離を保ったまま歩み寄り、社交の礼に収まる形で紬路に向き合う。
周囲の視線を引き受けながら、何事もなかったかのように振る舞ってみせた。
「先ほどは挨拶が叶わなかった。よろしければ、今暫し」
同伴して来たにもかかわらず、あえて知己の浅い者同士を装う。
庇うために、ぎりぎり不自然に見えぬ線を選んでくれているのだ。
「ええ」
けれど紬路は、この青年の何を知っているというのだろう。
この舞踏会へ向けて、手を取り合って踊りの練習した。
つつ屋では、惜しげもなく布を選んでくれる。
それだけだ。
それなのに、謎めいた何かが隠されていると判っていながらも。
その秘密を知らぬまま、何故か離れがたく感じてしまう。
やがて夜も更け、出席予定の令嬢たちが一通り顔を揃えた頃。
一際威を帯びた外つ国の駐在公使が、式部省雅楽寮の指揮者に何事かを囁いた。
音楽が流れ始める。
華やかな旋律が、今は何かの宣告のように聞こえた。
「今年のデビュタント――前へ」
その一言に、場の気配が一変した。
白を纏った華族令嬢たちが、静かに歩み出る。
だが、先に舞っていた異国の子女たちの輪に目を留めた途端、その足が次々に止まった。
左回りの円舞曲。
最も難度が高いとされる、あの墺太利円舞曲だった。
誰か一人が進めば、続く者もいたかもしれない。
けれど、その最初の一歩を踏み出せる娘がいない。
紬路が東風に手を取られた、その瞬間。
迷いは、断ち切られた。
――わたくしだけだ。
東風と共に、この場を収められるのは。
異国の客人の前で、我が国の華族令嬢が誰一人踏み出せぬまま終わるなど、あってはならない。
華族に生まれた娘として。
見世に立ち、此れから異国と渡り合う娘として。
そして、最早誰かに選ばれるのを待つだけではない女として。
今、顔を上げるのは、わたくしだ。
紬路は毅然と胸を張った。
「参りましょう」
東風がすぐ傍へ寄る。
背へ回された手のひらに導かれ、距離が消えた。
回る。
くるり、くるりと。
最初の一歩で、全てが決まった。
重心が、ぴたりと合う。
白が光を含んで弧を描く。
一つ、遅れる。
すぐに引き戻される。
その繰り返しが、やがて一つに繋がっていく。
視界は流れ、残るのはただ一人。
呼吸さえ、いつの間にか重なっていた。
東風の吐息が、かすかに頬を掠める。
「ほら」
声が耳許へ落ちた。
「できている」
その声に、さらに身体が応じる。
回転が深くなる。
広間の騒めきが遠のいていく。
「あなたの二度目の初披露目に、間に合ってよかった」
意味を問う暇もなかった。
音楽が、次の拍へ紬路を連れ去っていく。
菊の籬に彩られた階段が、明るい玄関口へ続いているのが見える。
東風は白い手袋を嵌めたまま、恭しく手を差し出した。
紬路は片手で洋衣装の裾を軽く絡げ、もう片方の指先を東風の手に預けて馬車を降りる。
触れたのは布越しの温度だけだった。
いつかのような、生身の感触はない。
二階の舞踏室の手前で、また別の従僕から舞踏帳を受け取り、中に進むと、広間は既に人で満ちていた。
燭台の光が揺れ、絹と宝石とが折り重なる。
笑い声が幾重にも重なり、音楽がまだ始まらぬうちから場は熱を帯びていた。
社交界は、互いに顔見知りばかりだ。
見事な洋衣装を纏っていても、談笑の輪は結局、昔から知る家同士で纏まっている。
異人も幾人か立ち混ざってはいたが、その周りだけ、人の流れが僅かに迂回していた。
誰も、あからさまに背を向けるわけではない。
挨拶はする。
微笑みも返す。
けれど、扇を口許へ上げるまでが早い。
象牙の扇の陰で目を逸らし、言葉を短く切り上げ、次の相手を探すふりをして離れていく。
異国の紳士が一歩近付けば、こちらの令嬢たちは半歩、見えぬ線の内側へ退いた。
その線は、床に引かれているわけではない。
それなのに、誰もが知っている。
踏み越えれば噂になる。
近付きすぎれば、誰かに見られる。
そういう臆病な空気が、広間の中に薄く張り巡らされていた。
これでは駄目なのだ、と紬路は思った。
到着してすぐ、初舞踏の方陣舞が演奏されると、約束どおり東風の手を取って踊りながら、紬路は考えを巡らせた。
異人を避け、顔見知りとだけ固まっていては、この舞踏会の意図にも沿わない。
外つ国に対し、我が国の文化が対等に渡り合えるだけの素養を持つと示さねばならない。
終わるや否や、舞踏帳の記名はたちまち埋まってゆく。
休憩を挟みつつ舞を重ね、妙齢の華族男性たちに囲まれながらも、尚も思考を続ける。
どうにかして彼方から、紬路の方へ声を掛けて来るよう仕向けなければならない。
紬路は、わざと舞踏帳が埋まらぬよう途中で伏せた。
それから駐在公使の子息たちが集う一角へ足を向ける。
誘われるのを待つふりをして、淡い色の髪が並ぶ壁際の傍らに立った。
わたくしだけが、羅紗緬の子である瑠衣と共に育った。
華族令嬢でありながら、商いを通して外つ国と繋がる手段を持っている。
ならば、物怖じする理由などない。
失った縁談も、遠ざかった宮中も、わたくしを空っぽにしたわけではない。
この身に残ったものはある。
この手で掴み直したものもある。
紬路は、昂然と顎を上げた。
一人、申し込んでくれる者があった。
「よろしければ、一曲」
洋語は丁寧で、断られた場合の逃げ道まで残す言い方だった。
しかも此方風の会釈まで、ぎこちないながら添えられている。
紬路は承諾の印に、控えめに手を差し出した。
お互いの呼吸を探るような、控えめで誠実な舞だった。
踏み込み過ぎず、逃げ腰にもならない。
その巧みな距離の取り方に、彼が人と国との間で育ってきた者なのだと知れた。
一曲が終わると、二人は軽く礼を交わした。
公使子息の手が離れて温度が消えた瞬間、周囲の気配が戻ってきた。
「――まあァ、ご覧になって?」
「異人と……」
三鞭酒を片手に、ひそひそと嗤う気配が始まる。
「羅紗緬の子と親しいとか。右京の端の見世で、随分人目をお集めになっているそうよ」
「何を販いでいらっしゃるのか判らないのですって」
「やはり、ああいうところが――」
紬路は目を伏せ、聞こえないふりをした。
すると、東風がどこからともなく現れた。
「少し、お話でも」
程よい距離を保ったまま歩み寄り、社交の礼に収まる形で紬路に向き合う。
周囲の視線を引き受けながら、何事もなかったかのように振る舞ってみせた。
「先ほどは挨拶が叶わなかった。よろしければ、今暫し」
同伴して来たにもかかわらず、あえて知己の浅い者同士を装う。
庇うために、ぎりぎり不自然に見えぬ線を選んでくれているのだ。
「ええ」
けれど紬路は、この青年の何を知っているというのだろう。
この舞踏会へ向けて、手を取り合って踊りの練習した。
つつ屋では、惜しげもなく布を選んでくれる。
それだけだ。
それなのに、謎めいた何かが隠されていると判っていながらも。
その秘密を知らぬまま、何故か離れがたく感じてしまう。
やがて夜も更け、出席予定の令嬢たちが一通り顔を揃えた頃。
一際威を帯びた外つ国の駐在公使が、式部省雅楽寮の指揮者に何事かを囁いた。
音楽が流れ始める。
華やかな旋律が、今は何かの宣告のように聞こえた。
「今年のデビュタント――前へ」
その一言に、場の気配が一変した。
白を纏った華族令嬢たちが、静かに歩み出る。
だが、先に舞っていた異国の子女たちの輪に目を留めた途端、その足が次々に止まった。
左回りの円舞曲。
最も難度が高いとされる、あの墺太利円舞曲だった。
誰か一人が進めば、続く者もいたかもしれない。
けれど、その最初の一歩を踏み出せる娘がいない。
紬路が東風に手を取られた、その瞬間。
迷いは、断ち切られた。
――わたくしだけだ。
東風と共に、この場を収められるのは。
異国の客人の前で、我が国の華族令嬢が誰一人踏み出せぬまま終わるなど、あってはならない。
華族に生まれた娘として。
見世に立ち、此れから異国と渡り合う娘として。
そして、最早誰かに選ばれるのを待つだけではない女として。
今、顔を上げるのは、わたくしだ。
紬路は毅然と胸を張った。
「参りましょう」
東風がすぐ傍へ寄る。
背へ回された手のひらに導かれ、距離が消えた。
回る。
くるり、くるりと。
最初の一歩で、全てが決まった。
重心が、ぴたりと合う。
白が光を含んで弧を描く。
一つ、遅れる。
すぐに引き戻される。
その繰り返しが、やがて一つに繋がっていく。
視界は流れ、残るのはただ一人。
呼吸さえ、いつの間にか重なっていた。
東風の吐息が、かすかに頬を掠める。
「ほら」
声が耳許へ落ちた。
「できている」
その声に、さらに身体が応じる。
回転が深くなる。
広間の騒めきが遠のいていく。
「あなたの二度目の初披露目に、間に合ってよかった」
意味を問う暇もなかった。
音楽が、次の拍へ紬路を連れ去っていく。



